• 2015年05月12日(火曜日)OA
  • 昭和の名投手 米軍機の攻撃で同級生が亡くなる
  • 金田賢一(俳優)×父・金田正一 (元プロ野球選手)

俳優・金田賢一さん(53)は、舞台やドラマなどで活躍する傍ら、自ら朗読公演も行っており、そこで「戦争と平和」をテーマにした題材を取り上げるなど戦争を語り継ぐことに深い関心を寄せています。
そんな金田さんの父は、昭和のプロ野球の名投手・金田正一さん(81)。今回はじめて正一さんの育った愛知県平和村(現・稲沢市)を親子で訪れ、その戦争体験を聞きました。

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太平洋戦争が始まったとき、正一さんは8歳。戦時中も近所の河原でよく遊んでいましたが、1944年頃になると、名古屋方面へ飛んでいく米軍の爆撃機を何度も目にするようになりました。
「あの山が爆撃に向かう目標だった」
そう言って正一さんが山の稜線を指さしました。正一さんが住んでいた平和村は名古屋の北西に位置し、当時、名古屋を攻撃にいく爆撃機の通り道になっていたのです。
1944年12月から本格的に始まった名古屋への空襲は、当初は軍の関連施設が狙われていましたが、1945年に入ると焼夷弾による市街地への無差別爆撃が繰り返し行われるようになりました。

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そんな中、正一さんは米軍の攻撃で同級生が亡くなるのを目の当たりにします。
それは1945年初めのこと。当時、小学5年生だった正一さんは空襲の意味があまり分からず、米軍機が通るとその格好良さに手を振って喜んでいたといいます。ところがある日、その米軍機が容赦なく無差別に撃ってきたのです。すぐ近くにいた同級生が、その弾の勢いで跳ねた石が胸に当たり、亡くなりました。
「ここで撃たれた。本当に忘れられんわ...。ほんの米粒のような傷だよね。死ぬ顔も見てる。子供心に、あまりの空襲のひどさに...」
正一さんは言葉を詰まらせました。

kaneda_150512_03.jpg真ん中が正一さん(6歳頃)

この当時、正一さんは疑問に感じていることがありました。それは、新聞各紙に並ぶ日本軍優勢の記事。例えば1944年12月18日に行われた名古屋の空襲については、各紙とも米軍機17機を撃墜、20機以上に損害を与えたと書いています。しかし、同じ日の米軍の作戦任務報告書を見ると、損失を与えられた機体は4機のみ。撃墜の記録もありません。当時の日本の新聞は、軍の最高機関である大本営の発表をそのまま報じるしかなかったのです。

正一さんは、小学6年生の途中で岐阜県に疎開し、そこで終戦を迎えました。終戦後は名古屋に引っ越しますが、戦後すぐは進駐軍から買ったたばこを転売して家計を助けるなど、必死だったといいます。当時は12~13歳でしたが、時には家族の食料を買うため、約12キロ離れた農村までリヤカーを引いて往復することもありました。

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「名古屋の町は空襲でやられて物資がなかった。(近隣の)春日井や小牧の方にいけば田畑があって食べ物がある。リヤカーを引っ張って食料を買って帰ってくるときの脚力の必要さ!引っ張って帰ってこないことには家にはたどり着けない。ただ、『おっかさん買ってきたよ!』『正一、ありがとう』という会話ができることが最高だった。ただ元気に生きている、それこそが最高の幸せだった」

日々の生活で自然と培われた強靱な脚力は、終戦から3年後、14歳で野球を始めると大いに役立ちました。そして、同じ頃、かつてスター選手だった沢村栄治投手など多くのプロ野球選手が戦争に駆り出され、犠牲になったことを知りました。その後、出征した選手たちが戦地で手りゅう弾を投げて肩を壊した話も聞きました。実際、戦時中の野球雑誌の記事には、プロ野球の試合が始まる前に「米英撃滅」と書かれた的に向かい、選手たちが手りゅう弾を投げる競技が行われていた様子が掲載されています。

早く生まれていれば、自分の命もなかったかもしれない...。正一さんが戦後70年の今、思うこととは。
「とてつもなく戦争がいたずらだったと思うよね。だから人は、たとえ個人的にでも絶対人に手を出しちゃダメだ。どんなことがあってもダメだ。人に思いやりを持ち、親を思い、親と同じように子を育て、平和のリレーで国を守ってほしい」

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父の熱い思いを聞いた息子・賢一さん。
「戦争はドラマとかで演じることもあるので父の気持ちはすごくよく分かるし、僕らはそのバトンを次の世代につないでいかないといけない使命を持っていると思うんですよ。昭和生まれの人間としては、やはりつないでいかないといけないという思いをさらに強くしたかなという気がしますね」

※文章中の年齢はOA当時