放送内容

2018年9月11日 ON AIR

911テロリストの母と被害者家族の絆

今から17年前の今日、全世界が震撼した。
旅客機がNYのシンボルとも言えるビルに激突したのだ。
アメリカ同時多発テロ事件。


死亡者は約3000人。
事件を起こしたのは...ウサマ・ビン・ラディンが率いる国際テロ組織アルカイダ。
そして、この事件を起こしたテロ組織の1人の逮捕によりある前代未聞の裁判が行われた。


そこにはテロリストの母と被害者の母のある思いがあった。


ジャンボ機の操縦にこだわる男


テロが発生する2か月前の2001年7月、アメリカ・ミネアポリス。


イスラム過激派組織アルカイダはある準備を進めていた。
組織の一員、モロッコ系フランス人のザカリアス・ムサウイ(33)。
アメリカに入国し、この男が行なったのは...民間の航空学校へ入学することだった。


この学校は主にパイロットが免許の更新や新機種の訓練などで使う施設。
ここでムサウイは基礎からの講習を受けた。


初心者だったムサウイは、飛行技術は全くなかった。
にもかかわらず、いきなり教官にジャンボ機の操縦法を教わろうとした。


もちろん教官は無理だと言った。
しかしその後もしつこくジャンボ機の操縦方法を聞いてきた。


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この頃、世界ではアルカイダなどによるアメリカへのテロ事件が頻発。
緊張状態が続いていた。


1998年にはケニアとタンザニアの2箇所でアメリカ大使館爆破事件が起こり、
死者約300人、負傷者5000人以上も出ていた。


1995年には、アジアを経由するアメリカ行きの旅客機の同時爆破を狙った計画が発覚。
アメリカは航空機を使ったテロ事件も警戒している時だった。


ムサウイの通う航空学校にもFBIからテロを警戒する連絡が入っていた。
そんな時にやってきたジャンボ機操縦にこだわる男...これは怪しい。
そう感じた航空学校は地元のFBIに連絡。


話を聞いたFBIがムサウイの身元を調べると、アルカイダのメンバーという事が判明した。


なぜアルカイダのメンバーになったのか


フランスでモロッコ人の両親のもと生まれたムサウイ。
両親はイスラム教徒、つまりムスリムだった。


ムサウイが生まれる前、両親はモロッコからフランスに移住してきた。
のちに両親は離婚。母1人に育てられた。
その後、イギリスの大学へ進学。ここでムサウイの運命が変わる。


イスラム教は、1日5回礼拝を行う...ムサウイもモスクに通っていた。
そして、ある男との出会いがムサウイの運命を変えた。


モスクで出会った男...実はアルカイダの幹部だった。
ムサウイはこれまでイスラム教徒という事で差別を受けてきたつらい過去をこの男に打ち明けた。


すると幹部の男は、ムサウイにこう語った。
「イスラムの思想が世界を変える」
「世界は我々イスラム原理主義で支配される、何も恐れる事はない」...と。


この言葉がムサウイにイスラムの過激思想を植え付けていく。


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やがて、ムサウイに変化が...自分たちは、イスラム以外の宗教と戦わなければいけない。
このようなイスラム過激思想を周囲に語り始めたのだ。
その行動が目立ち、フランスの諜報機関にマークされるようになった。


一方でムサウイは、フランスにいる母に自分がイスラム過激派の思想があると
打ち明ける事はなかった。


その後ムサウイは、アフガニスタンに渡りアルカイダのメンバーに。
組織のトレーニングキャンプに参加するようになっていった。


アルカイダがアメリカを敵視する理由


それにしてもなぜイスラム過激派アルカイダはアメリカを敵対視するのか?
アルカイダは、アフガニスタンに侵攻する旧ソ連軍と戦うイスラム戦士を支援するため、
1988年ごろ結成された。


この時アメリカは、アルカイダと同じくイスラム戦士を支援しソ連軍を撤退させた。
1990年、財政難に陥ったイラクが石油を奪うためクウェートに侵略し、占領。 
この時、アメリカは軍事拠点としてサウジアラビアに駐留した。


国連は、イラクに無条件撤退を求めたがイラクはその要求には応じなかった。
そこでアメリカを中心とした多国籍軍が、イラクに攻撃開始。
これが湾岸戦争である。


イラク軍の戦死者は10万人にのぼるといわれ、多くの一般人も犠牲になった。
イラクは撤退したが、その後も隣国であるサウジアラビアはアメリカ軍を駐留させたのだ。
それが問題だった。


なぜなら、イスラム教徒100%のサウジアラビアは、イスラム教発祥の地で聖地。
異教徒であるアメリカによって守られている事はイスラム過激派にとって
最大の屈辱だった。


特にサウジアラビアで生まれたビン・ラディンは猛烈に批判した。
こうして何度もアメリカに対してテロ事件を起こしていたのだ。


そんなイスラム過激派メンバーであるムサウイの、航空学校での不可思議な行動。
FBIも監視を始めた。


さらにFBIはこの頃、ハイジャックによるテロの計画も察知していた。
そして、ある情報を入手した捜査官はムサウイに接触。


パスポートを確認すると、滞在期限が切れていた。
そして2001年8月16日、ムサウイを不法滞在で拘束した。


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ミネアポリスのFBI支局は、ワシントン本部にムサウイの家宅捜索令状を申請。
だが、FBI本部は、すぐにムサウイの家宅捜索令状を認可しなかった。


アルカイダメンバーの情報は山ほどあるため、本部はこの件を重要視しなかったのだ。
そして、事件は起きてしまう。


2001年9月11日、午前8時46分。
ハイジャックされた2機の旅客機がワールド・トレード・センターに激突。
その後、3機目が国防総省に、4機目はペンシルベニア州ピッツバーグ郊外に墜落した。
このテロで24人の日本人も命を奪われた。


夫を失った日本人家族


テロの1年前にニューヨーク勤務となった杉山さん一家。
この家族にとっても、あの事件は忘れる事の出来ない悲しい出来事となった。


夫の陽一が勤めるのは当時の富士銀行ニューヨーク支店。
オフィスはマンハッタンにあるワールドトレードセンタービル。
2つ並ぶうちのサウスタワー80階だった。


妻、晴美のお腹の中には3人目の子どもがいた。妊娠4か月。
そんな幸せいっぱいの家族に、9月11日はいつもと変わりなく訪れた。


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最初の激突が起きたその17分後、陽一のいるサウスタワーにも旅客機が激突した。
妻、晴美は陽一に電話をしたが連絡がつかない。


事件発生から4時間。
勤務する日本人125人のうち113人の無事が確認された。
多くの人がサウスタワーにいた人だった。1機目の激突のあとにビルから出ていたのだ。


しかし、夫は12人の不明者の1人だった。
現場で捜索活動が続く一方、会社からの報告に進展はなかった。


夫は見つからぬまま、テロから半年。
晴美は男の子を出産した。
3人の息子を自分がしっかり育てなければならない。晴美は夫の死を受け入れた。 


出産から3週間たった4月5日、夫の遺体が発見された。
それは右手の親指だけだったが、いつも親指を立てる仕草をしていたことを思い出し、
それも夫らしいと思ったという。


テロで大切な人を失った杉山晴美さん。
辛い体験だったが、様々な人に助けられ多くの愛を感じ、
「そういう風にすごく私は勉強させられたと思っている」
「他にも困難の中で頑張っている方たちに何か少しでも出来ることがあれば
何かこれから恩返しも含めてやっていきたい」と語っている。


テロリストの母親となった女性


アメリカは、多くの命を奪った卑劣なテロをアルカイダによる行為であると断定。


FBIは、事件の1か月前にアルカイダのメンバー、ムサウイを拘束していたが
9月12日、事件の翌日にようやくムサウイの家宅捜索を行った。
そこで、ジャンボ機に関する資料や飛行法のビデオを大量に発見したのだ。


今回、4機の民間機をハイジャックした自爆テロの実行犯は19人。
3機には5人いたが、最後のペンシルベニアで墜落した便だけ4人だった。


ムサウイは、ペンシルベニアで墜落した便に乗るはずだった、
20人目のテロリストと考えられた。
こうして、ムサウイはテロ事件の実行犯という事で逮捕された。


事件から2日。
アメリカから遠く離れたフランス南部の町、ナルボンヌ。


フランスでも、事件は大々的に報じられた。
テロに関わっていたと思われる男が逮捕されたというニュース。
「名前はザカリアス・ムサウイ」だと報じられ、
ムサウイの母アイーシャは、息子がアルカイダの一員だと知った。
息子がテロリスト...なぜ?


しばらくすると実家にマスコミが押し寄せた。
こうしてアイーシャは突然テロリストの母親となった。


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責任を感じ、食事をとることも出来なくなったアイーシャ。
なんで、いつ息子がアルカイダの一員に...


アメリカでは当時のブッシュ大統領が戦争の意志を表明。
NYのシンボルを失ったアメリカ国民は、愛国心を掲げ、
イスラム圏に対しての軍事行動に賛同する声が高まっていく。


暴力は解決にならないと訴える遺族


ブッシュ大統領の支持率は最大で90%を超えることも。
一方で、少数ではあるが違う考えを持つ人々もいた。


あの事件で一機目が激突したビルにいた息子を亡くしていた夫婦。
母フィリスと父オーランド、そして亡くなった息子はグレッグ、当時31歳。


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ブッシュ大統領の考えに、息子はそんなことを望んでいるのかと疑問を持った。 
戦争で多くの犠牲者が出ることは間違っている...そしてある行動に出る。


テロで息子を失った夫婦は、報復として戦争に踏み切ろうとするアメリカの態度に
疑問を持ち、ブッシュ大統領に宛てて手紙を書いた。
暴力と報復は解決にならない。争いが続くだけ...そう訴えたのだ。


だがアメリカでは、過激派ではないイスラム教徒も悪者扱いされ、
嫌がらせを受ける事件が絶えなかった。
それを悲しい思いでムサウイの母アイーシャは見ていた。


2001年10月7日アメリカと有志連合軍は、ウサマ・ビン・ラディンをかくまっていた
タリバン政権下のアフガニスタン侵攻を開始。
またも多くの民間人が命を落とした。


テロリストの母、遺族に謝罪


一方、ムサウイは、殺人やハイジャックなどテロに共謀したとして、6つの罪で起訴された。
そのうち、4つで最高刑の死刑が求刑された。


アイーシャのもとに、息子から手紙が。
そこには自分は確かにイスラム過激派のメンバーであるが、
1か月前に拘束されていたため、
テロには関与していないという事を訴える内容が書いてあった。


そして、アイーシャは息子の無罪を信じマスコミの前に出た。
さらに彼女は驚きの行動に出る。


アイーシャは被害者家族に息子の仲間が犯した罪を謝りたいと申し出たのだ。
そして、5組の遺族から了承を得た。


とはいえアメリカに行けば、命の保証はない。
多くの人から憎まれている...もしかしたら殺されるかもしれない。


2002年11月、アイーシャはアメリカへ向かった。
表向きは息子との面会を求めてだったが、本当の目的は遺族への謝罪だった。


職員に案内された部屋に入ると...彼女の目に留まったのは大事な家族を失った遺族たち。
その中には大統領に手紙で戦争反対を訴えた、あのフィリスとオーランド夫婦もいた。


たった1人アメリカに来て、遺族たちに心から謝罪をするアイーシャ。


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フィリスは全く逆の立場であったが、ある感情が湧いた。
彼女の苦しみも私たちとなんら変わりはない。
そしてアイーシャにこう言葉をかけた。


フィリス「あなたの勇気に感謝します。ありがとう」


その場にいた、全員が同じ苦しみを持ち、平和を求めていることを感じあえた。
そして怒りだけでは前に進まないと。


前へ進み始めた遺族と加害者の母。
そんな中...アメリカは、今度は大量破壊兵器を所持しているという理由でイラクを攻撃。
再び、多くの命が失われていく。


遺族が裁判で被告のために訴えたのは


そして、テロの容疑者ムサウイは死刑が妥当との見方が強かった。
それは、ムサウイが自らテロ攻撃の可能性を話していれば事件は防げた可能性が
あったからだった。


しかし、テロ攻撃を知っていたという物的証拠は提出されていない。


テロで息子を失ったフィリスとオーランド夫婦。
息子を失ったことは悲しい...しかしその事で、誰かが死刑になる。
どこか複雑だった。


そんな夫婦に、ムサウイの弁護士から電話があった。


2006年4月19日テロ事件におけるムサウイの裁判。
そこで被害者遺族であるオーランドが被告のためにこう訴えた。


オーランド「私たちは前へ進みたい。相手を理解すれば必ず向こうも私たちを理解してくれる。死は何も解決しません。」 


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なんと、被害者側からムサウイの死刑を反対する訴えだった。
そして、驚きの判決が下る。


2006年5月4日。判決が下された。
仮釈放なしの終身刑だった。


息子の仲間の犯した罪をたった一人で勇気を持って謝罪した母。
そしてテロによって犠牲になった多くの遺族に今後恨まれるかもしれない中、
あえて被告のための証言にたった被害者家族。


彼らの想いが他の被害者遺族たちにも変化を与え、
苦難を乗り越えて再出発を見いだす事ができるきっかけとなったと称賛された。

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