• 2015年03月31日(火曜日)OA
  • 風船爆弾を作っていた女学生時代 「お国のため」の一心で...
  • 佐々木もよこ(タレント)×祖母

朝の情報番組「ZIP」の初代お天気キャスターを務め、現在はモデルやスポーツ番組の司会などマルチに活動するタレント・佐々木もよこさん(28)。母方の祖母・末光幸子さん(86)に戦争の体験を聞いてもらいました。もよこさんにとって祖母・幸子さんは「いろんなことをいつも教えてくれるおばあちゃん」。日頃は愛媛県で一人暮らしをしていますが、冬の間は横浜市のもよこさんの自宅で一緒に暮らしています。

sasaki_150331_01.jpg

太平洋戦争が始まった翌年の1942年。幸子さんは13歳で愛媛県の女学校に入学しました。
「最初に教科書を買ったとき、英語の教科書もあったの。でも、アルファベットを教わるか教わらないかのうちに『敵国語だから禁止』ということになって、英語の教科書を焼きなさいと言われて焼いたの。だからおばあちゃんは全然英語が読めないの」
当時は英語だけでなく、教室で学ぶことすらほとんどなかったといいます。代わりに勤労奉仕や体力をつけるための授業(10キロに及ぶ行進や遠泳)などが行われました。「今では信じられないような、本当にどん底の教育」だったと幸子さんは当時を振り返ります。

戦況がいよいよ厳しくなってきた1944年11月。女学校3年になっていた幸子さんは、深刻な労働力不足を補うため、「学徒動員」で故郷を離れ大阪で働くことになりました。そのとき母親は涙を流したといいます。
「男の子は戦争だから覚悟をしていたけれど、『女の子まで取られるとは夢にも思わなかった』って。『戦地にも似たところへ送り出すのは本当につらい』って母は泣いたの。だけど教育って怖いもので、みんなもうお国のためになることしか考えていないから、私はそんな母を恥ずかしいとさえ思ったの。そんな時代だったの」

sasaki_150331_02.jpg

現在の大阪城公園にあった陸軍の工場『大阪砲兵工廠』。そこで幸子さんは、『風船爆弾』を作る作業に従事しました。『風船爆弾』は陸軍が開発した兵器で、直径約10メートルの風船の下に爆弾をつけ、偏西風に乗せてアメリカまで飛ばすというものでした。

その風船爆弾のレプリカが、明治大学生田キャンパス(神奈川・川崎市)にある平和教育陸軍登戸研究所資料館に展示されています。戦時中、この場所に風船爆弾を開発した陸軍登戸研究所がありました。
もよこさんと祖母の幸子さんに訪ねてもらい、当時の話を聞きました。

sasaki_150331_03.jpg

「おばあちゃん、この爆弾になる紙の生地の一部を作っていたの。」

幸子さんによれば、風船は、5枚の和紙を重ねて張り合わせ、生地にしていたといいます。

「紙にこんにゃく糊を横に一度塗ったら、今度は上から下に向けて縦に塗って、それから張り合わす間に空気を入れないようにして密閉するわけね。技術も必要だったし、体力も必要だったのよ。作業を終えて帰るときは体が全部糊だらけ。乾いたら寒風が当たって痛いぐらいだった。何もかも忘れて、お国のためになる一念で一生懸命働いたわ」

こうした風船爆弾の製作は全国各地で行われ、女子学生らが動員されていました。幸子さんは朝8時から夕方5時までほとんど休日もなく働いたといいます。しかし、製造は軍が秘密裏に行っていたものだったため、自分が作っているものが兵器の一部になるとはしばらく知らされなかったといいます。
登戸研究所資料館によると、1944年から45年にかけて9300発の風船爆弾が飛ばされ、うち1000発以上がアメリカ本土に到達したそうです。これにより6人が亡くなりましたが、戦局に大きな影響を与えることはありませんでした。

施設を見学し終えた幸子さん。当時の作業や、亡くなった人もいた事実を知り、声を震わせました。
「本当に思い出すよ...せめてあまり人を殺していなかったのが嬉しい。
本当になんだったんだろう、あれは...」
幸子さんの目には涙が浮かびました。

sasaki_150331_04.jpg

やがて大阪への空襲が激しくなり物資も乏しくなったため、風船爆弾を製造する作業は1945年の6月には終了し、幸子さんは故郷の愛媛に戻されたといいます。

10代の青春時代を国に身をささげる一心で生きた幸子さん。平和な今という時代に思いをはせます。

「たった一人の娘を軍事工場にやるのに母が愚痴をこぼすことさえ非国民だと言われて自由を束縛されたでしょ。本当に平和だからこそいろいろと言いたいことも言える。
おばあちゃんらの世代があれだけの犠牲を払って勝ち得た自由を、この平和を、もよこちゃんたちがしっかりと守っていってほしいな」

sasaki_150331_05.jpg

祖母の体験をたどってきた孫・もよこさん。何を感じたでしょうか。

「おばあちゃんの大変だった思いを今日たくさん聞いたとはいえ、それはおばあちゃんの人生の数日間だったり数か月の出来事。私の人生よりも何倍も濃い内容で生きてきたんだなと思うと、私はもっと一日を大切に生きて、もっと身のある人間になりたいと思いました」

※文章中の年齢はOA当時