日本航空の大ベテラン機長、小林宏之さんが42年間のパイロット生活にピリオドを打ちました。最後のフライトはホノルルからの成田行き。これまで幾度も降り立った馴染みの空港で有終の美を飾りました。ひとしおの感慨があることでしょう。
小林機長と私はこの3年ほど、何度か食事をともにしながらお話を伺ったり、日本航空の整備の現場・パイロット訓練の現場などにご案内していただいたり、という関係です。というのも小林機長の所属は「広報部付」だからです。現役の機長であり、メディアの窓口でもある、という他に例のないポジションです。これまで日本航空が就航したすべての国際線に乗務し、パイロットという仕事の妙味や舞台裏まですべてを知り尽くしているからこその人事。定年を迎えたあと、その経験と技量を買われて、再雇用というかたちでこれまで乗務を続けてこられたのです。
小林機長の異名は「グレートキャプテン」。前述したような、空前にして絶後の豊富な乗務経験もさることながら、「欠勤」「自己都合による乗務変更」が42年間まったく無かった、というのですから当然の称号でしょう。社会人として責任ある立場になっても、誰しも体調不良や、やんごとなき事情で休むことがあるものです。労働を提供する側という立場でみれば、それは「権利」とも言えます。それを42年間一度も行使しなかった。まずそのことだけで凡夫である私は脱帽です。おそらく奥さまやご家族の支えも相当なものだったと推察されます。
実際確かにお若い。今回、乗務前にパイロットたちの集まる大部屋の中でその姿を拝見したところ、初めて「そうか、63歳という年齢はたしかに異例のことなんだ」と思った私。普段小林さんとだけマンツーマンで接していると、ほかの一般的なパイロットたちの年齢構成はわかりませんからね。たしかに30代、40代の面々の中でその姿を見て、「グレート」なたたずまいに納得した次第です。
平素から「年齢はコントロールできる」とおっしゃる小林機長。毎日のウォーキングのみならず、目のエクササイズも欠かしません。なればこそ、あの計器だらけ、小さなマニュアル書類だらけのコクピットで、遥かかなたの雲の変化を見渡した直後でも、手元の小さな文字に焦点をさっと合わせることができるのです。身体能力の維持だけでもすごいことですが、洞察力、判断力など総合的に42年分の磨きがかかっています。
つまり、ご本人と直接お話させていただくと、おそらく誰でも容易に「尊敬すべきところ」が見つけられる方といえます。しかも決して型物ではない。非常に謙虚で私たち取材チームにもさりげなく気を配られる。そしてフランクで陽気な雰囲気を身にまとっています。なるほどこういうお人柄だからこそ、人は「グレートキャプテン」と呼ぶのでしょう。いちいち得心してしまいます。
今回、国内線での最後の乗務に密着取材させていただいたのですが、パイロット仲間、客室乗務員、出発地・到着地の地上スタッフ…と、どこに行っても握手を求めてくる後輩たちの姿を見ることができました。カメラのまわっていないところで後輩機長に聞くと、「私たち後輩をよく辛抱強く育ててくださいました。たくさんのことを教わり、感謝し尽くせません」と、ちょっと極まったような口調で話してくださいました。ひとすじに道を極め、後進を育成し、静かに翼を下ろす…。私たちメディアは小林機長を「特別な存在」として伝えるわけですが、当の小林機長は「いつも通り、普段通りに終えたい。特別なセレモニーなどはちょっと…出来ればご遠慮申し上げたい」とずっとおっしゃっていました。
ひとつを極めるということのお手本を、間近に見せていただいた心境です。今回比較的長時間をかけて放送したのは、単に世界の空を知り尽くしたパイロットが引退する、だけにとどまらないからこそ。なんとなれば、どの職場にあっても、どんな仕事をしていても、小林機長の姿を自分にあてはめて考えるきっかけになるから、というわけです。そんな思いが祝日の放送で多くの人に伝わっていたら、幸いです。
先日、広尾で待ち合わせをして上野から日比谷線に乗り込みました。夕食の時刻に合わせての移動で、ばっちりオンタイムで行けると安心して座席の揺れに身を任せていたのです。すると、六本木を過ぎたところで不意に列車は停止。アナウンスが流れました。
「この先、広尾駅で非常停止の信号が出ております。安全確認をしておりますので今しばらくお待ちください」…と、無機質なトンネルの中で列車は音もなく止まってしまいました。3分、5分…時間は流れていきます。繰り返し「ただいま安全確認中です」「もう少々お待ちください」というアナウンスが続きます。
これ、どうしようもないとは分かっていながら、そうであるがゆえにほんと精神衛生上よろしくないですよね。いつ動き出すのか。予定に間に合うのか。広尾まで行くのか。もしや六本木にバック?最悪の場合、線路に降りて歩くとか?そしてこの状況を待ち合わせ先に連絡しようにも、地下トンネルだから携帯は圏外だ…。
先方には「○△分に着く日比谷線に乗ります」と事前にメールしていたので、その点だけは助かりました。もしこのまま大幅に遅刻をしても、先方が「きっと日比谷線でのトラブルに巻き込まれているんだな」という結論にたどりつく可能性があるからです。
しかし待つ間の数分というのはなんと長いことか。昔、よく止まる地下鉄の沿線に住んでいた時にも考えたのですが、我々がいかに「連絡がつく」「外部とつながっている」ことに慣れきっているかと思わざるをえません。実際このときには、5~6分ほどで電車は動き出し、広尾に無事着いたのですが、なんだかいやなかたちで肝を冷やしました。
言い尽くされていることではありますが、携帯電話が常時通じるようになった裏返しに、つながらない時の不安は次第に大きくなっている気がします。ほんの10年、15年前にはもうちょっと鷹揚な気分でいられたハズなのですが。これは世の中の進歩なのか、人心の退歩なのか。
航空会社のスカイマークで不祥事が相次いでいます。まず、乗務中にコックピットで機長や客室乗務員らの写真をデジタルカメラで撮影していた副機長が諭旨退職処分に。また撮影を許したとして、機長ら14人も減給などの処分を受けました(11日現在)。問題の30歳代の副機長は、去年4月から先月にかけて、少なくとも5回撮影したということです。スカイマークは「航空法に違反した」としてこの処分を下したのですが、当のスカイマーク自身には、監督官庁の国土交通省が厳しい目が向けられています。国土交通省は、会社からの報告が十分ではなく、他にもコックピット内などで怠慢な職務が行われていた可能性があるとみて、11日、スカイマーク社に立ち入り検査に入りました。
これに先だって、スカイマークは他にも航空法に抵触する問題で、国土交通省から厳重注意を受けています。
問題が起きたのは2月のこと。羽田空港で、体調が悪く十分に声が出ない客室乗務員を機長が交代させるよう求めたにもかかわらず、スカイマークの会長および社長は飛べない理由を繰り返し質し、結局「十分声は出ている」として交代させずに運航を命じていたことがわかりました。客室乗務員の本来業務は、保安要員です。声が十分に出なければ、緊急時の客室での指示や誘導などに支障をきたし、乗客の安全が担保出来なくなります。ところがスカイマークの会長らは客室乗務員を交代させなかったばかりか、交代を求めて命令を拒んだ機長を当該便からおろし、この日のうちに機長との契約を解除していました。
運航の最終決定権を持つのは機長です。また乗務員相互の健康確認も定められています。機長は、乗務員が職務を遂行するのに必要な健康な状態であると確認してサインをし、搭乗するわけです。国土交通省は、その安全上の機長判断に会社上層部が従わないことは規定違反だと厳しく指摘し、スカイマークを厳重注意したのです。
安全運航は基本中の基本。しかし法令をないがしろにするこのようなマネジメントがコクピットや客室周辺で起きているとなると、看過することはできません。また、法令を遵守しようとした機長が即日契約解除されるのも、驚くばかりです。安価な料金で輸送実績を伸ばしてきた会社ですが、こうした事案をつぶさに知れば、利用者も様々な「疑念」を抱かざるを得ないでしょう。「真摯に受け止めている」という会社のコメントが、文字通りに受け止められるかは、今後の対応にかかっています。
前回の当コラムで、私こう書きました。「くれぐれも『様子を見に行く』ことだけはしないように、そして、避難が長引くとしても『もう大丈夫だろう』と、勝手に見切りをつけないようにしてください」。
しかし、残念ながら「やはり」と言うべきか、まったく危機感の感じられないデータがその後明らかになりました。まずは「海に近づいた者」について。チリでおきた地震で津波警報が発令された先月28日、海に出ていたサーファーや見物人などが、海上保安庁などが確認しただけでも1300人あまりいたそうです。仮に予測通り3mの津波が押し寄せていたら、まずこの人達の命は無いでしょう。問題なのは、自分勝手な人の行動で、多くの警察・消防関係者、自治体職員などのマンパワーが割かれ、彼らの身も危険に晒されることです。
いっぽう避難の状況は。各社の報道を総合すると、避難勧告や避難指示に従って避難した人の割合は、わずか数パーセントにすぎなかったようです。
これらの数字を見るに、日頃我々が全力を傾注している「防災」報道が、どこまで浸透しているのか、本当に残念でなりません。警報の出し方、解除のタイミングをめぐって気象庁は謝罪していましたが、実際1mを超える津波は押し寄せていたのです。つまり、今回はたまたま最悪の被害を免れただけと考えるべき話です。津波の高さについては予測の精度にいくらかのブレはありますが、仮に予想以上の津波が来ていたら、恐らく「警報が甘かったのでは」という批判が巻き起こったに違いありません。
我々も含め、多くの市民は地球規模の災害に、科学的客観的な分析をしようがありません。相応な根拠をもって発令された警報を軽視し「やっぱりそんな津波は来なかったじゃないか」と後刻批判するのは、自然の脅威を忘れたひとりよがりと言わざるを得ない行為です。今後、情報を出す側が精度の高い警報を出したとしても、情報を受ける側が甘く受止めては意味がありません。「今回大丈夫だったから」という思いこみは禁物です。
日曜日の午後、会社でこの文を書いています。きのうの「チリで大地震」の一報から気になっていたのですが、心配な「津波」が徐々に現実になっています。日曜午前に発令された大津波警報、津波警報はこの時間(午後4時半)も継続中。すでに北日本から東日本の各地で、津波が観測されました。高さはこれまでのところ数十センチで、大規模な人的被害などは入っていませんが、引き続き警戒が必要な状況です。
津波の怖さというのは、実体験が無い人がほとんどであるがゆえに、なかなか理解されないものがあります。「30センチぐらいなら、どうってことはない」とか「1メートルの津波が来ても大したことはない」と思われがちです。ところが、地球規模の水の動きというのは、例えば低気圧の接近で海(の表面)がしける、という類とは全く異なります。
津波は、海面からはるか深い底のほうにかけて、海水全体が巨大なかたまりのようにエネルギーをもって動きます。そのエネルギーはたいへん大きく、陸上に上がっても水の流れが速いのです。大雨によりプールのように水が溜まるのとは違い、海側からどっと流れ込む水には速さと力があります。ゆえに、たとえ20センチ、30センチの深さでも足を取られ、車は流される恐れがあります。
津波は早い。水の深さが浅くなる(=陸に近づく)とスピードは遅くなるのですが、それでも時速数十キロです。押し寄せる津波を目視してから走ったところで、絶対に逃げられません。早めに高台に避難する必要があります。
そしてもう一つ。津波は一度で終わるわけではありません。とくに今回のように遠い地域を震源とする場合は注意が必要です。震源から四方八方に向かって起きた津波が、陸地や海底の凸凹に跳ね返って第2波、3波と続くこともあります。その都度高さが増す時もあるので、「最初の波が過ぎたから安心」とは言えないのです。
いま、目に見えて潮位の変化が起きている地域もあるようです。どうか大きな被害が出ないよう、祈るばかりです。くれぐれも「様子を見に行く」ことだけはしないように、そして、避難が長引くとしても「もう大丈夫だろう」と、勝手に見切りをつけないようにしてください。気象庁の警報が解除されるまでは、テレビやラジオを通じて情報を入手して厳重な警戒を続ける必要があります。
人間、走るという単純な行為においてこそ、底知れぬ奥行きを感じる時があります。なぜ同じ距離を走っても、一人で走ると辛いのか。どうして誰かと話ながらだと、意外に軽くクリア出来るのか。そんなことを考えるだろうなあと思いながら駆け出した土曜日の朝。
この日は、スケジュールてんこ盛りの一日でしたから、とにかく15キロ走るには遅くとも10時には走り始めなければいけません。起きた直後、己を奮い立たせなければその目論見は達成されないという状況。目覚めたのは8時半。よしよし。前夜が遅かったわりには予定通り。で、着替えて快晴の路上に出たわけです。目標は前述の通り15キロ。先週は走りませんでしたからこれぐらいの距離を出さないと帳尻が合いません。走り始めると…やっぱり体が重い…。最初の5キロがいつものペースよりやっぱり遅いんです。
奥行きその①。ジョギングコースのある公園に入ったら、小学生の野球チームに遭遇。彼らは練習前のランニングです。子どもですから、ガーっと突っ走ったと思うとダラダラぐだぐだして私に追いつかれる。そんな「ペースも何もない」彼らと抜きつ抜かれつしていると、自分が辛いことを忘れるわけです。
奥行きその②。私の場合、いつも7~10キロぐらいが一番気持ちよく足が前に出るあたり。これを超えるとまたしんどさが蘇ります。ですから、このあたりで「ゴールに近づいている」ように自分を錯覚させるコース設定をする必要があります。つくづく、体ではなくアタマで走って居るんだなと思うわけですね。
奥行きその③。週末となると、親子連れに出くわしたときに「ガンバレー」と言われることがあります。そう言われるとなぜ、頑張れるのか。東京マラソンに出た時にもそう思いましたが。
奥行きその④。今回は、最終盤の辛い局面で、高橋大輔選手のメダルへの苦難の道を想起しました。「あのリハビリに比べたら…」「こんなジョグ程度で根を上げるわけにはいかん」なんて思うと、まあ何とか頑張れるわけですね。
というわけで、無事予定通りに16キロ完走(念のためちょっと長めにしました)。走るというのは単純であるがゆえに奥行きが深いと思うのです。
食べもノート #006 なめろう
房総の味、なめろうです。東京でも居酒屋などでよくみかけるメニューですが、やっぱり本場は違いましたね。まずこのボリューム。値段もそれなりにしますが、東京のこぎれいなダイニングバーみたいなところだと、ほんと梅干しぐらいのサイズでお上品にしかもりつけられませんからね。そこへいくとこの分量。ちょっと大きめのコロッケ、みたいなサイズです。味噌の加減もちょうどよく、お酒とよく合います。私はこの日、白い御飯を頂いてそこに乗っけても食べました。あー思い出す。あの味。
東京マラソンまであと2週余り。参加者の皆さん!調整はバッチリですか?…(返答に耳をすます)…はい。そうですか。それぞれのペースで進んでいるようですね。こんな風に聞いておいてなんですが、私は今回は出場しません。「リアルタイム」からは森麻季アナウンサーが出場予定。ただ、日本テレビが生中継しますので、単純に自分のペースで走るだけなのか、それともリポートしながらどなたかと一緒に走るのか、その辺りは聞いておりません。どうなるんでしょうね。
そのモリマキさん、そして同じくエントリーしたT君(報道局外報部)の20キロ走に、私も参加しました。事前にシミュレーターで距離計測をし、スタート地点を築地と定めて集合。この日はたいへんな好天。気温は5度あるかないかという寒さでしたが、午前中はほとんど風が無かったので走り始めたらすぐに体は温まり始めました。いやあ気持ちいい。
で、今回私にとっての目玉は「レインボーブリッジ」。自分の足で渡るのは初めてです。芝浦の側からですと、最後の太い橋脚にエレベーターが付属していたんですねえ。一気にエレベーターで上がって、弧を描く歩道に出ます。眼前に広がる東京はまさに絶景。冬の朝ですから空気が澄んで、ビルの一つ一つがくっきりと迫ってきます。尾道で感じたのとはまた似て非なる「箱庭感」です。柵の真下を覗くと、数十メートル下に海が。高所恐怖症の方はご注意下さい。
お台場に降りてからは、「ゆりかもめ」に沿ってぐるっと埋め立て地を大回りします。海の科学館、湾岸警察署、テレコムセンター、メガウェブ…以前に取材で訪れた場所を眺めつつ、ビッグサイトへ。写真の奥にみえますね。ここはフルマラソンのゴール地点。去年はずぶ濡れで走った辺りです。あれは寒かったなあ…。モリマキさん、そしてT君は今回どんなタイムでここにやってくるのでしょうか。その先、東雲、豊洲はマラソンコースを逆走。佃大橋をわたって築地に戻ってきました。途中ちょこちょこ寄り道したのでうまいこと距離は20キロに。実走タイムは2時間。おお、私にとってはけっこうなペースでありました。
食べもノート #005 ラーメン
戻ってきてのお楽しみは、築地場外でシンプルなラーメン。おお、味もさることながら、その温度に体がぐっと温まります。しっかり運動したあとだけに、五臓六腑に染みわたりました。実際のレースまではあと2週間ほどですから、エントリーした皆さんはこの週末あたり、もう長駆せずに軽めの調整に移る頃でしょう。わたしもそろそろ調整に入ります。応援計画の(笑)。
日本海側では暖冬の予想を裏切って、今冬は年末から雪が絶えません。先週末に新潟市内の実家に電話をしたところ、やっぱり雪は減る気配がないようです。この写真は去年2月に撮影したもの。実家の庭の様子です。夕刻に撮ったのでちょっと暗くて見づらいのが恐縮です。枯山水の周囲はうっすら雪化粧していましたが、この程度で済んでいました。
しかし今回は年が変わる前からの断続的な大雪。これはひときわ冬を長く感じさせます。先週は新潟市内の住宅地で起きた火災の際、積雪で道路に消防車が入るのに手間取り、消火が遅れるという問題も起きました。さらに週末には、通行止めの国道から迂回して農道を走行中の車が100台以上、地吹雪の吹きだまりなどで立ち往生。ドライバーなどが避難するという事態も起きました。こういう被害は聞いたことがありません。ひとつ間違えばやはり、大雪は生活と命を脅かすものであるわけです。
実家に電話をした日には、朝と夕方の2回、家の前の路地に除雪車が入ったようでひと安心。ただ、こうなると心配なのが雪おろし。我が実家は1階部分の屋根の勾配が小さいので、積もった雪が自然に落ちてくることが期待できません。とはいえ父親もすでに古希をこえた齢。屋根に上がるのは心配です。人にお願いしてやってもらうよう、母に話した次第です。スキーをする方はよくご存じでしょうが、新潟の雪は湿っぽく重い。ゆえに積雪の深さに増してずっしりと負荷がかかるのです。まして今年は、積っては少し解け、下のほうがたっぷり水分を含んで凝縮した上に新しい雪が積もり、また少し解け、の繰り返しですから、非常に心配な重さになっているはずです。単純に新雪が1m積もるのとは比べるべくもありません。
私が子供のころあたりから、雪国の暮らしは格段にしのぎやすくなりました。自治体におる除雪の仕組みも整い(雪の降り具合により自治体財政が大きく左右される)、表通りには消雪パイプがほぼくまなく整備されました。でも自宅の敷地内は自分で何とかするしかありません。まだ1か月ほどは雪が増える恐れのある時期。もう住民を苦しめるかたちで大雪が降らないといいのですが。しばらくは雪不足のバンクーバーに分けていただくよう、雪の神様に差配をお願いするばかりです。
先回の続き。心身ともに満たされて店を出た我々に、一力さんから手渡された我々へのお土産がこちら。ごくシンプルな食パンです。一度食してみたかった、下町浅草のお店のもの。ここは食パンとロールパンしか作らないことで東京はもちろん、日本中に知られるところです。こういうお土産を選ぶセンスというのが、粋ですよねえ。
さっそく土曜の朝にナイフを入れました。ちょっと小ぶりのサイズなので、そのぶん若干厚めにそろりそろりとパン切りナイフを進めます。ああ、芳香。金曜日の帰路、混み合う電車で周囲の酔客に押されながら、つぶされないように胸元に抱えた袋から立ち上ってきたパンの香りたるや、一瞬トリップしちゃいそうな芳しさでした。そしていま、切り口からの香りは耳に覆われた表面とはまたちょっと異なるものです。やっぱりもう1枚…。一枚には最初からメイプルバターを塗っておいて、トースターにIN!ジリジリとタイマーが回る音。それにあわせてうっすらと香りが伝わって来ます。
そして焼き上がりはこちら。少々焼きすぎ、とお思いになる方もいらっしゃるかもしれませんが、私はしっかり焼くのが好きなので、こんな感じがベストです。色の濃いほうがメイプル、そうでないほうが何も塗っていないシンプル(ひとり笑)。口に運ぶと…サクっと、ふわっと。おお。香ばしいとはこのこと。メイプルバターをつけてももちろん美味しいのですが、何もつけないのにしみじみ美味い。このパンを毎日食べられる近所の人は羨ましいなあ…。浅草界隈にはこのパンを使っている喫茶店もあるとか。プロが焼くとまた味も香りも一入でしょうからね。早起きして出勤前に「モーニング」、食べに行っちゃおうかなあ…。
金曜日の夜、「リアルタイム」コメンテーターのおひとり、山本一力さんと食事をする機会に恵まれました。これが楽しみで、先週は仕事をがんばる甲斐があろうというものでした。一緒に出かけるモリマキさんや、熱狂的愛読者を含むスタッフたちの表情も、この日はちょっと違います。一週間の締めくくり、あすは休みという夜ゆえ、気持ちも一層高まって。勇躍、揃って一力さんの地元の街へ…。
道中見える下町の明かりは、何ともあったかくて賑やか。居酒屋のガラスの向こうには安らぎと活力が同居しているのが手に取るようにわかります。うんうん。この感じ。そうして着いた街で案内されたのは、もんじゃ焼、鉄板焼の美味しいお店。トントンと階段を上がるとそこにはすでに、飲食を愉しむ人たちの沸き立つ気持ちがあふれていました。うわー、楽しみ。
出された料理はどれも美味。妙な凝りかたをしたものはありませんが、ひとつひとつシンプルに丁寧にこしらえているのがわかります。ちょっとビールをやりながら、どんどん食が進む進む。そして、あまり強調すると誤解されそうですが、お店の女性たちが悉くお綺麗なのです。その条件でスカウトしたかのように。…とまあ、そんな様子の中で口に運べば、このひとこと以外ありませんよね。うまい!
さらに力強いメインディッシュといえば、もちろん一力さんとのお話。読者として、知りたいことがたくさんありましたので、どんどんぶつけてみました。「日々の生活サイクルは?」「江戸の町のようすは頭の中にインプットされている?」「表現するって、ずばりどんなことですか?」敬愛する池波正太郎さんのこと、互いのふるさとのこと…一力さんの答えは簡潔にして要を得ていました。一つ一つ、的確な言葉を選んでいるのに答えが素早いのも印象的。言葉を生業とする人ゆえ、ことばそのものが血肉であり当然、という見方だけではまだ足りません。様々な仕事を通じて人を見てきた、その重層感が一言に籠められているのだなあという気がします。一力さんと話す時、これはと思うことを口にする時は特に、自然とこちらも真剣に言葉を選んでいることに気付きます。
あれこれ伺って、ああ!と共感を覚えたのは、食べ物の話。一力さんの文章には実に旨そうな、それこそ行間から香りたつような食べ物の描写があります。で、伺えばやはり、食べるという行為について真剣なんですね。私と一緒です。日々食べたものをメモに記している点も同じく。食の記憶というのは不思議なもので、「どこで、誰と会った」というメモだけとは比べ物にならない回想を生むのです。そんな思いを共有して、互いにうんうんと納得したのでありました。私、もちろんこの日の日記に書きましたよ。キムチ、もんじゃ焼、お刺身のサラダ、スパサラダ、脂の乗った牛すじの鍋もの…。何年が経っても、このページを見ると思いだすことでしょう。「ああ、一力さんと話が弾んだあの夜だ」と。そう、牛すじの脂が冬の北風に乾いた唇をいい塩梅に潤してくれたなあと。口が滑らかになって、ずいぶんしゃべったなあと。
帰路、電車に乗り込む我々一行は笑顔にあふれていました。お互いの顔を見合わせて確認したんですから間違いありません。目には見えないけれど、コートの上に確実にまとった、お店の愉しく和やかな空気。池波正太郎の著書じゃあありませんが、「よい匂いのする一夜」ここにあり、という一言に尽きるのです。一力さん、ありがとうございました。
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