OA内容

#96 2014/1/31 OA
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  • 「鈴木堅之」 「足こぎ車いす」
    主題歌「あたらしい日々/Every Little Thing」

    脳梗塞などで体が麻痺して動かなくなった人が
    懸命に励む「リハビリ」は、大きな負担がかかり「辛くて大変」。
    そんな辛いはずのリハビリを笑顔で行う人たちがいる。

    彼らがリハビリで使っているのは、「足漕ぎタイプ」の車椅子

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  • この足漕ぎ車椅子を使う事でリハビリ効果に加え
    介護者がいなくても一人で行動する事が出来る。

    そんなリハビリ界に革命を起こした足漕ぎ車椅子を
    世界で初めて生産し実用化した革新者、鈴木堅之。

    「~諦めない想い~」

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  • 通常、人間は脳からの指令で足を動かし歩いている

    一方、半身不随の場合、体の片側が麻痺している為
    足と体が上手く動かず、歩くのが困難になってしまう

    しかし、足こぎ車いすに座ると、下半身への負担が大幅に軽減されペダルを漕ぎ前に進める

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  • この反射運動とわずかな足の力をペダルが補助する事で
    脳からの指令が無くても足が動き、リハビリとしても使用が出来る

    そんな車椅子を生み出した鈴木は、父親の仕事の関係で
    病院の敷地にある社宅で育った

    自分もリハビリに励む人達を救いたいと、
    大学卒業後、障害者施設に就職

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  • しかし、そこでリハビリ行う多くの人が
    途中でリハビリを諦めてしまう厳しい現実を知る

    そんなある日、電気刺激で麻痺した体を回復させる研究を行っていた、東北大学の半田教授と出会い、その研究に刺激を受けた

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  • 鈴木は貯金を取り崩し、早速足漕ぎ車椅子を使ってもらおうと400以上もの福祉施設を一人で回ったがまともに話を聞いてもらえない

    最後に向かったのが、パラリンピックでも使用されている競技用車いすなど、
    軽くて丈夫な車椅子を手掛ける一流メーカー

    最後の望みをかけ、足漕ぎ車椅子の魅力を説明するが、
    手応えはゼロ。

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  • 何の連絡も無いまま2週間、結果の確認で電話をしてみると

    「連絡が遅い 図面は出来てるぞ」

    「辛いリハビリを変えたい!」という鈴木の熱意が
    日本屈指の車いすメーカーを動かした

    そんな鈴木はこの日、新たな利用者の元に足漕ぎ車椅子を届けていた

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  • 脳梗塞で半身不随になった新海さんは
    43歳で病気になり、29年間車椅子での生活を強いられている

    もう一度一人で外を歩きたい、そんな想いに鈴木は応えた。

    今や国内や海外でおよそ5000台もの足漕ぎ車椅子が使われ、これまで鈴木の足漕ぎ車椅子で歩行困難から回復した人が大勢いる

    リハビリで笑顔にする、鈴木の挑戦はまだまだ続く

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  • 「能津喜代房」 「遺影写真家」
    主題歌「君にサヨナラを/桑田佳祐」

    写真スタジオで笑顔を浮かべる女性
    一見、微笑ましい記念撮影のひとコマ。
    実は、いずれ訪れる自らの葬儀で飾る予定の遺影を撮影。

    そんな、「遺影」だけを専門に撮影する
    革新的な「写真家」、能津 喜代房

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  • 家族のために“普段着の笑顔”を・・・
    そんな思いで、多くの人々の「笑顔」を撮り続けてた能津。
    彼にとって「忘れられない一枚」となった、
    「ある写真」とは…?

    「永遠に残る微笑む母の姿」

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  • 能津は22歳の頃、故郷山口を離れ
    大手化粧品メーカーの写真部に入社。

    自分の腕を信じ、わずか2年で、
    広告カメラマンとして独立。ところが…
    その年、結婚するも、商売道具のカメラを
    質に入れなければならないほど、苦しい日々が続いた。

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  • だが、そんな能津を批難するどころか、
    手を差し伸べてくれたのが、妻の父だった。
    能津を自分の家に住まわせ、経済的にも支えてくれた。

    しかし・・・

    「義父の死」

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  • お世話になった義父の写真を一枚も撮っていなかった。
    それにより、遺影に自分の撮った写真が使われなかったことがずっと引っかかっていた。

    昨年3月、能津は、体調を崩し入院中だった母に会うために、故郷山口の病院を訪れていた。

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  • 能津が故郷山口を離れたのは18歳の時。
    東京の写真を専門とする大学に入学するためだった。
    そんな能津のわがままを、
    父と母は、責めることなく応援してくれた。

    能津の家は決して裕福な家庭ではなかったが、
    大卒の初任給がおよそ3万円の時代に、
    毎月2万円を仕送りをしてくれた。

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  • そんな両親に支えられ、
    能津は、カメラマンとして活躍の場を広げていった。

    そして母の見舞いに訪れたわずか半年後、
    母の満子さんが帰らぬ人となる…。

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  • 義理の父に対する後悔から、
    能津は、母の写真を撮影していた。

    ずっと撮り続けてきた、最愛の母の笑顔。
    その中から、 能津が遺影に選んだのは81歳の時の1枚。

    今日も、遺影写真を撮影してほしいという人々が訪れる。

    優しく微笑む母に見守られながら、
    能津は、ありのままの、「普段着の笑顔」を撮り続けている。