4月23日 黙って朗読

コロナ禍と言われた3年余り、体温は毎日363分という健康体だったのに、コロナが5類になってから、風邪気味になること2度、そして今年3月、本格的な風邪をひいてしまった。

やはり、どこか気が緩んでいるのだろうか? 手を洗うことがおろそかになっているのかもしれない…と後悔しても、病気はすぐには治らない。

 

定年過ぎのシニア社員として、のんびり仕事をしている身なのだが、そういう時に限って、月1回の朗読の録音が、翌週に迫っている。

放送3回分、正味1時間15分の小説。収録の日までに、56回、通して音読練習するのが常である。1時間15分、元気な時なら、どうということもないのに、5分も経たないうちに、声がかすれて、咳き込んでしまう。

これ以上喉を痛めて、本番で声が出なくなってしまったら、それこそ仕事にならない。朗読作品としての「形」が、まだ出来上がっていないのだが、音読をあきらめ、「黙って朗読の稽古」ができないものか、と、すがるような思いで、声を出さずに読んでみた。

 

結果は…意外なほど面白かった。

黙読で丁寧に文字を追っていくと、物語を俯瞰することができ、小説の形が立体的に捉えられる。難しいな、と思っていた女主人公の台詞が、思いのほか数少ないことにも気づく。耳の中で声を響かせているつもりで黙読すると、ラジオのリスナーになったような感覚で、自分の朗読を、客観的に「聞く」ことができる…。これは、大いなる収穫であった。

 

音楽に携わる仕事をしている知人によると、楽器演奏も、頭の中だけで練習することができるという。アスリートのイメージトレーニングでは、体を動かしていないのに、イメージする部分の筋肉に、反応というのか、何らかの影響や変化があるらしい。

おっちょこちょいのせっかちで、朗読する作品が決まると、いきなり音読から始める私だが、原稿をもらって数分後には本番、というニュースとは違い、文学作品は、じっくり黙読して全体像をつかんでから音読、という方法が、正攻法なのかもしれない。遠回りのようで、案外近道か、と今さらながら、気がついた。

翌週の、収録本番は、本調子とはいかなかったが、「黙読の朗読練習」のおかげで、何とか、1時間15分、声を出して読み通すことができた。