きょうは何の日

 

 

1981年3月31日

ピンク・レディーの最終公演が行われた日

 

ピンク・レディー。まさに日本中を熱狂させ、空前のブームを巻き起こした。
当時、社会現象をも2生み出した彼女たちが人々に与えたインパクトはどれほどのものだったのか?

ミーとケイの二人は静岡市の同じ高校に通う同級生だった。
そんな二人は歌手を夢見て、フォークデュオを結成。当時歌手の登竜門となっていたオーディション番組に挑戦する。

その番組とは『スター誕生!』。

当時この番組からは山口百恵や桜田淳子など数々のスターが生まれていた。
この番組で見事に決勝に残った二人は、両親の反対を押し切って上京する。むかえた決戦大会。二人は精一杯歌い二番手で合格する。

そんな二人の印象は、素朴な雰囲気だった。
そんな二人を変えたのは、3人のプロフェッショナル。一人目は人気作詞家の阿久悠。二人目は新進気鋭の作曲家都倉俊一。三人目は斬新な振り付けで名を馳せていた土居甫。

そして1976年、ピンク・レディー伝説の幕が開く。
『ペッパー警部』でデビュー。当初はキワモノ的扱いをされたが、二人の振り付けに子供たちが食いつき、競って真似をするようになる。
そして3ヵ月後、『S・O・S』をリリース。初のオリコン1位を獲得する。当時仕事が忙しく、二人は自分たちがどれほど人気があるのか分からず、地方公演で集まった観衆の多さで初めて人気の高さを実感した。

そんな中、作詞家の阿久悠は歌詞に時代を織り込んでいく。『渚のシンドバッド』ではセクシーという言葉を使い、若者の性に対する自由さを演出し、また『ウォンテッド』では、世間の話題となっていたロッキード事件をイメージさせていった。

そして迎えた1977年、ピンク・レディー最大のヒット曲が誕生する。
映画『未知との遭遇』が話題となる中、ついに『UFO』が発売されたのだ。
この曲は155万枚の大ヒットを記録。大人も振り付けを真似し始め、社会現象にまで発展した。

さらに、王貞治のホームラン記録更新ブームが冷めやらぬ1978年、その熱を織り込んだ『サウスポー』を発売。この曲で日本歌謡大賞を受賞する。勢いはとどまるところを知らず、立て続けにヒットをとばした。

1981年、そのピンク・レディーも解散の時をむかえる。雨の後楽園で、最後のステージに立った。
しかし、解散から四半世紀がたった今、絶頂期を知らない新たなファンが増えてきている。ピンク・レディーは解散した後も人々にインパクトを与え、新たなファンを獲得しているのだ。
彼女たちの伝説はまだ終わってはいない。

受賞暦 『UFO』→日本レコード大賞受賞(1978年)
    『サウスポー』→日本歌謡大賞受賞(1978年)

 

 

 

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