理容師世界一の真実 / 田中トシオ 編

2010年4月24日

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東京郊外の理髪店で、
その人は今日も腕をふるっています。
 
田中トシオ。
実は日本人で初めて理容師世界一に輝いた人物。
その影には球界の番長と呼ばれた男の姿がありました。
            
世界理容美容技術選手権。
各国を代表する理容師が2年に一度、
技術を競い合うヘアスタイリングのオリンピック。
国の威信を賭けた闘いには、
時に、10万人を超える観客が集まります。
 
評価の基準は、
技術の高さとスタイリングのオリジナリティ。
田中の初出場は、1984年。
でも、世界のレベルは、あまりにも高かったのです。
 
参加25ヶ国中、23位...惨敗でした。
打ちひしがれていた田中は、世界大会が日本で開かれることを知りました。
「今度こそ情けない結果は残せない」
田中は焦りを感じていました。
これまでのように店の営業の合間に練習をしているだけでは
とても世界には追いつけない。
 
そんなある日、ひとりの常連客が田中の店にやってきました。
西武ライオンズの清原和博選手でした。
 
この日はシーズン開幕の前日。
なぜか清原選手はバットを手にしていました。
しかし、その手はずっと小刻みに震えていました。
「具合でも悪いんですか?」
清原選手はこう答えました。
「いえ、開幕前の武者震いです」
 
衝撃でした。
清原選手はバットを抱いて眠ると公言し、
24時間すべてを野球に捧げている男。
よし、俺だって...
田中は大会までの2年間店を休もうと決めたのです。
『収入を、生活を犠牲にしなければ世界で勝つコトなんて出来ない。
24時間のすべてを、大会に捧げよう』
 
こうして、孤独な日々が始まりました。
暮れも正月も関係なし、
一日最低でも8時間、ただひたすら腕を磨くこと...
 
でも田中の焦りは一向に消えませんでした。
『最先端の流行を知るライバルに勝つには
俺にしかできない技を見つけなければ。』
 
 
行き着いたのは、日本にしかないワザ。
ニッポン男児の誇り、角刈り。
角刈りなどのショートヘアをハサミ一本だけで仕上げる直バサミは日本ならではの技術。
通常ブロウやセットでつくる『面』をカットだけで完璧に仕上げます。
 
田中はこの日本独自の技で格式ある
世界大会に乗り込もうと決めたのです。
 
そして決戦の日、
参加30ヶ国、観客15万人を呑み込んだ会場で、
闘いの幕が上がります。
寝る間も惜しんで鍛え上げた腕、
この大会のために我を忘れた2年間。
 
直バサミで仕上げた田中の作品に、
海外の審査員たちが目を見張ります。
            
そして結果発表...
「ファースト・プライズ、トシオ・タナカ ジャポン」
なんと世界一に選ばれたのは、田中の作品。
全てを捧げた2年間が実を結んだ瞬間でした。
 
全てを賭けて野球に打ち込む
番長の姿が一人の男を世界一へと導いた
そんな化学反応の物語。

南極観測の真実 / 松本満次 編

2010年4月17日

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終戦から11年。
敗戦国日本が、まだ欧米諸国に強い劣等感を抱いていた頃。
南極観測という舞台で、世界を振り向かせるチャンスが訪れます。

船長に任命されたのは、松本満次(42歳)。
海上保安庁に勤める一人の船乗りでした。

敗戦国日本が世界から許された観測場所は、リュツォ・ホルム湾岸。
欧米が7度上陸を試み、誰ひとり到達できなかった人類未踏の地だったのです。

湾であるため一年中流氷が停滞し、氷の群れが行く手を阻んでいました。
さらに松本の絶望に追い討ちをかけたのは、肝心の船でした。
戦争で傷つき、引退間近なオンボロ船「宗谷」。
日本は宗谷を改造して挑まなければならない程、貧しかったのです。

文献から、めざす湾、攻略のヒントを探る松本。
けれど米海軍の資料には一言、「接岸不可能」。
「やはり無理なんだ...」

「それでも前に進まねば...」
八方ふさがりの中松本がとった行動。
それは周辺地域のデータから、めざす湾の気象を割り出すことでした。

気温、海流や偏西風の動き、潮の満ち引き、地球の自転...。
あらゆるデータをかき集め、計算する松本。
それはもはや船乗りではなく学者の行う作業でした。

その瞬間、松本のカラダを駆け巡った興奮!

「1月末の引き潮の時に、わずかに氷は大陸から離れる。
それを利用すれば大陸への水路が開けるかも知れない」

さらなる計算によって、水路は
東経40度付近に現れることも判ってきました。

「自分は今まで弱点を嘆いてばかりいた。
しかし弱点だらけだったから南極をより深く知ることができた。」

昭和32年1月16日。
宗谷は暴風圏をぬけ欧米を拒み続けた湾に突入しました。
けれど、1月20日、厚さ8メートル10キロにも及ぶ氷の群に
行く手を阻まれてしまいます。
計算では割り出せない、予想を遥かに超えた現実。
「私の計算は間違っていたのか...」
『反転か進撃か』

船内があきらめムードにつつまれる中、
しかし松本はただ一人自分が出した答えを信じました。
「今日の引き潮は午前9時」

そして運命の午前9時...氷がゆるみはじめたのです!!
『よし、全力を尽くして前進だ』

1月24日 PM2:50。
宗谷は、到達不可能と言われた湾をぬけ、
ついに南極大陸に到達したのです。

『遂に勝った。この時の感激は生涯忘れることできない』
この快挙は、欧米各国を仰天させました。
前人未踏の地につくられた昭和基地は科学の進歩に大きく貢献。

貧しく何もないところから始まった南極観測。
日本人の夢が、勇気に変わった瞬間でした。

東京五輪 国旗に秘められた真実 /吹浦忠正 編

2010年4月10日

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東京オリンピック開幕の2年前。開催国日本にある重大な使命がありました。
参加94の国と地域全ての国旗を、正しい色とデザインで準備すること。
敗戦から19年...日本が国際社会に復帰する晴れ舞台。ミスは許されません。

組織委員会が国旗の準備を一任したのは、吹浦忠正(ふきうら ただまさ)さん。
子供の頃から筋金入りの国旗マニアだった、なんと二十歳の大学生だったのです。

オリンピックの国旗は、使いまわしのものなどありません。
毎回 主催国が用意するのが決まりでした。
しかし、当時の資料は不確かなものばかり、国旗の専門家もいませんでした。

とにかく見本を送り、本国にOKを貰わなければいけません。
国際電話も通じにくかった時代、やりとりは全て郵便でした。

孤独な青年を支えたのは、旗作りの職人さんのこんな言葉...。
「昔...国旗は戦争のための道具やった。
いま初めて、平和のための旗作りや...」

一番問題になったのは、アイルランドでした。
緑 白 オレンジのシンプルな国旗。しかし、見本を作って送ってみたら...
「もっと、緑を淡くしてほしい」
もういちど見本を送ると...
「違う もっと淡くして欲しい」
瞬く間に1年半 残りは半年。双肩にのしかかる 国家の威信。

7回目の見本も却下。でもそこにこんな言葉が添えられていました。
「緑は私たちの誇り...それを忘れないでほしい」

そうか...!一番大事なことを 忘れていた!
なぜ緑なのか...その意味を学ばなければ...。
豊かな森と大地...アイルランドは もともとケルト人の国。
でも長い間、イギリス連合王国の支配下にありました。
国旗の緑に託されたのは、森と大地 自分たちの誇り。
学んで初めて、自ら納得の出来る緑が出来ました。
こうして作った8回目の見本。
祈るような思いで返事を待ちました。そして、2ヶ月後。

「これこそ、私たちの国の色なんだ」
こうして全ての国旗が完成したのは、オリンピック開幕のわずか十日前のことでした。

完璧に準備された国旗は、その後も一つのミスなく掲揚されました。
その国旗は 次のメキシコ大会にも引き継がれ、
その後のオリンピックの模範になったといわれています。

はるか2万キロの国から届いた手紙が、1人の青年を奮起させました。
そんな 化学反応の物語。

日本女子マラソンの真実/ゴーマン美智子 編

2010年4月 3日

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日本人女性がオリンピックのマラソンで
初めて金メダルを手にしたのは、2000年のことでした。
でも、その26年前、ひとりの女性ランナーが
女子マラソン史上、日本人として初めて、
国際大会で優勝を果たしました。


ゴーマン美智子さん。
日本で生まれ、アメリカ人の妻になっていた38歳。
平凡な主婦を、わずか5年で
世界のトップランナーに変貌させたのは、棘のある一言でした。

1969年。
渡米5年目、新婚間もない美智子はまだ平凡な主婦でした。
異国の地で暮らす唯一の心の支えは・・・夫だけ。
早くに父親を亡くし、ようやく掴んだ満たされた日々。

ところがある日、夫が言った一言。

「あ~あ、君ももっと他の奥さんみたいに
活発だったら良かったのに...
僕はメイドを妻にした覚えはないよ。」

ショックでした。何も言い返せなかった。
小柄な上にやせっぽち。アメリカ人のような自己主張も苦手。
わたしには誇れるものが何もない。


夫の言葉が気付かせたのは、
これまでずっと目を背けていたコンプレックス。
化学反応が、起きた。


人に誇れる何かが欲しい。
34歳の主婦が選んだのは...走るコト。


「ランニングが病みつきになり、
終わった後の気持ちは、すがすがしかった。」


美智子が走り始めた当時はまだ
「女性に42.195キロは体力的に危険」と言われ、
女子マラソンなどなかった時代。
けれど、1971年のボストンマラソンで、
ついに女性の公式参加が認められます。


私にも走れるだろうか...。密かな夢が芽生えました。
そして、本格的にトレーニングを始めた美智子に
運命の出会いが待っていました。


その年のボストンマラソンを制した、
ジャクリーン・ハンセン。24歳のトップランナーでした。
実力は雲泥の差。憧れの人でさえありました。
なのに、彼女はこう言い放ったのです。


「あなたがフルマラソン?
辞めときなさい。死んじゃうわよ。」


その時、心の中で何かがはじけました。


「彼女にできて、なぜ私にできない?」


負けるものか。その日から美智子は、
1日30キロもの走り込みを始めます。
雨の日も、風の日も...血豆はつぶれ、爪も剥がれました。
そして、初めてのフルマラソンで
ハンセンに挑むことになったのです。


レース中盤。
美智子を意識し、無理にペースをあげるハンセン
でも、美智子は冷静でした。


「いつ追い越そうか...」
「わたしは息を整えながら考えた...」
「......今だ。」


気がつけば、優勝。
これを機に、美智子は世界のトップランナーとなっていったのです。
彼女は後にこう語っています。


「以前はとてもコンプレックスがありました。
痩せてるし、小さいし、周りはみんな背が高くて、
私はなんて小さいんでしょう。恥ずかしいわ。って。
でもランナーになって変わりました。
私はみんなよりも速く走れるんだって」


その存在は、マラソンを目指す日本の女性たちの
大きな大きな、道しるべとなりました。