序章

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  • この章は美術史的には新古典主義からロマン主義への時代、つまり19世紀前半に相当しています。ここに登場する子どもたちは1789年のフランス革命でアンシャン・レジーム(旧体制)が崩壊し、「自由、平等、博愛」のスローガンのもと、共和主義的な社会体制に向いはじめた時代の新しい子どものイメージを提示しています。我が子をモデルとしたボワイーの作品(no.1)は、市民生活の種々相を得意としたボワイーらしく、遊んでいる時の子どもたちの生き生きとした表情、ポーズを巧みに捉えています。
    新古典主義の巨匠ダヴィッドの弟子デュビュッフの2点の作品は、身だしなみよく、育ちのいい子どもの典型といえますが、それだけに子どもの「改まった」ポーズ、表情も含め、ここには写真館で撮る記念写真的な雰囲気もただよっています。バリーはロマン主義的な動物彫刻で知られますが、画家としても活動しました。これは自分の娘の肖像ですが、こちらを振り返るポーズや、戸外の背景も含め、デュビュッフとはまったく異なる、新しいアプローチを見せています。
    no.1 ルイ=レオポルド・ボワイー《私の小さな兵士たち》
    no.2 ジャン=バティスト・カミーユ・コロー《座るイタリアの少年》
    作品名をクリックすると、詳細ページへリンクします。
  • ボワイーは1785年、24歳の時、故郷の町からパリに出たが、この頃にはすでに肖像画家としてある程度認められていた。革命の2年前の1787年、26歳の時、商人の娘マリー=マドレーヌ・デリーニュと結婚し、2人の間には5人の子どもが生まれたが、うち3人は早世している。妻のマリーも1795年、31歳の若さで死去。この年の11月に早くも17歳年下のアデライード・ルデュクと再婚し、彼女との間にも5人の子どもをもうけたが、このうち、成長したのは3人だけであった。1819年、アデライードにも先立たれ、以後、1845年に84歳で他界するまでやもめ暮しであった。
    《私の小さな兵士たち》は1809年のサロンに《軍事教練をする画家の3人の子どもたち》として出品された。《私の小さな兵士たち》というのは、後にこれが版画化された時につけられたタイトルである。画家の2度目の結婚で生まれた3人の息子を描いたもので、単色のいわゆるグリザイユである。色がないだけにデッサン、形が目立っているが、ボワイーらしいアカデミックで正確なデッサン力はここでも健在である。パリ市民の風俗的な主題を得意としたボワイーは、兵隊に扮した子どもたちの愛らしくあどけない表情や、正面を向いた弟のポーズに注文をつけている横向きの兄、その兄をみつめる二男など、微笑ましい「子どもの情景」を演出している。後ろに控える犬も、ボワイーらしいユーモアのセンスを感じさせる。

  • コロー(1796-1875)は生年からいえば新古典主義のアングル(1780年生まれ)の「後輩」、ロマン主義のドラクロワ(1798年生まれ)の「同期」ということになるが、美術史的には次世代のバルビゾン派、印象派につながる近代的な風景画の創始者として知られる。その一方で彼は数はそれほど多くはないが、すぐれた人物や裸婦も残している。その多くは晩年のもので、公的な展覧会(サロン)にも出品されない私的な性格の強いものであった。それだけにこの作品は、コローの初期の貴重な作品のひとつといえる。
    コローは生涯に3度イタリアに旅行しているが、これは彼が29歳の時の最初の旅行の収穫のひとつ。おそらく旅の途上で出会った少年をモデルとしているが、この頃の有名な《イーゼルに向かう自画像》と同様、褐色系の抑えた色調が目立っている。自然体のくつろいだポーズを取る少年の素朴な印象は、コローが描いた他の子どもの絵にも共通するが、コロー自身は生涯独身で、父親となることはなかった。