真相報道バンキシャ!

ADは見た!

2012年1月23日

震災直後に取材したあの人は今③~陸前高田市消防団 大和田祐一さん~

こんにちは。ADの青木です。

昨年の年末に「震災当初に取材した方々は、今どうしているのか?」をテーマに
大和田裕一さんを取材しました。

2011年3月11日。地震が発生。
市内の会計事務所で仕事中だった大和田さんは急いで地元消防団の屯所に向かい
仲間達と共に、水門の閉鎖や消防車の起動作業を行いました。
水門閉鎖後、理由なく携帯電話の動画機能で海の様子を撮影。
その時、地震発生から30分近く経過しています。
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すると次第に海の状況が変わり
陸前高田市・広田湾に水門を超える大きな津波が押し寄せました。
目の前に水が迫ってくる現実。大和田さんは消防車に乗り込み
「逃げろ」「波が堤防こえてくるから」と
一刻も早く高台に上がるように住民に叫び続けました。

その時撮影した凄まじい津波の映像は
その後、多くの報道番組で伝えられました。


・・・・・・

あれから、9か月以上経った12月21日。
大和田さんを訪ねました。

大和田さんは会計士として生計を立てる傍ら
生まれ育った陸前高田市の消防団に所属。
米崎分団第一部部長という立場で町を自警しています。
家は津波で流され、現在家族は地元小学校の仮設住宅で暮らしています。
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仕事が終わり、地元に帰ってくる大和田さん。
真っ先に消防団の屯所に向かい、赤色灯をつけます。
仮設住宅では食事とお風呂だけで、毎日1人屯所で寝泊まりしているのだと言います。

大和田さん
「いつでも有事の時に動けるように
 こうやって屯所の灯は絶やさないようにしないといけない。
 なんかそこの扉を開けてね、亡くなった団員が帰ってきそうな気もするしね」
 
次は誰一人犠牲者を出したくないという思いを話してくれました。  
あの時、撮影した津波の映像について聞きました。

大和田さん
「(津波が来る前の)避難誘導も終わっていましたので、
 堤防の上でどんなものなのかなって、撮影していたっていうのが本音ではありますよね
 しかし、消防団員として防災に携わる者としては、ああいう風に危険な場所に身をさらすというのは
 やっぱりやってはいけない行為だったと思う」

大和田さんの言葉からは、自分がもっと出来ることがあったのではないかという
悔しさが伝わってきました。あの津波映像は防災関係の教材にも
使われていく事が決まっています。
最後に2012年を迎える心境を聞きました。

大和田さん
「いろんな形で心に傷を負った人達がね、少しでも
 心の安らぎが訪れてくれる様な環境になって欲しいなということ。 
 仮設もあと1年しか居られないですから、考えなきゃならないんでしょうけどね
 判断する材料が乏しすぎます。だからもうちょっとかかるんじゃないですか。
 時間経つのは容赦ないよね止まってくれないですよ時間だけは、
 我々の頭の中が止まっているだけでね・・・」

年が明けて1月9日、日本テレビの「スッキリ!!」で
大和田さんの息子さんと娘さん(双子)が成人式を迎えた様子が放送されました。
お子さん達からサプライズのプレゼントをもらって笑顔の大和田さんの表情を見れて
本当に嬉しい気持ちになりました。

2012年1月13日

震災直後に取材したあの人は今②~震災から1週間後に出産した倉本さん

初めまして。ADの笠原です。

12月25日放送のバンキシャ!年末SPの今週の顔のコーナーの中で
「震災当初に取材した方々は、今どうしているのか?」
をテーマにある家族のその後を取材しました。

放送上はOAされませんでしたが、ご紹介したいと思います。


東日本震災から1週間後の3月18日。
バンキシャ!が岩手県盛岡市の病院を訪ねたところ、
分娩室に運ばれる倉本里美さんと出会いました。

東京に住んでいる倉本さんは、
子供を出産するために実家の宮古に里帰りしていました。

出産予定日まであと一週間の3月11日。
東日本大震災発生。

実家近くの宮古の病院から救急車で運ばれ、
盛岡の病院までやってきた倉本里美さん。

分娩室へと入ると・・・

・・・・

「オギャー!オギャー!」

そこには、笑顔の里美さんの腕の中に優しく包まれた男の赤ちゃんがいました。

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里美さんと産まれた赤ちゃんの今は・・・


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今、倉本さんはどうしているのか・・・
バンキシャ!は倉本さんのお家を訪ねました。

そこには家の中をハイハイで動き回り、
つかまり立ちをする元気な男の赤ちゃんがいました。

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Q、「お名前は?」
妻・里美さん「孝高(よしたか)です」

どんな意味を込めて名前を付けられたのか伺ったところ

妻・里美さん「親孝行してほしいという意味で【孝】という字を、
津波の時は高い所に逃げるんだよという意味で【高】の字を付けました。」

震災の中、大変な思いをして産まれた我が子に両親は
特別な思いを込めて名前を付けていました。

夫の大(だい)さんは
震災時は東京で仕事をしており、
新幹線が通らず、家族と1か月以上会えませんでした。
大(だい)さんは、孝高くんが大きくなったら見せたいものがあると言います。

夫・大さん「震災時の映像を見せて、震災で起きたことをしっかりと伝えていきたい。
自分が産まれた当時の苦労も伝えていきたい」
と、震災時どんなに心配して産まれてきたのかを伝えたいそうです。

また、妻の里美さんはこんな子に育ってほしいと言います。

妻・里美さん「震災があった時に産まれ子だからこそ、たくましく育ってほしい。
あと人を思いやれて、人の痛みが分かる子になってほしいな思います。
みんなに支えられて産まれてくるのを、すごく感じたので、
いろんな人に支えられたことを感謝してほしい」

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震災直後に産まれた赤ちゃんは
両親の深い愛情を受けて、すくすくと育っていました。

今後も孝高くんの成長を見守っていきたいと思います。

2012年1月10日

震災直後に取材したあの人は今①~避難所で再会した小笠原さん~


こんにちは、2回目にお世話になります。
ADの中村です。

12月25日のバンキシャ!は2011年最後のOAとなりました。
「震災当初に取材させて頂いた方々はその後どのように過ごされているのか?」と考えた私たちは、
一組の家族を取材させていただきました。

震災直後、私たちが出会ったのは、
壊滅的な被害を受けた陸前高田市で妻を捜す小笠原あきひろさんでした。

あきひろさんは、息子と2人で3時間の道のりを歩き、
たどり着いた避難所で声をあげました。
「小笠原ちとせさんはいますか!」
その声に振り向いた女性。それが妻の小笠原ちとせさんでした。

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抱き合う家族に、避難所には自然と拍手が・・・。

・・・・・・・・・・

今、あの家族はどうしているのでしょうか。
私たちは、再度小笠原さんを訪ねました。
自宅が津波で流されてしまった小笠原さん一家。
高3と中3、2人の受験生を抱えているため、隣の大船渡市で新たに家を借りて暮らしていました。

「宝物ですよ。絆そのものです」
そう言ってご主人が見せてくれたのは、あの日家族をつなぐきっかけになった1枚のチラシ。
ちとせさんが自分の居場所を伝えるため、人に託したものでした。
「みんな元気ですか。早く会えるのを願っています」
居場所と家族へのメッセージが書かれたチラシが人から人へ、そしてあきひろさんの手に渡ったというのです。
携帯電話もまったく通じない中、初めてちとせさんの無事を確認した瞬間でした。

今、ちとせさんは、震災を通じて再確認した「人とのつながり」を胸に
被災地の卒業アルバムを再発行する取り組みを行っています。
自宅、そして学校も流された子どもたちの手元には、写真もほとんど残っていません。

「人とのつながり」を象徴する卒業アルバムを再発行することで、
なくなった思い出を少しでも取り戻そうとしているのだそうです。

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1枚のチラシが家族をつないだように、
卒業アルバムによって大事な思い出をつなぎとめることが出来れば。
震災直後にバンキシャ!が出会った小笠原さんのお宅では、
今後も応援し続けたい、新たな活動が始まっていました。