


入社以来、バラエティーの番組制作をしています。1年目は『スーパーJOCKEY』、2年目から『電波少年』。最初はADでしたが、『電波少年』の途中からディレクターに。その後、『遊ワク☆遊ビバ!』『たべごろマンマ!』『満天☆青空レストラン』では演出を手がけるようになりました。『世界の果てまでイッテQ!』は2005年に立ち上げ、2009年と2011年は『24時間テレビ』の総合演出も務めました。今年から、『月曜から夜ふかし』という番組を企画し、演出をしています。これらの番組では、面白い企画をたくさん実現することができました。
この会社には、やりたいことを応援してくれる気風の良さがあります。前例のない企画を出したときに、最初は驚かれるのですが、最終的には「そんなにやりたいならやってみろ!」と認めてくれる。たとえば『イッテQ!』でキリマンジャロ登山を企画した時もそうでした。いろいろなリスクを伴い、費用もかかる、バラエティーではこれまでにない試み。実際に大変なこともありましたが、結果的には、見たことのない画が撮れた手応えがありました。


就職を考えた時は、テレビ局と限定していたわけではなく、漠然とマスコミを考えていました。それまでは情報でも娯楽でも常に受け取る側にいたので、「発信する側」に行きたかったんです。
入社当初から制作志望でしたが、学生時代、特にそれに近いことをしていたわけではありません。でも、その現場で思うのは、制作に向いているのは「普通に素直な人」だということ。ゴールデンの番組を作るには100人くらいの人が関わります。そこで求められるのは、自分のやるべきことを覚え、実践し、間違ったら素直に認め、直せる人。テレビ制作者はアーティストではないので、そういう「いい人」であることが大切だと思います。


新しい番組を立ち上げるまでには、いくつものプロセスが存在します。本当に何もないところから企画を考えるのですが、「自分がこれは面白い!」と信じられるかを凄く重要視しています。企画の内容だけに留まらず、「どういう番組タイトルにしようか」、「企画にはまる出演者は?」「セットは?カメラは?スタッフィングは?」等、番組を作り上げていくプロセスの中の決断には、全て明確な理由があります。感性はもちろん大事ですが、それを一つの番組に仕上げていくにはロジカルな決断と強い信念も必要です。 br> 新番組『月曜から夜ふかし』を立ち上げたときのコンセプトは、“出演者二人だけがしゃべる”ということ。このコンセプトが面白いと強く信じていたので、深夜枠で放送しているこの番組を特番として22時から放送したときも、豪華な出演者を足しませんでした。22時からの番組で出演者が二人だけって珍しいですからね(笑)。 br> ディレクターが「これ面白いかどうかわからない」なんて言っていたら何も生まれない。「これが面白い!これをみんなに伝えるんだ!」という強い信念で、今後も新しい番組を作り続けていきたいですね。



マスコミ関係で入社試験を受けたのは、日本テレビだけなんです。別に演劇青年でもなかったし、映画制作をしたことがあるわけでもなく。半分は記念受験という気分でしたね。銀行員とか、一般の企業に入って、平凡な人生を送るんだろうなと思っていました。ただ、当時の日本テレビでやっていた「火曜サスペンス」で、すごく面白いドラマがあったんです。で、日本テレビだけを受けました。
入社してからはもう、ドラマ一筋ですね。今までの22年間で、ワイドショーを1年半だけ担当したことがあるんですが、あとはずっとドラマ。だから社内のことも、他の部署のことはあまり知らなくて。それでも社員として、ドラマのことだけに専念していられたんですから、自分のやりたいことをやらせてくれるいい会社だと思います。


ずっとホームドラマをやりたかったんです。ただ、今までにやったことのあるようなものじゃなくて、新しい何か、全然違う切り口がないとやる意味がなかった。そのとき出てきたのが、家政婦を主人公にしたドラマ「家政婦のミタ」だったんです。
「家政婦のミタ」は有難いことに数字がどんどん上がって、最終回の40.0%はつくっている自分たちがいちばん驚きましたね。ただ、数字の凄さが先行してしまって、もっと内容で素晴らしい最終回だったと言われたかったですね。
自分自身、登場人物とかシーンに感情移入することはあまりないんですが、最後の三田さんが笑うシーンでは、僕も現場にいて泣いちゃいました。そんなドラマが数字にも結びつき、多くの方に観ていただけたのはうれしかったですね。


ドラマのプロデューサーって、僕はクリエイターとも思っていないし、アーティストとも思っていません。どちらかと言えば、コーディネイター。人と人を出会わせて、化学反応を起こさせる役割だと思うんですよ。
でも、何もないところから人を集めてきて、社会現象と言われるようなドラマをつくるのって、それはもう奇跡のようなもの。僕の大好きな三田さんの台詞に、「奇跡っていうのは、人間が望まないと起こらない」というのがあるんですが、「家政婦のミタ」は、ドラマにまだこんな大きな可能性があるんだということを教えてくれました。
まさに「できないことは、ひとつもない。」ですね。だから、後に続く後輩たちにはぜひ40.1%、日本テレビドラマ歴代1位を目指してほしいです。
そして、これからドラマ制作に携わっていきたいという方の、若い発想とエネルギーに大いに期待しています。経験やスキルがないことを気にする必要はありません。僕自身も何の経験もないまま、ここまできたのですから。ぜひ、日本テレビの門を叩いてください。



報道の記者になりたかったんです。だから新聞社も考えましたが、ドキュメンタリーやニュース番組が好きだったのでテレビ局に決めました。
もともと記者になりたいと思ったのも、高校生の時に見たニュース映像がきっかけ。ある国の内戦で、捕えられた兵士が連行されるシーンなんですが、その映像のインパクトがとても強くて。そんなショッキングな映像を、気軽に自宅のハイビジョンテレビで見られること自体が大きな衝撃でした。そして、世の中をどう変えていけばいいんだろう、仕事としてなにかできる職種はないかと考えたとき、なりたいと思ったのが記者だったんです。
入社後は希望していた報道局に配属され、警視庁を担当。朝から夜遅くまで事件の取材で、ハードな毎日ですが、とてもやりがいのある仕事だと思っています。


まだ2年目ですが、仕事のほとんどは現場で体当たりで覚えてきました。いきなり大きな事件をまかされて戸惑うこともありますが、本当に面倒見のいい先輩ばかりの会社なので、時にはその力を借りながらいろんな体験をさせてもらっています。
事件の取材では、人にカメラを向けることの難しさを痛感しました。まず、相手との間にある壁を取り払うこと。取材相手が心を開いてくれないといい情報は引き出せないので、どうすれば相手に自分を受け入れてもらえるかをいつも考えています。自分ならではの情報の伝え方をできるようになるのが、これからの目標です。
今は報道で頑張っていますが、将来もしかするとドラマやバラエティーでできることもあるかもしれませんね。この2年でも、どんどん自分自身が変わってきているので、まだ決めつけたくはないんです。仕事の垣根を越えて、いろんなことに挑戦できたらいいなあ、と。そしていつかは、ずっと憧れていたドキュメンタリーで、訴える力のある番組を自分で作ってみたいですね。


記者になるために、私自身、何か特別な勉強をしたわけではないんです。学生時代はひたすらアルバイトでお金を貯めて、バックパック背負って一人で旅行に行ってました。大学でヒンディー語を専攻していて、インドにも1年間留学していたんですよ。何でも自分の目で見てみたいんです。そういうところは、今の仕事に活きているかもしれませんね。いろんなものを見たがりだし、現場には強い方かもしれません。
これから記者を目指す人も、自分の興味のあることはもちろんですが、今まで興味のなかったことにも目を向けてみればいいのではないでしょうか。とりあえずいろんなところに行って、自分の肌で感じてみることが大切。自分の殻を破れば、全く知らないところから新しい道が見えてくることもあると思います。



入社以来15年間、番組制作に関わっています。1年目は『午後は○○おもいッきりテレビ』のADを務めました。当時の仕事は、トマトのリコピンやらブルーベリーのアントシアニンやらの効用を図書館にこもって調べること。今でも空で言えますよ。そして、2年目は『速報!歌の大辞テン!!』のAD業務に携わり、3年目から『ザ!鉄腕!DASH!!』に異動しました。そこでも最初の2、3年はADでしたね。AD時代は結構長い方だと思います。ADは気配りができて、てきぱき仕事をすることが求められるのですが、私はそれができなくて、怒られてばかりでした。転機になったのは、『ザ!鉄腕!DASH!!』の担当になって、ロケを多く行う番組を作り始めたことです。ロケの仕事は、とにかく現地に行って、足で稼いでなんぼ、という感じ。それが自分には向いていたみたいで、この頃からのびのびと仕事ができるようになりました。結局、この番組には10年近く関わりました。今でも自分の基本となっている番組です。


テレビ局に入りたいと思ったのは、まず単純にテレビが好きだったから。当時『進め!電波少年』という番組から、猿岩石の世界ヒッチハイク旅行が大きな話題になっていて、テレビの力はすごいと思っていました。ラジオも好きでしたが、面白いことを考えて、作って、社会にムーブメントを起こせるのは、テレビしかないと思ったんです。
とはいっても、私自身、学生時代は特別に何かしていたわけではありません。大学では国際金融論を専攻していたのですが、生活の中心はアルバイト。居酒屋から電報配達、ビル解体まで、本当にいろんなことをやりました。でもそれらはみんな、大学生の時しか出来ない大切な経験だったと思います。
『弾丸トラベラー』や『ZIP!』「MOCO'Sキッチン」では書籍も展開

『週末のシンデレラ 世界!弾丸トラベラー』という番組の企画・演出、『ZIP!』の「MOCO'Sキッチン」の演出を担当後、今は『J'J Hey! Say! JUMP 高木雄也&知念侑李 ふたりっきり フランス縦断各駅停車の旅』という番組の企画・演出を担当しています。企画が通るまでには、100本以上の企画がボツになりました。企画を通すのはそれほど大変なことなので、頭の中は常に「何かないか」と考えている状態です。そのためにやっていることといえば、本屋に行くことですかね。本屋には時間さえあれば寄るようにしています。自分自身は興味がないものでも、企画のタネになるかもしれないので、素通りしないようにしています。私は、今後もロケの番組を作っていきたいと思っています。それで何かブームを起こしたい。それから何かしらを伝えたい。そのために、新しい企画を作り続けていきます。



1年目からスポーツ局に配属され、スポーツニュースに関わっています。2007年5月、石川遼選手がアマチュア史上最年少優勝を果たした時から担当になりました。他には、ハンドボールの宮﨑大輔選手も担当。バンクーバーに引き続き、ロンドンオリンピックの現地取材も行いました。最近では、『Going! Sports&News』の曜日担当のチーフディレクターを務めるようになりました。大学では応用化学を専攻していて、大学3年までは漠然と研究者の道を進むことを考えていました。しかし、就職を考える頃になって、学問という分野では自分の個性が出せないと思ったのです。そこで、勉強と並行して熱心にやっていた自主映画製作やイベント企画などが、自分の進む方向としてクローズアップされてきました。
日テレの試験を受けている間に先輩が「毎日が文化祭の前日のような仕事」と話してくれたのも、この世界に心が傾くきっかけになりました。「番組はチームで作るもの」という面接官の言葉も印象的でしたね。サッカーをやっていたので「チーム」という言葉に弱いんです。


入社した時から私は、かつて自分を勇気づけてくれたアスリートのドキュメンタリー番組を作りたいと思っていました。ですから、この会社では本当にやりたい仕事をさせてもらっています。実際に、石川遼選手や宮﨑大輔選手が世界に挑んでいく姿や、オリンピックで日本の選手が頑張っている様子を間近で見て、伝えられるのは、この上ない喜びです。
でも、失敗もいろいろありました。一番辛い思いをしたのは、海外で取材禁止の場所と知らずに取材を行っていたために、その日、石川遼選手のインタビュー撮影が出来なくなってしまったとき。日テレだけその部分が放送できなかったわけで、当然ひどく怒られました。でも、そこで「お前はもうダメだ」と担当を外されるようなことはありませんでした。それまでと変わらずチャンスを与えてくれた先輩に感謝しています。帰国するなり成田で自ら頭を丸め、反省している気持ちを示したのが、多少は伝わったのだとしても・・・・・・。
約4年半の取材記録をまとめた著書「石川遼、20歳」

私は石川遼選手の取材記録を本にまとめました。それは、テレビ以外の手法でも彼を描きたくなったからです。常に変化し続ける彼は、これだけ一緒にいてもわからないところが多い、本当に魅力的な人物です。
本を書くことについては、本人にも相談し、快諾してもらうことができました。ただし、信頼関係が強くなったとしても、それに甘えてはいけないと思っています。たとえば、私は仕事上で接する時は必ず「石川プロ」と呼びます。また、進化のスピードが早いだけに、取材の準備は「これでもか」というほど念入りにしなければついていけません。
そして、もうひとつ気をつけているのは、どんな時も距離感を変えずに接すること。石川選手に限らず、アスリートは常に自分を極限状態に追いつめています。スランプも避けられません。でも、私はむしろ、そんな時こそ変わらず近くにいたい。それは、立ち上がる瞬間が見たいからです。それは普遍的に人として、最も美しい姿でしょう。それを信じ、伝えたいと思っています。



PL学園、立教と、学生時代はずっと野球ばかりだったので、アナウンサーになるための勉強は全くしていなかったんです。ただ、アナウンサーになりたいと思ったきっかけも野球でした。もともとは話すのが苦手だったんですが、甲子園に出場したときのヒーローインタビューで、自分の発した言葉の反響に初めて気づいたんです。自分の気持ちを伝えることの難しさや楽しさにも。その時から話すことの魅力に取りつかれ、プロ野球選手になれなかったらアナウンサーという職業に挑戦しようと思うようになりました。結局、肘のケガでプロは断念。アナウンサーになることを決めたのは、入社試験の直前でした。試験では、野球のことを話したい!と思っていたので、できるだけ話を野球に持っていくようにしました。高校時代から雑誌のインタビューなどで質問されることにはなれていたので、あまり緊張することもなく、自分でも楽しみながら試験を受けることができました。


アナウンサー試験に合格してから、いちばん苦労したのは関西弁を直すことでしたね。入社までの約1年間、関東出身の野球部の後輩に、関西弁禁止でビシビシ鍛えてもらいました。その後輩には、今でも本当に感謝しています。
入社後、カメラの前で話すようになってからは、最初こそ緊張しましたが、ここでも野球で得た経験が役に立ちました。その場に立ったらやるしかない、というのは、マウンドに立ったピッチャーと同じなんです。カメラの前に立ったらしゃべるしかない!どんなに緊張しても、その場に立てばやりきる自信はありますね。
今、担当しているのは『ズームイン!!サタデー』や野球、ボクシングの実況。そして、箱根駅伝など。なかでも今までの仕事で特に印象深いのは、第1回のWBCに行かせていただいて、日本が世界一になる瞬間を目の当たりにしたときのことです。シャンパンファイトにも、アナウンサー代表として唯一参加させてもらいました。
あの場に居られたのも、今の仕事を選択したからこそ。アナウンサーになったとき、歴史的瞬間を自分の言葉で伝えるのがひとつの目標だったので、まさにその瞬間でした。しかもそれが、野球だったことがとてもうれしかったですね。


先輩から伝えられた大切な言葉です。名画とは出演者であったり、スポーツ選手であったり、タレントさんであったり。そして名画を生かすのが、それに合ったいい額縁です。アナウンサーがいい額縁として存在すれば、名画はより一層映えて見えます。名画を生かすのは、アナウンサーという額縁次第。まさに、そうだなと思いました。この言葉で、アナウンサーという立場の加減がわかったんです。
アナウンサーとして10年目を迎え、今度は自分が先輩の立場で、この言葉を後輩たちに伝えていきたいですね。
そして自分自身も、「あの甲子園の上重」ではなく、「アナウンサーとしての上重」が野球をやっていた過去の自分に勝てるくらいの仕事をしていきたいと思っています。
これから日本テレビを目指す皆さんも、自分の可能性を信じて一歩を踏み出してください。ずっと野球ばかりしていた自分も、こうしてアナウンサーになれているんです。一歩踏み出す勇気があれば、「できないことは、ひとつもない。」はずですから。



初めからアナウンサーを目指していたわけではないんです。学生時代は中学の部活からずっとダンスをやっていて、その中で自分のやりたいことに気づいたんです。表現すること、仲間と創り上げること。就職するなら、そういった仕事をしたいと考えていました。そのひとつの選択肢として、アナウンサーという仕事があったんです。だから、最初は日本テレビの番組制作部門の選考も受けようと思っていました。
でも、やはりアナウンサーになりたいと思ったのは、大学3年の秋に参加した「アナウンスフォーラム」。スタジオで番組の始まる瞬間が、ダンスのステージの感覚とすごく似ていたんです。そのとき、アナウンサーもただ原稿を読むだけじゃなく、番組を一緒に創っていく仕事だって聞かされて。自分の仕事は、これだと思いました。
ところが、私の時はですが、フォーラムが終わって入社試験までは、もう1か月程しかなくて。試験では、自分が大学時代に打ち込んできたこと、今まで頑張ってきたことを、とにかくその場で精一杯表現したつもりです。まさか受かるわけないと思っていたので、採用が決まった時には本当に驚きましたね。


入社当時は、ほんとにゼロから。むしろマイナスからのスタートでした。中学・高校はずっと理系、苦手科目は国語と社会でした。しゃべり方も語尾の伸びる学生時代のまま。日本語の一つ一つを再点検するように、先輩たちに徹底的に指導していただきました。
2年目からは、少しずつ自分らしい仕事もできるようになりました。番組の中でダンスの振り付けをして、自分たちで踊ったり。これってアナウンサーの仕事?とも思いましたが、おかげでいろんな方の印象に残ったようで、今では自分の特技を引き出してくれた制作の方たちに感謝しています。
その後担当した『スポーツうるぐす』では、プロ野球が何チームあるのかも知らなかった私に、江川さんが野球の醍醐味を教えてくださり、いろんなスポーツの大ファンになりました。『NEWS ZERO』の担当になったときも、知らないことばかり。でも「知らないことが武器。視聴者の方々と同じ視点で素朴な疑問をぶつければいい」という現場の方の言葉に支えられ、ニュースがどんどん面白くなっていきました。ニュースは、社会とつながる扉。私自身、番組を通して今もいろんな社会勉強をさせてもらっていて、人生を豊かにしてくれる番組と巡り合えて本当に良かったと感じています。


私自身も今、ニュースとバラエティーを両立しながらやっていますが、日本テレビって、いろんなチャンスに出会える会社だと思います。なんでも現場で学んできなさい、という感じで。ずっと夢だったオリンピック取材にも、北京の時に行かせていただき、全身が震えるような感動の現場に立ちあうことができました。
そして、入社当時から目標の舞台だった『24時間テレビ』。その総合司会を、10年目にして任せていただけたというのは、まさに「できないことは、ひとつもない。」ですね。日本テレビがひとつになって、大きな番組を創り上げている場に立ちあったことは、大きなチャレンジでもありましたし、すごくありがたい経験でした。
『24時間テレビ』も今年で35回目。先輩たちがバトンリレーしてきた『24時間テレビ』のように、私も大きなチャンスのバトンを後輩アナウンサーたちにつないでいきたいと思っています。



最初に配属されたのはスポット営業部。「テレビの営業って何をするんだろう?」という感じでしたが、先輩の優しく厳しい指導のもと、「作案」の訓練が始まりました。作案とは、番組内のCM枠を自由に組み合わせて、クライアント(=広告を出稿する会社)にご提案すること。自分でできるようになったと感じたのは2年目くらいですね。スポット営業部に6年間在籍した後は『ズームイン!!SUPER』に異動、そこでADとディレクターを4年半務めました。そして、3年前からはまたスポット営業部に戻っています。番組ディレクターを経験したことで、番組側の気持ちもわかったうえで、クライアントのニーズにも応えられるようになりました。


テレビ局の営業の仕事で面白いのは、イベントや番組連動企画などで多角的な仕掛けができること。たとえば、私は『アリス・イン・ワンダーランド』という映画の宣伝のお手伝いをした時、その映画に関連したイベントを企画しました。それが「待ち時間330分」を記録するほど評判となり、映画も大ヒット。クライアントと共に喜びを分かち合うことができました。また、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン―命の泉―』では、クイズ形式の内容で『スッキリ!!』とのコラボレーションCMを放映、その後『スッキリ!!』オンエア中に正解発表をするという、番組と深く連動した仕掛けを作ることで話題作りを狙いました。そういった工夫をすることで、"クライアント側も番組側も幸せ"な関係を作っていければと思います。
クライアントの広告戦略にトータルで関われるのも、この仕事の大きな魅力です。アイデアは雑談から出てくることが結構多いかもしれません。その点、日テレは社内の雰囲気が明るくて、常に意見の交換をしているようなところがあります。それもこの会社のいいところです。


ほかに醍醐味だと思うのは、人間力で勝負ができる点。人間力というと大げさかもしれませんが、クライアントから信頼を得られるかどうかは、日頃からどれほどしっかり人間関係を築いているかにかかっています。営業を長く続けて、そういった結びつきが強くなってきたのはうれしいことですね。
テレビは広告の一手段でしかありませんが、やはり中心的な役割を占めています。しかも、キー局に対しては、お客様の期待も格段に大きい。クライアントは「テレビに広告を打てば商品が売れる」と信じて、大切な広告費をかけます。
テレビ局を目指す学生の皆さんには、この仕事の面白さを是非知ってほしいと思います。今までとは違った目で広告を見てみるといいかもしれません。「どうして今、このコピーなのか」「どうしてこのタレントさんなのか」などをちょっと考えてみると、この仕事のやりがいも垣間見えるのではないでしょうか。



入社して最初の2年間は総務。そのあと経理、財務を経て、今のイベント事業部に来ました。来るまでは、イベント事業って何をしているのかもよく知らなかったんですが、人事の方が私の適性を認めてくれたんです。
最初は、とにかくいろいろ見てまわれと言われ、先輩にくっついて右往左往。大きな転機となったのは、2005年に担当した「ルーヴル美術館展」です。とっても大変でしたが、やりがいもありました。日本テレビならではという大きな仕事だったので、そこから虜になりましたね。頑張った分だけ、返ってくるというか。プロデューサーのカラーで全く違うものが出来上がる、ということを実感しました。


テレビ局に展覧会をやるセクションがあるなんて、思っていなかったんです。でも、実際にその仕事に携わってみると、こんなに面白いセクションはないなと思いましたね。まず、最初から最後まで自分でできるということ。人任せではなくて、立案から企画、運営、宣伝、広報を自分たちでできる、というのはやはり楽しいです。
現在、2013年の3月から六本木の森アーツセンターギャラリーで開催される「ミュシャ財団秘蔵 ミュシャ展」に向けて準備中です。これは2006年から企画を始めました。ひとつの展覧会を開催するのに、だいたい4〜5年かかるんです。今は女性5人のチームでやっていて、場所の選定からグッズ開発まで、女性ならではの視点を生かしながら、いろんなアイデアを出し合っています。
どんなイベントや舞台でも、初日を迎えてお客様の満足した顔を見る時が、いちばんうれしいですね。この仕事をやっててよかった、って心から思います。テレビの番組では、お客様の生の顔までは見られませんが、イベントの場合は会場まで足を運んでくださるお客様の顔に直面することができます。それが大きな魅力ですね。


これからチャレンジしていきたいことは、いっぱいあります。美術展だけでなく、ミュージカルや舞台の企画もやっているんですが、それ以外の今までやったことのないジャンルにも挑戦してみたいですね。例えば、スポーツのイベントとか。企画をしてうまく通れば、意気込み次第でなんでもやらせてもらえる会社ですから。こんなことをやってみたい、という提案を自由にできる空気はいつもあります。
イベントプロデュースというのは、枠にとらわれず何でもできる仕事です。テレビを通してだけじゃなく、いろんなカタチで人に感動を伝えたいと思う人には、とてもやりがいのある仕事ではないでしょうか。そして、人に与えるだけでなく、私自身も毎回担当するイベントに感動しています。この感動を人から人へ伝えていくということを、これからもジャンルを越えて続けていきたいと思っています。



大学時代はずっと、東宝の撮影所でアルバイトしてました。制作進行の下っ端として、プールの掃除からエキストラまで。ほとんど雑用でしたけど、その映画づくりの現場が楽しかったんです。で、昔から好きだった映画の世界に入りたいなと。
でも以前から、自分は監督になるのは無理だと思っていました。高校でも大学でも、生徒会や学園祭の実行委員をやっていて、とにかくお祭り好きでイベント好き。周りにいた面白い人たちの、出演する場を作る仕事をしていたんです。だから映画は大好きだけど、自分自身が作るより、才能がある人の映画作りを手助けしたいと思って。映画を作ること以前に、人を楽しませるということが好きだったんですね。そういう意味では、もともとプロデューサー向きだったのかもしれません。


日本テレビの試験では、映画のためのテレビ、テレビのための映画を作りたい、といって入社しました。
最初に配属されたのは営業局。そこに、関西支社での勤務も含めて9年間いました。今思えば、その経験がプロデューサーという仕事に大いに役立っています。スポンサーを相手に、自社の利益と相手の利益を考えるというのは、プロデューサーには絶対に必要な感覚ですからね。いろんな人脈を得て、そこから学んだことも武器になっていると思います。
その後、映画事業部に異動。初めてプロデューサーとして一本立ちした作品が「DEATH NOTE デスノート」です。プロデューサーって船頭のようなもので、自分が行き先を決めて進む道を示さないとだめなんですが、最初はどうしていいかわからなかった。でも、悩んでいる時間もなくて、どんどん自分で決めていくしかなかったんです。僕にとっては、あの作品が礎であり、青春でしたね。そこで出会ったキャストやスタッフとの関係は、今でも続いています。


映画は芸術という人もいますが、僕にとっては興行であり娯楽なんです。お客さんに楽しんでもらわないと意味がない。それは、常に考えていることです。その点、テレビ局というのは、日々視聴者に面白いものを提供しようとしていますから、そこがテレビ局の作る映画の強みであり、ヒットしている要因かもしれません。
僕自身も企画を考えている時は、まだ全く形を成していない段階からいろんな人に話すんです。今考えていることを、俳優やスタッフ、そして友達に。そこでまず反応を見て、方向修正したり、アイデアを増やしていったり。人と会って話すことで、さらに人を喜ばせる作品ができるのだと思います。
これから映画制作を目指そうという人にとっても、自分の考えを誰かにちゃんと話すということは、とても大切なことだと思います。メールとかじゃなくて、実際に会って。そこで聞く意見というのは、全く重みが違いますから。日本テレビでは、いろんな人に会えます。役者でも、監督でも、自分が望めば誰とでも会えます。だから、臆病にならずに、会って話してみること。そこからきっと、生まれるものがあるはずです。



LINEやmixi、TwitterやFacebookなど様々なメディアが誕生しています。いわゆるソーシャルメディアが普及していく中で、一般の人でも気軽に情報を発信できるようになってきました。その流れにテレビが何か応えなくてはいけない。そこで、「テレビ」と「新しいメディア」をどう組み合わせるかをデザインする、ということがメディアデザインセンターの仕事です。
テレビとソーシャルは凄く相性がいいんです。最近では、Facebookと連携した世界初のソーシャル視聴サービス『JoinTV』を立ち上げました。名前の由来でもあるのですが、「誰かと誰かをつなげて一緒にTVを見てもらう」そして「テレビに自分も参加してもらう」というような仕組みです。『JoinTV』では、誰かと一緒にTVを見る楽しさ、そのテレビ本来の楽しさをいかに新しいステージにもっていけるかを狙っています。


「JoinTVカンファレンス」というものを2012年10月に開催しました。LINE、mixi、Twitter、Facebookの4大SNSの担当者を日本テレビにお呼びし、各SNSとテレビとの関係性や、この先どのように連携してどのようなインパクトを世間に与えていくのかということを中心に話していただきました。このイベントは各方面からご好評をいただきました。そういう意味では日本テレビはこの分野では他より先に進んでいるかなと思っていますし、切り開いているというやりがいもあります。今僕らは見たことのないものを創っているんです。新しいものを創っているので、発信したら何かしらの反応がある。ポジティブな反応もあるし、もちろんネガティブな反応もあります。ましてやソーシャルメディアだから、もう露骨なんですよ(笑)。やればやるほどリアクションがあり、賛否両方聞くことが出来るので、僕らがそれを活かしてどう創っていくのかが面白いところです。


「できないことは、ひとつもない。」が日本テレビらしさ。とにかく「新しいことをやってやろう」という気質がみんなの中に伝播して、業界を引っ張ってるという意識はあると思います。テレビ局を最初につくった局でもあるし、いつも先頭にいるなという意識はあります。僕らはソーシャルメディアを生み出したいわけではなくて、ソーシャルメディアを活用して新しいテレビの価値を提供したり、テレビ自体の価値をもっと高めたいと思っている。ソーシャルメディアはテレビにとっての脅威ではなく、テレビをさらなる高みに上げるキーワードだと捉えています。これからもテレビはメディアの中で間違いなく王者だと思います。テレビって期待を裏切るから楽しいってところもあるので、常に新しさを求めて、いいものを届け続けていきたいです。



スタジオ収録番組のVE(ビデオエンジニア)を経て、現在はスポーツ中継やイベント中継のVEを担当しています。VEとは、映像にまつわるシステムづくりを手掛ける技術者のこと。TD(テクニカルディレクター)の指揮のもと、中継本番の日に向けて必要な映像システムの設計をして、そのシステムを組み、そして中継現場では、システムのオペレーターとして動きます。カメラマンや音声担当とともに、最高の中継映像を届けるために活躍する技術のプロという位置づけです。システム機器はものすごく複雑で多岐にわたるため、まずはその仕組みや仕様を理解するのに苦労しました。でも、先輩TDや先輩VEの親身な指導で、基礎理解の領域はなんとかクリアしつつあります。
生中継の場合は、もし私たちVEのミスがあったら、それは直ちに重大な放送事故につながります。だから現場は常に緊迫感の連続。大きなプレッシャーを背負って挑むので、OAを無事終えた瞬間の安堵感を感じるだけでなく、なんとも言えない快感と達成感を味わうことが出来ます。それから中継映像に対する評価の声を聞くと、最高に嬉しいですね。


10年選手の先輩VEを見ていると、いつも自分の未熟さを痛感します。その先輩方は視野が広く、VE業務だけでなく全セクションの業務に精通し、常に全体に目を配りながら中継現場を仕切ります。私はまだまだ知識不足・経験不足のため、スポーツ中継やイベント中継を仕切る先輩VEには程遠い状態です。
でも、入社2年目でおこなったスリランカからの中継や、4年目に行ったキリマンジャロからの中継の仕事は、本当に貴重な経験となりました。特にキリマンジャロからは、世界初のハイビジョン生中継で、まさに世界初の限界チャレンジでした。さまざまな困難にも直面しながらも、最終的に感動的な映像を日本に届けることができる。辺境の何も無い場所でゼロから中継番組をつくりあげる、VEのあり方を学ぶことができています。


私の今後の目標は、世界の辺境地からの中継のスペシャリストになること。学生時代にも辺境への旅を続け、例えばタイのジャングルでは「象使い」の修行を積み、日本人では珍しい資格を取得したこともあります。仕事は普通に出来てあたり前、それ以外に人それぞれ“コアなベクトル”を持つべきというのが先輩方の教えであり私の持論でもあります。私の場合のそれは、辺境地に強いということです。
だからこれからも、未開の地へ、人類未踏の領域へ、積極果敢に乗り込んでいきたい。少年時代や学生時代に持っていた冒険心を忘れずに、テレビ中継がまだ到達していない辺境の地図を塗り替える挑戦を続けていきたいと思います。
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