画家紹介

苦労を重ねる学生時代

ミュシャは中学校に通いながら教会の聖歌隊としても活躍しました(そこで描いた聖歌集の表紙は、彼の初の公的な仕事でした)。しかし、学業不振により中学校を、また声変わりにより聖歌隊をやめると、音楽の道から美術の世界へと進みます。
裁判所の書記として働き始める傍ら、デッサンに励みプラハの美術学校をめざしました。受験には失敗してしまいますが、19歳でウィーンに行き、舞台装置などを製作する工房で助手として働きはじめます。しかし2年後、工房の最良の顧客であった劇場の火災にともない仕事が激減、解雇されてしまいます。その後、南モラヴィアのミクロフの町で肖像画を描いて生計を立てていましたが、地元のクーエン・ベラシ伯爵、弟のエゴン伯爵と出会い、援助を受けたミュシャは、ミュンヘンとパリの美術学校への留学の機会を得ることになります。
パリで最先端の美術を吸収したのち、1889年に援助を打ち切られたミュシャの新たな拠り所となったのは、マダム・シャルロットの食堂に集う芸術家たちのコミュニティでした。ミュシャはコミュニティのメンバーとなり、食堂の2階に下宿します。

  • 《パレットを持った自画像》

    《パレットを持った自画像》 1907 年頃 (C)Mucha Trust 2013

  • 少年時代のミュシャが、故郷の教会のベンチに落書きした名前のイニシャル(A. M. )

    少年時代のミュシャが、故郷の教会のベンチに
    落書きした名前のイニシャル(A. M. )
    1860 年代後半

運命の出会い!
一躍、パリの人気画家に!

1894年の年末、友人の代わりに印刷所で働いていたミュシャは、思いがけず『ジスモンダ』のポスターを作るよう依頼されます。そのポスターは、「女神サラ」と呼ばれたパリの人気女優、サラ・ベルナールが主演する舞台の宣伝ポスターでした。翌年元旦、ミュシャのポスターは、パリの街頭に貼り出されると同時に大評判となります。一晩にしてミュシャは、人気ポスター画家としての名声を得たのです。それまで雑誌や書籍などの挿絵の仕事ばかりでポスター制作の経験がないミュシャでしたが、サラは一目でそれを気に入り、ミュシャと6年間の専属契約を結びます。
その後、ミュシャはこの契約の下に『椿姫』、『ロレンザッチオ』、『メディア』、『トスカ』など、サラ・ベルナールのポスターを制作していきます。そしてそれらは、彼女のアイドルとしてのイメージを創り出し、定着させることになります。他方で、サラ・ベルナールとの交流は、ミュシャの作品における演劇的な表現を成長させてくれました。

ミュシャが探求した「美」

ミュシャが考えていた芸術とは、目にみえる外面的な美しさと、内面的な美しさの調和がとれた世界でした。そして、それらをより多くの人々に触れてもらい、彼らの生活をより豊かにすることを何よりも大切にしました。こうして生まれたのが、一般の人にも手が届く観賞用のポスターや装飾パネル、人々がデザインする手引きとして考案された『装飾資料集』や『装飾人物集』でした。ポスターに並び、装飾パネルや、本展に出展される《四季》、《四芸術》、《宝石》などの連作も多く手掛けています。

  • 《『装飾資料集』 図50 の最終習作》

    《『装飾資料集』 図50 の最終習作》 1899 年 (C)Mucha Trust 2013

  • 《『装飾資料集』 図49 の最終習作》

    《『装飾資料集』 図49 の最終習作》 1901- 02 年 (C)Mucha Trust 2013

  • 《モエ・エ・シャンドン:ホワイトスター シャンペン》

    《モエ・エ・シャンドン:
    ホワイトスター シャンペン》
    1899 年 (C)Mucha Trust 2013

故郷に秘めた思い、
ミュシャの晩年と民族意識

ミュシャが晩年に向かって思い描く、「内面的な美しさ」「美への思い」とは何だったのでしょうか。 1910年、ミュシャは故国であるチェコに帰国し、《スラヴ叙事詩》を制作します。20点の絵画から成るこの一連の作品は、スメタナの組曲『わが祖国』から着想し、スラヴ民族の歴史を描き、完成まで20年という歳月を要しました。また、この時期、ミュシャはチェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群やプラハ市民会館のホールの装飾等も手がけています。
第一次世界大戦後、ハプスブルク家が支配するオーストリア帝国の崩壊により、チェコスロヴァキア共和国が1918年に成立し、新しい時代に突き進み始めます。ミュシャは、作品を描きながら自身のスラヴ人としてのアイデンティティを再確認し、民族愛や愛国心を高めていきます。その思いが一連の大作として結実した作品が、《スラヴ叙事詩》です。さらに、新しい共和国のために、無報酬で紙幣や切手などのデザイン制作を請け負っており、ミュシャの愛国心が偲ばれます。
1939年、祖国独立のわずか20年後、プラハに侵入してきたドイツ軍によって逮捕されたミュシャは、健康を害し、2度目の大戦前夜に78才の生涯を閉じました。本展に出品される《スラヴ叙事詩》の習作や、未完の人類への記念碑、《理性の時代》、《叡智の時代》、《愛の時代》の習作からは、ミュシャが最期に思い描いた民族愛や平和へのメッセージを読み取ることができるでしょう。

  • ミュシャの生まれ故郷、 イヴァンチッツェの風景

    ミュシャの生まれ故郷、
    イヴァンチッツェの風景
       

  • スラヴ叙事詩 《スラヴ菩提樹の下で宣誓するオムランディーナの若者たち》のための習作

    スラヴ叙事詩
    《スラヴ菩提樹の下で宣誓するオムランディーナの若者たち》のための習作
    1860 年代後半 (C)Mucha Trust 2013