ぽっちゃり服革命の真実 / 田中ひとみ

2010年5月29日

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「ぽっちゃりの私はお洒落なんてしちゃいけないんだ...」 
 
そんな女の子たちの意識を変えたデザイナーが田中ひとみさん。
 
大型サイズのファッション革命と、あの3人組の関係...教えてあげる。
 
「自分が本当に創りたい服ってなんだろう...」
大手アパレルメーカーを飛び出し、
独り立ちを目指していた、ある日。
真夜中の2時でした。
 
ルルルルル...

電話の向こうには、森三中の黒沢かずこさんでした。
黒沢さんとは舞台衣装の仕事で知り合っていました。
「田中さん、お願い!私たちの服を探して!」
可愛い服が見あたらない、ぽっちゃりの3人。
男物でごまかしていました。
 
「OK!待っててね!」
と、気楽に引き受けたものの、
大型サイズの婦人服を探して唖然としました。
 
柄も生地の色合いも、なんだかオバサマ風で、
中にはいい加減な縫製のものもありました。
ハッキリ言って、体型を隠すだけの服でした。
そして何よりショックだったのは、
ぽっちゃりさんたちの心の叫び...
「私のこの体、隠さないといけないんだ。
おしゃれなんてしちゃいけないんだ...」
 
心が揺さぶられました。
「ポッチャリがカワイイ。そんな服を創ってみせる!」
 
こうして、ポッチャリさん向けのブランド、
『モンスター・ドロップス』を立ち上げました。
決意の表れが特注した21号のボディ。
これまでどのメーカーも使っていなかったものでした。
 
目指すはポッチャリ体型だからこそ、可愛く見えるような服。
でも、ただ単にサイズアップしただけじゃダメでした。
ソレを教えてくれてのがあの3人、森三中でした。
 
「そうか!同じポッチャリでも、みんな体型が違うんだ!」
大島さんは背が高くてがっちりした大型ポッチャリ。
村上さんは小型ポッチャリ。
黒沢さんはお腹が出ちゃう、腹部膨張型ポッチャリ。
森三中だけで3つもバリエーションがある!
 
体型によって、可愛く見えるデザインも変わります。
「こりゃ、タイプ別にデザインしなきゃダメじゃん」
そんなぽっちゃりさんへの想いに3人が答えてくれました。
            
村)「なかなかないじゃないですか。そんなぽっちゃりさんに対して
   服を1から考えてくれて...」
黒)「あんまりお金にならない世界だったかもしれないのに
   一生懸命やって下さった」
大)「それ見て何かできたらなって思いました」
 
自ら実験台となり試作品を着て、デザインのチェック。
こうして、体型に合うデザインが徐々に見えてきました。
 
例えばカットソー。
大島タイプの大型ポッチャリには、
あえて丈を短くして、プリント柄の面積を
小さくしたほうが可愛いでしょ?
村上タイプは、裾を狭めれば可愛いハズ!
可愛く見えれば、なんでもアリなのだ!
横幅が強調されるから...と敬遠されてきたボーダー柄も、
膨張色と云われ、タブーだったパステルカラーも可愛く見えればOK!
 
2007年
インターネットを通じて販売が始まりました。
これが爆発的な売れ行き...にはならなかったのです。
でも、田中の元に手紙が届きます。
「女の子に生まれて良かったと、初めて思えました」
 続々と届く手紙やメール、他のブランドにはない現象でした。
 
「人の心を変える服、本当に創りたい服はこれだったんだ!」
ぽっちゃりがかわいい、
田中の思いは今、現実のものになろうとしています。
 
3人のぽっちゃりさんとの出会いが、
一人の本物のデザイナーを生み出しました。

運命を決めた15分 / 奥山清行

2010年5月22日


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エンツォ・フェラーリ。
限定400台だけ生産されたこの車は
今、1億5千万円とも言われています。

デザインしたのは日本人、奥山清行さん。
それもたった15分で。
運命の15分...教えてあげる。

奥山は1985年、
アメリカのゼネラルモータースに入社しました。
社員55万人の中で、ただ独りの日本人。
「あいつは日本のスパイだ!」
謂われのない中傷がありました。

丁度、日本車の売り上げがアメリカ車を凌ぎ始めた頃です。
当時全米ではジャパン・バッシングの嵐が吹き荒れていました。
「負けるものか!とにかく実績を作らなきゃ」

少年時代からメカのスケッチが大好きでした。
頭に浮かぶイメージを追いかけて、いつも未来を夢見ていました。
「僕の道具はこの「手」だ。
アメリカ人が10枚描くなら、僕は100枚描く。
膨大なスケッチを描く!」

やがてその才能が評価され、次々と活躍の場を移していきました。
ゼネラルモータースからポルシェへ。
そして、イタリアのデザイン工房ピニンファリーナへ。

そこに、途方もない仕事が舞い込みました。
あのフェラーリが創業55周年モデルのデザインを依頼してきたのです。
震え上がるようなプロジェクト。
夢中でアイデアを練りました。でも、課題は山積みでした。

エンジニアからは、馬力のあるエンジンのために
スペースが必要だと言われ、
インテリアチームからは、広く快適な運転席を求められました。

「一体どうしたらいいんだろう...」

発注から2年、
ついに、フェラーリの会長にデザインを提案する日がやって来ました。
描いては捨て、捨てては描いて辿り着いた渾身のデザインを
夢中でプレゼンしました。

なのに...
「もういい!斬新さがまったくない!
このプロジェクトはキャンセルだ!」
会長は席を蹴り工房を後にしようとしました。
奥山の上司が懸命に追いすがりました。

「待って下さい会長、サンドイッチが用意してあるんです。
軽くランチでも...」
そして奥山に囁いたのです。

「引き留められるのは15分だ。
15分で採用されるデザインを描いてこい!」

わずか15分。
うろたえるより先に手が動き出していました。
これまでにデザインしてきた無数のイメージ。
膨大な記憶が溢れ出しました。
この瞬間のために何十年もかけて準備してきました。

「出来た!」
「なぁんだ、やれば出来るじゃないか」

そのとき15分間で描き上げたスケッチには末来がありました。

機能性を究めた無駄のないフォルム。
それでいて気品を漂わせる全てが新しいスタイル。
創業者エンツォ・フェラーリの名にふさわしい。

「一生のうちで1回来るか来ないか判らない15分のチャンス。
その時のために準備しておくのがプロだと信じます」

1万枚のトライ&エラーが想像を生む。
奇跡は決して偶然のたまものではありませんでした。
これが本物へのひとつの答えでした。

パンダの赤ちゃん誕生の真実 / 増井光子

2010年5月15日

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日本中の誰もが待ち望んでいた、パンダの赤ちゃん誕生。
難しいと言われいた人工繁殖に成功したのは、
女性獣医、増井光子さんでした。

歓びの陰に43時間で燃え尽きた小さな命の真実とは?

1984年、
パンダの繁殖チームは追いつめられていました。
新たなペアが贈られて2年というのに、一向に赤ちゃんの兆しなし。
メスの発情は春から夏にかけての、たった3日間。
なのにホアンホアンには、その気配すらありませんでした。

こう見えてもパンダは獰猛。
傷つけ合わないよう、
「できるだけオスとメスを近づけてはいけない」
中国からそう言われていました。
けれど増井はそのタブーを破りました。
「2頭を一緒に過ごさせてみよう」

国賓並みの存在だったパンダ。
傷ついたらどうする...
そんな反論を抑えて、少しだけ2頭を遊ばせてみました。
増井の狙いは的中!ホアンホアンは見事妊娠しました。

日本初の赤ちゃんパンダ誕生に誰もが躍り上がって喜びました。
でも目は離せません。
赤ちゃんを産んだ直後のパンダは神経質で、
育児放棄をすることもあるといいます。
増井たちは固唾を呑んでモニターテレビを見守り続けました。

その夜...
「鳴き声が聞こえない!何が起きたの!」
生後、たった43時間の命でした。
母親の下敷きになって押しつぶされた赤ちゃん...
「でも、本当にそれだけ?医師として私に出来ることはなに?」

真相はもっと複雑でした。
身体に残る無数の内出血の痕。
何度も床に落ちた結果の衰弱死でした。
冷たくなった赤ちゃんが教えてくれました。
「無駄にはしないよ。この次は絶対に」
増井は考えました。パンダのママの気持ちになって。
冷え冷えとした壁に固い床。この場所で失われてしまった可哀想な命...

待って...
「もしもここが、野生のパンダが暮らす森のようだったら。
そうだ!少しでも自然に近い環境を用意すれば。
コンクリートの壁を板張りに、床には大量の笹を敷き、
ほら穴のように薄暗くしておこう」
確証なんてありませんでした。でも、賭けてみたのです。
母親パンダの母性が目覚めることを。

翌年、ホアンホアンは再び妊娠しました。
増井はその変化に気づきました。
笹を使って懸命にベッドを準備していました。

そして...
赤ちゃんが誕生しました。
祈るような思いで見守りました。

信じること...
それが、増井が選んだ道だったのでした。
はっきり見えないモニターで見守り続けるしかないまま。

最も大切な3ヶ月が過ぎました。
「そろそろ、灯りをつけてもいいだろうか」
照明のスイッチが入りました。
「元気だ!」
ホアンホアンは立派なママになっていました。
消えてしまった命の灯火は無駄にはなりませんでした。

トントンと名付けられた赤ちゃんは、すくすくと成長しました。
上野動物園の人気者になりました。

母性を信じ、パンダに全てを託した獣医さんの選択、
正しかったのでした。

どん底ジョッキー奇跡の復活秘話 / 上村洋行

2010年5月 8日

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キャリア17年目にして
悲願のG1レース初優勝!
上村洋行騎手にとって、
それは奇跡の復活を遂げた瞬間でした。
 
どん底から這い上がったジョッキーの真実とは?
 
19歳で騎手デビュー...
新人王に輝いた青年の前途は有望でした。
若くして注目を浴びた上村は
次第にその才能に溺れ、気がつけば
「生意気!」と噂されるジョッキーになっていました。
 
そこに思わぬ悲劇が待っていました。
絶望的な宣告。右目の裏側に炎症が起こり、
視力が奪われていく難病。
"黄斑上ぶどう膜炎"
引退の危機でした。
 
4回の手術を重ね、奇跡的に回復した時31歳。
しかし、本当の苦難はここからでした。
 
競馬の騎手は馬を管理する調教師から指名されなければ、
レースはおろか、練習すらできません。
「誰かボクに声をかけてくれないか...」
けれど、闘病のブランクが望みを阻みました。
 
「とにかく馬に乗らせて欲しい」
上村は厩舎に頭を下げて回り始めました。
それは、かつての売れっ子ジョッキーとしては屈辱的なことでした。
調教師にとっても馬を託すことは大きな賭けなのです。
 
そんな上村を静かに見守っていた1人の男がいました。
橋口弘次郎さん。
数々の駿馬を育て上げた名調教師が声をかけてくれました。
「頼んだぞ!」
思いがけない指名でした。
 
しかも走るのは、
夢にまで見たG1レース
「なんとしても期待にこたえなければ」  
 
しかし...結果は9位。
肩を落とす上村に、それでも橋口さんは言いました。
「お前はスタートが上手い!もっと乗れるはずだ」
 
「自分を認めてくれている」
駆り立てられるようにその直後、橋口さんを訪ねました。
 
頼み込んだのは厩舎を手伝うこと。
その日から、馬と向き合う日々が始まりました。
 
眠れぬ夜に差した一筋の光...
言葉には尽くせない感謝の思い。
「これまでは自分のためだけに馬に乗ってきた。
でも、いまは違う。橋口先生のために勝ちたい!」
 
2008年10月5日
"スプリンターズステークス"
厩舎に通い始めて3年目のG1レース。
橋口さんに託さたスリープレスナイトに騎乗してゲートイン。
 
「先頭はスリープレスナイト、ゴールイン。
スリープレスナイト。手が挙がりました。
上村洋行祈願のG1制覇!」
 
泣いていました。
こらえきれずに泣いていました。
真っ先に駆け寄ったのは橋口さんのもとでした。
 
「橋口先生のために勝ちたかったレースだったので、
あの先生がいなかったら、今でもこうやってジョッキーを
続けていくこともできなかったと思いますし、
あの先生だからこそ、今でもこうやって競馬に乗り続けることが
できると思いますし」
どん底をさまよっていた男の
奇跡の復活を支えたのはたった一つの信頼。
そんな化学反応の物語。
 

町工場 ロケット開発の真実 / 植松努 編

2010年5月 1日

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去年日本の宇宙開発機構が
新型ロケットの打ち上げ実験に成功。
費用はなんと従来の10分の1。
そのロケットが北海道の町工場で
作られたと言ったら信じてくれますか。
 
作ったのは植松努さん。
子供の頃から『宇宙戦艦ヤマト』に夢中でした。
とりわけ憧れはヤマトをイスカンダルに向かわせる、沖田艦長。
「ボクもいつか飛行機やロケットの仕事をしたい!」
 
でも、中学の先生に言われました。
「そういうことは東大に合格しなきゃ無理だ!」
 
生まれ育ったのは寂れた炭坑町。
夢は、家業の電機屋を手伝っているうちに
しぼんでゆきます。
 
そんなある日、運命の出会いが訪れました。
北海道大学でロケットの研究開発に取り組む、
永田晴紀教授。永田教授の課題は、
資金と実験場所の確保でした。
 
思わず叫んでいました。
「ウチでやればいい!
ロケットも、ボクの工場で作らせて欲しい!」
 
土地ならある、問題はお金。 
画書を抱えて銀行を回りました。
でも、前例のない試みには融資がおりません。
 
最後の手段...なんと生命保険を担保に、
ようやく資金を貸してもらえることになります。
「ボクは命を賭けるんだ!」
 
新しい工場を建て、教授や北大の学生たちと
ともに試行錯誤を繰り返します。
そこには、町工場ならではの工夫が活かされました。
一機、数百万円で作っていたのを
ホームセンターの部品などで代用すれば
20万円ほどで済みます。
 
でも、エンジンの燃焼実験は何度も失敗を繰り返します。
住民たちは呆れました。
「町工場でロケットなんて出来るわけがない」
 
やっぱりボクには無理だったのか...
心が折れそうになった、そのとき
あの人の声が聞こえてきました。
 
「明日のために今日の屈辱に耐えるんだ」
それは、子どもの頃から憧れてやまなかった
『宇宙戦艦ヤマト』の沖田艦長の言葉でした
  
明日の為に今日の屈辱に耐える!      
無理じゃない、必ず出来る!
このロケットを飛ばすんだ!
エンジンは、失敗から学ぶことで改良が
重ねられました。
 
エンジンの開発に目途がたった、2005年3月。
ようやく、打ち上げ実験にこぎつけます。
みんなドキドキでした。
             
カムイと名付けられたロケットは、
目標高度350メートルをみごとクリアしたのです!
 
カムイは、その後も実験が重ねられ、
順調に高度を伸ばしてゆきました。
そして去年3月、国の打ち上げ実験に採用。
コストと安全性が評価された民間初の快挙でした。
 
宇宙に一番近い町工場は、夢を諦めちゃだめだよ...
と皆に語りかけています。
でもまだまだ夢の途中。
「けっして諦めない」そんな化学反応の物語。