1月13日 年頭雑感

松が取れ、1月も半ば。

小正月のどんど焼きは、幼い頃の思い出で、年中行事は簡略化するばかり。

それでも、今年はおせちのきんとんを久しぶりに手作りした。

暮に、ひょいとテレビをつけたら、「簡単な栗きんとんのつくり方」をやっていて、

思わず見入り、その通りに電子レンジを活用して作ったら、本当に簡単に出来た。

テレビは、こういう偶然の出会いに妙味がある。

 

お雑煮の餅も、ここ数年は一つで充分。三つ食べていた若い頃が懐かしい。

それにしても、おめでたい食べものに「雑」を冠するとはいかに?

と、民俗学者の神崎宣武さんが書いていらっしゃる。

「総煮」や「惣煮」の方が似つかわしく、江戸時代の文献にはその表記がみられるという。

 

「雑」という字は、なるほど印象がよくない。

粗雑、雑音、雑駁…とは無縁に、こまやかに仕事をしなければ、と思う。

しかし、身近で楽しい「雑」もある。

 

仕事を始めた頃、先輩から「アナウンサーは雑学が大事だ」と言われた。

広く浅く、あらゆる分野に好奇心を持て。

政治家、科学者、芸術家…誰にインタビューすることになるか分からないのだから、と。

雑談の名手は、名アナウンサーに通じる。

複雑、煩雑な事柄をほぐして語るのも、アナウンサーの仕事かもしれない。

雑誌の編集に生涯をささげた、魅力的な知人もいた。

かつて、夕方のニュースで言葉のアドバイザーを務めてくださった、作家の城悠輔さんは、色紙に一筆求められると「雑草のごとく勁(つよ)くあれ」と書いていらした。

 

毎年、雑事に追われて日々が過ぎてゆく。

小さなひとつひとつは、しかし、おろそかに出来ない。

雑多な用事に丁寧に取り組んだ、その積み重ねが、成熟、円熟ということなのだと、

還暦を過ぎた今、大雑把な性分の自分を省みて、つくづく思う。

「雑」と名の付くものを、雑に括らず、手に取り、温めて過ごす一年にしたい。