• 2015年12月21日(月)OA
  • 日本兵とフィリピン人女性 国境を越えた恋
  • 渡部絵美(プロフィギュアスケーター)×母・渡部リディア

プロフィギュアスケーター・渡部絵美さん(56)。1970年代を中心に活躍し、1980年のレークプラシッドオリンピックでは6位入賞、世界選手権では銅メダル獲得しました。さらに、「全日本8連覇」という記録は、伊藤みどりさんと2人しか達成していません。
絵美さんは、日本人の父・純一さんとフィリピン人の母・リディアさん(90)の間に生まれた5人兄弟の末っ子です。亡き父・純一さんは戦時中、海軍士官としてフィリピンに渡り、そこで母・リディアさんと出会いました。
絵美さんはこれまで、両親から戦争について詳しく話を聞いたことはありません。当時では珍しい国際結婚をした両親はどんな思いだったのか。都内で一緒に暮らす母・リディアさんに話を聞きました。

watanabe_151221_01.jpg

リディアさんは1925年、フィリピンのネグロス島で生まれました。両親は砂糖農園を経営し、豊かな生活だったといいます。
太平洋戦争開戦直後、日本軍はフィリピンなど南の島を次々と占領。しかし、1942年のミッドウェー海戦を契機に形勢が逆転し、各地で厳しい戦いを強いられるようになりました。
夫となる純一さんがネグロス島に来たのは1944年5月。海外主計大尉として、物資を調達する任務を受け、リディアさんの砂糖農園を訪れていたといいます。純一さん24歳、リディアさん18歳の時でした。

「純一さんは毎日農園に来たの。いろいろなお土産を持ってきたりしてね。家には、おじいさん、おばあさん、兄弟など、みんなで23人いたけれど、23人分の缶詰をお土産として持ってきてくれた」

watanabe_151221_02.jpg若かりし日の父・純一さんと母・リディアさん


連日農園に足を運ぶ純一さんに、やがてリディアさんは心を寄せるようになります。当時、戦争中とはいえネグロス島は比較的平穏で、リディアさんの記憶では、街の中は何も起きていなかったといいます。純一さんも、軍服ではなく背広姿で訪れていて、現地の人たちは「キャプテン・ワタナベ」と親しみを込めて呼んでいたそうです。

しかし、1944年10月、状況は大きく変わりました。フィリピン・レイテ島にアメリカ軍が上陸、日本軍が大敗を喫したのです。この頃には2人がいたネグロス島も連日、空襲を受け、飛行場など日本軍の施設が次々に狙われるようになりました。

「飛行機の音だけがウワーン、ウワーンって聞こえるの。そしたら、バーンって、ダディー(純一さん)の家に爆弾が落ちた。家は火事になって全部壊れてしまい、着る物がひとつもなくなったの」

家を焼かれた純一さん。幸いにしてリディアさんの家にいたため、この時は難を逃れました。
その後もフィリピンではルソン島など各地で激しい戦いとなり、日本軍は追い詰められていきます。明日をも知れぬ命と感じた2人は、悔いのない人生にしようと結婚を決意しました。両親に結婚の意思を伝えたリディアさんですが、当初は父親が泣いて反対したと言います。それでも激戦が続いていた1945年3月27日、2人はネグロス島で結婚式を挙げました。

しかし、その式からわずか2日後...。2人が暮らすネグロス島に、ついにアメリカ軍が上陸してきます。激しい攻撃を行うアメリカ軍に対し、日本軍は戦うための武器が足りず、圧倒的な兵力の差にジャングルへと後退。新婚の純一さんも約300人の部隊を率いて山の中へと隠れました。

「純一さんと離れるときは泣いた。私も一緒に行きたかった。だけど、私のお父さんが反対したの。ダメだって」

watanabe_151221_03.jpg

戦後、純一さんは当時の状況を、ジャーナリスト・岩川隆氏にこう語っています。
『情報は皆無といってよく、米軍が上陸してくるとは、私たち海軍も、そして陸軍も考えていなかった。私どもはコメなどの食料を担いで山中に後退しました。部隊は300人から、終戦時には半数の150人に減っていました。ほとんどが、密林の中で爆撃を受けて死んでいったものです』(「決定的瞬間」岩川隆著・中央公論社より抜粋)

太平洋戦争中、フィリピンでは日本人51万8000人、フィリピン人111万人余りが犠牲になったといいます。
純一さんは、ジャングルを5か月間逃げ回り、その間、リディアさんは必ず帰ってくると信じて待ち続けました。そして終戦後、純一さんはアメリカ軍に投降。ネグロス島にある収容所に入れられました。その事実を知ったリディアさんは、収容所に駆け付け、2人は、金網越しに再会を果たしました。

watanabe_151221_04.jpg

この時、夫・純一さんに、身ごもっていることを伝えたリディアさん。純一さんは戦後、当時の思いをこう話しています。

『とにかくお互い生きていることを喜び合いまして、無事に出産するよう祈りました。もしも日本に帰してもらえるのなら、もちろん妻子を同行して帰国したいと願っていました』(「決定的瞬間」岩川隆著・中央公論社より抜粋)

リディアさんは、純一さんが収容されている間に長男を出産。
純一さんが解放されたのは、終戦1年後のことでした。
そして、2人は日本に渡り、東京での暮らしを始めました。

「当時の日本は大変だった。食べ物がないの。魚が配給だったのね。1匹を3人で食べるの。お腹が空いていることにも慣れたわね...」

その後、2人は1男2女をもうけ、末っ子の絵美さんが生まれたのは1959年のことでした。

「マミーにとっての戦争って何?」
そう、母に尋ねた絵美さん。リディアさんはこう答えました。
「誰が戦争なんて好きかな。でも、戦争がなかったらダディー(純一さん)とは会えなかった。日本に来てなかったら、キャサリン(絵美さん)だってチャンピオンにならなかったじゃない。運命ね」

2人は年に数回、純一さんのお墓を訪れているといいます。取材の日も2人で手を合わせました。
母の体験を聞いた絵美さん、何を感じたのでしょうか。

「戦争を乗り越えてきている両親を見ていると、本当に感謝することばかりで、父と母の愛が私を育ててくれたんじゃないかなと思います。人間対人間の愛情というのは、戦争とか国境のない、ハートだったんじゃないのかなということを教えてもらいました。本当に、父、そして、マミー、ありがとう。」

watanabe_151221_05.jpg

※文章中の年齢はOA当時