• 2015年10月20日(火曜日)OA
  • 「日本」だった"台湾"で育った祖父母
  • 黒島秀佳(日本テレビ記者)×祖父母

日本テレビの政治部記者で総理大臣の番記者を務めている黒島秀佳記者(25)。話を聞くのは父方の祖父母です。祖父母は現在、台湾に住んでいます。黒島記者は父親が台湾人で母親が日本人。子どもの頃、台湾で暮らしたこともありました。

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台湾は日清戦争後の1895年から太平洋戦争が終わる1945年までの50年間、日本が統治していました。そのため、祖父母は生まれたときから日本の教育を受けてきました。また、町には今も、統治時代の建物が数多く残っています。今回、黒島記者は、「台湾が植民地だったという事実も知っているし、日本から旅行者も多いけれど、実際に戦時中はどんな暮らしだったのか、どんな教育だったのかを聞きたい」と取材に臨みました。

太平洋戦争が始まったとき、祖父・李天楽さん(85)は11歳、祖母・楊順格さん(81)は7歳でした。戦争中のつらかった思い出を尋ねると...
祖母・順格さん「配給があったから生活には困らなかった」
祖父・天楽さん「お米、野菜、魚、豚肉の配給。戦争がつらかった記憶はあまりない」
そう答えました。2人に、戦争でつらかったという思いはあまりないようです。

当時2人は小学生。学校で台湾語は禁止されていました。教師は日本人で、教科書は日本語。生まれたときから台湾は日本だと思っていたため、日本語の教育に疑問を感じることはなかったと話します。学校では「君が代」も習い、今でもその記憶は残っています。
「♪君が代は~」
祖父母は黒島記者の前で笑顔で「君が代」を歌ってくれました。

kuroshima_151020_02.jpg君が代を歌う祖父母

「日本のことが好きな親日な人が台湾にすごく多いのは何でだと思う?」と問う黒島記者に、祖父・天楽さんは「日本は誠実だった」と。また、祖母・順格さんは「分け隔てなく公平だった。卒業生に仕事がないときには、先生はたばこ会社を紹介してくれた」と話しました。

ほかにも台湾では、植民地時代に日本が道路や鉄道・上下水道などのインフラ整備や、産業の振興を進めたことなどから、日本に親しみを持つ人が多いといいます。祖父・天楽さんは、終戦で台湾が解放され、日本人が去っていくときには、「泣く日本人に対して台湾人も泣いていた、かわいそうだった」と語ります。

取材の日、祖母・順格さんは、より統治時代のことを知っているという幼なじみを黒島記者に紹介してくれました。同じ小学校に通っていた6歳上の李鄭昭さん(87)です。李さんは黒島記者に小学校の卒業アルバムを見せてくれました。そこには、当時の授業の様子が分かる写真が載っていました。

kuroshima_151020_03.jpg松山小学校の卒業アルバムより

『大東亜戦局図』と黒板に書かれた写真では、教室で、日本が今どういう戦いをしているのか学んでいる様子が分かります。壁には、『進め誉れの志願兵』という張り紙も。
また、別の写真には市民が守るべき教えがありました。『強くあれ日本は国運を賭している。この重大決戦を最後まで頑張れ』と教えられたようです。

kuroshima_151020_04.jpg「決戦生活五訓」を教える様子

当時、日本の勝利を疑わなかったという李さん。日本の兵隊を元気づけるために果物を差し入れしたり、励ましの手紙を送ることもあったと言います。その手紙には兵隊から返事が来て「日本は必ず勝つからね。大勝利するから頑張りなさい」と書かれていたと李さんは話します。
日本が勝つことへの期待感は、祖父・天楽さんも。「日本が勝ったときにはまんじゅうが配られ、みんなが万歳万歳と言っていた」と話しました。

kuroshima_151020_05.jpg祖母と李鄭昭さん(中央)

終始、日本の統治時代を懐かしみ、「日本人が恋しいよ」とまで話した李さん。しかし、祖父母や李さんの話を聞いた黒島記者は、複雑な思いを抱きました。
「植民地時代は良かった、日本はすごく良かったとみんなが言ってくれるのはすごくありがたいけれど、日本がやってきたことは決して肯定されるものではないし...」
彼らの話が全てではないのでは?と感じていました。

翌日、黒島記者は、父の知り合いで、台湾大学で統治時代の歴史など台湾史を研究する呉密察教授を訪ねました。呉教授は、「植民地支配というものは決して肯定できるものではない」として、こう話しました。
「日本は戦争で動員できる能力や人力、生産力を高めようと、インフラの整備をしなければならなかった。植民地の生産力を上げることで、その成果を得ようとした」。
呉教授は、「日本が台湾で行ったことは、日本の国策に基づくものだった」と話します。それに従い、台湾の若者も「日本軍」として21万人が出兵、犠牲者は3万人を超えました。

戦後、台湾の統治は、日本から、蒋介石率いる国民党へ代わります。
時代に翻弄された祖父母が、平和な時代への願いを語ってくれました。
祖父・天楽さん「戦争が亡く平和で暮らせるようになればいい」
祖母・順格さん「これからは戦争をしないように平和な毎日が続けば」。

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祖父母の話を聞いた黒島記者。何を感じたのでしょうか。
「祖父母が『君が代』を歌っているのを聞いたときはすごく胸に迫ってくるものがあって、戦争や植民地統治というものによって翻弄されてきたんだなと、切ない気持ちになりました。日本が行ってきた統治とは何だったのか、なぜ台湾の人が未だにこうやって日本のことを好きでいてくれるのか、ちゃんと知らないといけないし、今好きでいてくれることに感謝をしないといけないと感じました」

※文章中の年齢・担当はOA当時