大畑川の渓流に沿いにある温泉郷で、周囲は原生林に囲まれている。 湯の湧き出し口が漢方薬を作る「薬研」という道具に似ていることで、薬研と名づけられた。 恐山を開山した慈覚大師(円仁)がカッパに助けられ、この湯で傷を癒した伝説から別名『かっぱの湯』とも呼ばれる。
道子には初めての吊り橋。おそるおそる渡っていると「結構ゆれるね~!」と、太一が橋の上でジャンプ!!! こちらの“乙女"は揺れる吊り橋に終始ドキドキの様子。
明治から昭和期に木材運搬のため、山間部に敷かれた森林鉄道。 大畑森林鉄道もその一つで、大畑川に沿って、大畑から奥薬研方面に伸びていて、ヒバの産地・大畑地区の林業を支えた。 大正15(1926)年までは馬がトロッコを引く馬トロが活躍。 戦後の昭和26(1951)年にはディーゼル機関車も導入された。 全長60キロにも及んだが、昭和37(1962)年に自動車への転換で廃止。 現在でも、遊歩道には森林鉄道の跡が残り、当時の面影を残している。
隧道(ずいどう)とはトンネルの古い呼び名。 昭和初期に、鉄道用にツルハシやハンマーで手掘りされ、大畑森林鉄道の木材の運搬に活用された跡地。 全長は100mもある長いトンネル。 真っ暗で先が見えないので、道子が怖がってなかなか入れなかった。
雪に足が沈まないように、積もった雪の上を歩くための履物。 縄文時代から使用されていた雪国での必需品で、馬用にも、着地面積が小さい輪かんじきがあった。 現在、この近辺で、柏谷さんだけが、かんじきを手作りできる。
人が、薪など木材を引っ張るときに使う、組み立て式のソリ。 馬のものは「ばじ」という。 元大畑営林署作業員の柏谷清八さんに、馬ソリを作るために頂いた。
北海道から四国に分布している越年草。ヨーロッパが原産で、明治末期に日本に渡来してきた。 3~5月に白い花を咲かせる。畑地や道端に生え、茎は直立で、さじ型の葉。 日本在来のミミナグサより花柄が短く、全体に毛が生えていて、花弁がはみ出ているのが特徴。 葉の形がネズミや猫の耳の形に似ていることから“ミミナグサ"と名づけられ、外国産ということで、頭に“オランダ"がついた。
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榊義治さんが営んでいる機械部品の加工や製造を行っている工場。 様々な機械があり、フライス加工など幅広くやっている。 地元名物であるイカを伸ばす「イカのし機」も作っている。 ここで、柏谷さんにいただいたソリを馬車用に改造するのを協力して頂いた。
馬車用のソリ作り中。 工場の前で待っている道子は、しばし休憩。 小雪舞う夕暮れ時、吐く息も白い。
昭和12(1937)年に着工し、資材運搬用として、大畑~大間・奥戸を結ぶ計画だった未完成の線路。 昭和18(1943)年に第二次大戦下の資材不足によって工事が中止された。そのため、大畑からの着工区間には現在も橋のような遺構が点在している。 その遺構の一部は、町の人々が畑にしたり、小屋を建てたりと生活の一部となっている。
イカの漁獲高が青森県でも上位の大畑町で、津軽海峡の潮風にさらして作る干物。 半生の干物から「生っぴ」と呼ばれる。 するめのように焼いて食べるのが一番美味しいが、揚げたり、炒めたり、和えるなど様々な用途で使える。 イカの生っぴで一番美味しい部分は、脚の付け根だと、村上ルリさん達は言う。 長瀬達は焼いたものを食べさせて頂いた。 道子に食べさせようとするが、全く興味を示さなかった。
ココ、脚の付け根部分だとおばあちゃんたち。
かつての本州最北の駅で、大畑線は下北から大畑までの18キロを結んでいたが、乗客が減って、赤字が続いたために2001年に廃線。 現在は「駅」と呼ばれるバスターミナルとなっている。 かつての駅舎はそのまま残してある。
大畑線をかつて走っていたディーゼル気動車。 キハ85のキは気動車(ディーゼルカー)という意味で、ハは客車の意味。 85は下北交通が使用し始めた年にちなんでいる。 廃線後、発足された保存会によって、定期的に点検と走行が行われている。 全長は20メートルで、客用扉が片開き2扉となっている。 昭和37年式旧国鉄時代から39年間、市民の足として活躍した。 長瀬が実際に運転させていただいた。
今回の歩み13.5kmスタートから130.9km