• 2015年09月29日(火曜日)OA
  • 台湾沖"バシー海峡"に沈んだ多くの命
  • 特別版)清原繁治さん(元陸軍所属の通信係・バシー海峡生還者)

台湾南端の岬・猫鼻頭(マオビトウ)に、「潮音寺」という寺があります。戦後70年にあたる今年8月2日、この寺に、多くの日本人が訪れ、戦没者の慰霊祭を行いました。この寺から見える台湾沖のバシー海峡で、戦時中、多くの日本人が犠牲となったのです。

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バシー海峡は、台湾とフィリピンの間に横たわる約150キロの海峡。日本軍はここを、攻防戦が続く南方へ物資と兵士を輸送するための航路に指定していました。戦争末期、アメリカ軍はバシー海峡を通る日本の輸送船を、潜水艦などで徹底的に攻撃。沈没した船は200隻以上、犠牲者は10万人以上に上るとされ、ここは『魔の海峡』と恐れられました。

慰霊祭には、海で亡くなった人々の遺族が多く参加しました。田島康英さん(73)は、2歳だった1944年に兵士だった父親をこのバシー海峡で亡くしたといいます。父の遺影を台湾まで持ってきていた田島さん。「会いに来たよ」と、父親に声をかけたと話します。

kiyohara_151001_02.jpg父をバシー海峡で亡くした田島さん(左)

父親がどのような状況でなくなったのかはわかりませんが、戦後、母親のもとに、遺骨のかわりに丸めた新聞紙が入った骨壺だけが届いたそうです。これまで父親を慰霊する場所を探し続けてきたといいますが、今年、偶然新聞で慰霊祭のことを知り、参加することができました。
「これでなんとなく鎮魂ができたような...気持ちがすっきりしました」そう話し、田島さんは涙をぬぐいました。

同じく初参加の宍戸正明さん(75)は、4歳の時に父親をバシー海峡で亡くしました。「長い間来なくてごめんなさい」と海に向かって語りかけていました。

有方美奈子さん(73)は、兵庫県から初参加しました。慰霊祭のあと、岬の海岸で一握りの砂を拾っていました。帰らぬ父親の遺骨の代わりに、6年前に亡くなった母親が眠るお墓に、一緒に納めるといいます。「帰ろうな、お父さん」そうつぶやきながら、大切に砂を包みました。

70年前、バシー海峡では何があったのか。私たちは、当時アメリカ軍の攻撃を受けながら生還した方に話を聞くことが出来ました。大阪に住む清原繁治さん(85)です。
清原さんは、1944年7月、わずか14歳で陸軍に所属する通信係になりました。当時、日本軍は多くの兵力を失い、少年すらも戦地へと向かわせていました。清原さんは戦地フィリピンに向かうため、輸送船『吉野丸』に乗り込みました。そして、バシー海峡にさしかかる直前、隊長からこう言葉をかけられたといいます。
「マニラに向かうぞ!これからが一番怖いところだ。アメリカの潜水艦がうようよいて、日本船を待ち構えている」

kiyohara_151001_03.jpgバシー海峡で生還した清原さん

当時、南方戦線への補給や燃料の輸送ルートだったバシー海峡。アメリカ軍はそれを絶つため、何隻もの潜水艦を配備しました。その作戦は、オオカミの群れが獲物を待ち伏せする様子に例えて「群狼作戦」と呼ばれていました。

1944年7月31日早朝、清原さんを乗せた吉野丸は、バシー海峡で魚雷の攻撃を受けました。
「ものすごい衝撃ですよ。ドスーン!!とね。兵隊が『ギャー!』と叫んで船が傾くでしょう。硝煙、火薬の臭いがする。その間に海水が船内にどんどん入ってくる」
輸送船の中は、兵士や武器、弾薬などを大量に運ぶため、改装されていたといいます。清原さんの乗った『吉野丸』も、多くの人が横になれるよう、3段の棚が作られていました。もともと定員800人ほどの貨客船でしたが、このときは兵士や看護師など5000人以上が乗っていました。中には、清原さんのような少年も100人以上いたといいます。魚雷の攻撃を受けたとき、清原さんはたまたま出入口付近の床で寝ていたため、すぐに甲板に出ることが出来ました。
「兵隊が海に飛び込んでいる。隊長が落ち着かせようとして『この船は絶対に沈まん!』と言っているが、海水はどんどん上がってきている。あかんで、飛び込むか!と言って水に入った。飛び込むというよりも、海に降りるという感じで」

海面が迫る中、海に入った清原さんは、運よく浮いていた救命いかだにすがり付くことができました。少年だった清原さんはいかだの上に乗せてもらい、大人の兵士たちは端にしがみついていました。漂流し救助を待つ間に、何人も死んでいったといいます。
「死ぬ人はね、体が冷えてきて眠たくなるんですよ。『寝たらあかんぞ』と言って起こす。『兵隊さん起きろ』と言っても、結局口を開けたまま海に流れていく。ほかの兵隊が、『成仏せいよ』と言って海へ押し出してあげる。海水が口の中に入ったり出たりして、そうやって死んでいった兵隊さんもいた」

kiyohara_151001_04.jpg※清原さんの証言をもとに製作

5000人以上が乗船していた吉野丸ですが、わかっているだけで半数近い人々が亡くなっています。清原さんは、14時間漂流したのち味方の船に助けられ、その後、戦地フィリピンへと向かいました。

台湾の岬・猫鼻頭(マオビトウ)の海岸には、当時、日本人の遺体が多く打ち上げられたといいます。当時を知る現地の男性は、「たくさんの遺体が流れ着いたのを見た。上半身やけどをしている人もいたし、中には足を銃で撃たれていた人もいた」と話します。猫鼻頭(マオビトウ)は、バシー海峡で亡くなった人々が潮に流されたどりつく、終焉の場だったのです。

kiyohara_151001_05.jpg潮音寺

その岬に建つ「潮音寺」は、34年前、中嶋秀次さん(故人)によって建てられました。中嶋さん自身もバシー海峡で生き残った一人です。中嶋さんは、兵士だけでなく、看護師として駆り出された女性たちや捕虜となっていた外国人など、国籍や男女の別なく、バシー海峡に沈んだすべての人々の霊を慰めたいと、現地の人々の協力を得てこの寺を建てました。

多くの命が犠牲となったバシー海峡。語り継がなくてはならない戦争の悲劇がここにもあります。

※文章中の年齢はOA当時