女性レーサー誕生の真実 / 井原慶子

2010年7月31日

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サーキットの華、レースクイーン。
でもその人は、自ら走る道を選びました。
 
井原慶子さん。
アジア最速の女性レーシング・ドライバー。
夢を諦めるなんて、できなかった!
華麗な転身の影に秘められた、父と娘の物語...教えてあげる。
 
父は平凡なサラリーマンでした。
大切な娘に託した思いといえば、健やかに育つこと。
そして素敵な人に巡り会って結婚すること。
 
大学時代、
レースクイーンのアルバイトをしたいと言ったとき、
派手なコトを嫌う父は、いい顔しませんでした。
懸命に説得しましたが、一言
「勝手にしなさい!」
 
はっきり言って、モータースポーツなんかに興味はありませんでした。
でも、初めてサーキットに立ったとき...
すさまじい爆音と見たこともないスピード。
今までの生活では全く考えられない命がけの勝負がここにある。
 
「私、レーサーになりたい!」
無我夢中で、メカを勉強しました。ライセンスも取りました。
時速250キロの負荷に耐えられるよう、トレーニングも重ねました。
さらに、レースに出るには1千万円近い資金が必要です。
スポンサー探しに駆け回りました。
でも、素人娘の無謀な夢、なかなか相手にされません。
気がつけば、4年の月日が流れていました。
もちろん、家族には内緒...
こんなこと、とても言い出せるような家ではなかったんです。
 
父はレースクイーンでさえ嫌がったような人。
危険と背中合わせのレーサーだなんて、
絶対に反対されるに決まってます。
私が夢を追いかけるには、父を裏切り続けるしかないんだろうか。
 
打ち明けられないままレースデビューの日がやってきました。
1999年5月、
いつものようにアルバイトに出かけるふりをして、家を出ました。
きっと、ものすごく緊張していたんです。
「どうしよう...ヘルメット、家において来ちゃった」
これまで必死に頑張ってきたのに...自分のドジを恨みました。
もしも家族に頼んだら、全てバレてしまいます。
でも...電話するしかありませんでした。
 
受話器を取ったのは父でした。
「父さん聞いて!ヘルメット、サーキットに届けて欲しいの」
「お前、何やってるんだ!」
「レースに出ることになって...お願い!私、これに賭けてるの!」
父は姿を見せず、ヘルメットだけが届きました。
 
「走らなきゃ今はとにかく、走らなきゃ!」
そこから先は殆ど覚えていません。
終わったら、3位に入っていました。
デビュー戦でいきなり表彰台に立てたんです。
だけど...父さんになんて言おう...
 
顔を合わせたのは翌朝でした。
気まずい沈黙を破って父が口にしたのは、たった一言...
「気をつけろよ」
とびきりぶっきらぼうだけど、とびきりあったかい一言でした。
認めてくれたんだ。
本当のスタートはこの瞬間でした。
もう嘘は必要ない!胸を張って走ろう!
どんな時も慎重に、でも全力で...
 
その後、井原さんは、驚異的なステップアップを見せます。
大舞台イギリスF3に、フル参戦。
日本人女性初の快挙でした。
 
父を初めてサーキットに招待したのは
2年後フランスでのレースでした。
窮屈なコックピットで、にこやかに微笑んでくれました。
そんな応援に支えられ、彼女はまた一歩
本物のレーサーへと進むのです。

奇跡のパン物語 / 多以良泉己

2010年7月24日

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前途有望な競輪選手が突然の事故で全身麻痺。
絶望の淵から救ったのは一斤のパンでした。
奇跡のパンの物語...教えてあげる。

多以良泉己(たいら みずき)さん。
トップクラス入りを目前にしたレースで悲劇は起こりました。

接触事故に巻き込まれ、
コンクリートのバンクに頭から叩きつけられたのです。
意識不明の重体...
病院に駆けつけた妻、総子(ふさこ)さんはこう告げられました。
「一生寝たきりになるかもしれない...」
意識は戻ったものの、首から下が全く動かなかったのです。
「絶対、復活する!」
ありとあらゆるリハビリに取り組みました。
筋肉の麻痺に良いとアロマを試したり、
指先に良いと聞くと、パン教室にまで通いました。
けれど回復したのは上半身だけ。
友人からのパンの評判だけが、せめてもの慰めでした。
どれほど手を尽くしても左足の麻痺は治らなかったのです。

2008年、
涙をのんで引退を決めました。
「もう生きている意味がない...」
絶望のどん底で運命を呪いました。
抜け殻のようになった自分を、どうすることも出来ず、
ただ、悲嘆に暮れる日々...

そんなとき...
隣の部屋から話し声が聞こえてきたのです。
妻の友人が口にした一言でした。
「旦那さんが焼いたパン、すごく美味しかったよ」
「え?パン? リハビリで作ったにすぎないパンが?そんな些細なことが...
でもそんな些細なことで僕はもう一度生きられるかもしれない。
もしも僕のパンを美味しいと思ってくれる人がいるのなら。
本気でパンを作ってみよう!」

小さな工房は鎌倉にあります。
プロのパン屋ではない自分に何ができるのだろう。
その答えは、手作業で向き合うこと!
だから一度に焼けるのは一斤だけ。
多以良さんはパンを食べてくれる相手のことを考え、
食べる時間まで合わせて、パンを焼きました。
毎日の気温や湿度に合わせて、こね方も微妙に変わります。
「弾力のある生地に仕上がったか」
この見極めの瞬間が一番緊張します。

1日に五斤焼き上げるのが精一杯。
それでも多以良さんの元には、日本中から注文が舞い込んできます。
評判が評判を呼んで、いまや4年先まで予約で埋まっていると聞きました。

思えばリハビリで始めたにすぎないパンが...
無くしかけていた自分を取り戻した多以良さんは、
今、再び自転車をこぎ始め、
今年5月のレースでは見事優勝!
パラリンピックへの夢も膨らんでいます。

「美味しかった」
そのささやかな一言を力に変えた人。
明日もまた、たった1人のためにパンを焼きます。

還暦プロゴルファー誕生の真実 / 古市忠夫

2010年7月17日

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今、日本で活躍する男子のプロゴルファーはおよそ1000人...
 
今年70歳、古市忠夫(ふるいち ただお)さんもそのひとりです。 
 
プロテストに合格したのはなんと59歳のときでした。
それまでは、神戸でカメラ店を経営する、ごくフツーのおっちゃん...
 
運命を変えたのは、あの大震災だったんです。
還暦プロゴルファー誕生の真実...教えてあげる
 
生まれも育ちも神戸市の長田区。
妻と二人で切り盛りするカメラ店を、30年やってきました。
唯一の趣味といえば、たまの休みにこっそり出かけるゴルフでした。
腕には少々自信がありました。
 
でも...、阪神淡路大震災で、何もかも変わってしまいました。
長田区は最大の被災地に。
自宅は全焼...家族こそ無事でしたが、多くの友人を失いました。
 
ガレキの街で復旧作業に追われる中、無事だったクルマ。
そのトランクを開けてみると...そこには 愛用のゴルフセット。
家や財産、親友までも失ったのに、
そのとき、なんだか声が聞こえたような気がしました。
 
「お前、ゴルフをやるんだよ...」
 
復興にむけて新しい暮らしが始まります。
家族は呆れました。「今さらプロゴルファーなんてどういうこと...?」
建て直した家のローンは2500万円...
50代半ばという年齢を考えれば当然です。
「地道に返すしかないやんか!まったく、呆れるわ!」
それでも自分にはもうゴルフしかありませんでした。
仕事は再開したものの、妻まかせ。
お客さんの家を自転車でまわり、注文を取ってきてくれました。
 
プロテストは2000人が受けて50人合格するかどうかという難関。
挑んでくるのは、ほとんどが10代から30代の若者。
練習をしたくてもコースに出る余裕などありません。
近くの埠頭で素振りをし、パットの練習は家の廊下でした。
自治会長として街の復興に駆け回りながら、わずかな合間をぬって練習。
まるで何かに取りつかれたようでした。
 
そんなある日...
「古市はん、頑張ってな!絶対、プロになってや!」
自分の夢が、いつしかみんなの夢になっていたのかも...
ただ、100万円を超す受験費用のメドがまだついていませんでした。
しかし、妻が生命保険を切り崩して用意してくれたのです。
言葉が出ませんでした...
 
そして迎えたプロテストの日、
受験者はみな20代や30代の若者ばかりでした。
飛距離ではとてもかないません。
その代わり、ミスを減らすことを目指しました。
多くのものを失った、あの震災から5年...
「もうこれ以上、何一つ失いたくはない!」
 
合格ラインぎりぎりで迎えた最終ホール。
すべては、このパットにかかっていました。
これを外したら不合格。プロへの道は閉ざされてしまいます。
 
カラーン! カップイン!
その瞬間、蘇ってきたあの日以来の様々な記憶...
ボールには目もくれず、戦ってきたコースを振り返って深々と一礼する姿。
それはまるでこれまでの日々に感謝するかのようでした。
思えば、運命を導いたのは、あのトランクの中のゴルフセット。
もしも、あの再会がなかったら...
 
こうして、還暦60歳にしてプロゴルファーになった古市さん。
年齢のカベを乗り越え、新しい人生を切り拓いた...
ホンモノのプロがここに誕生したのです。

青い目のアニソンシンガー誕生の真実 / カトリーヌ・セント・オンジュ

2010年7月10日

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日本文化の代名詞ともなった、ジャパニーズ・アニメ。
人気は世界に広がっています。
 
カナダにもその熱烈なファンがいました。
カトリーヌ・セント・オンジュさん。
引っ込み思案なオタク少女が、日本でアニソン・シンガーに。
鮮やかな変身の物語...教えてあげる。
 
カナダ、ケベック州。
子供の頃から歌が大好きでした。
でも、歌うときはいつもひとりでした。
お喋りも苦手で、自分の世界に篭っていた。
 
忘れもしない、15歳のあの日、
「月に代わってお仕置きよ!」美少女戦士セーラームーン。
カナダでも日本のアニメは放送されていました。
普段はドジな女の子が、変身して、悪を懲らしめる。
「私も、あんな風になりたい!」
本気でそう思ったんです。
 
地元の小さなアニメ・ショップに通って
「るろうに剣心」、「らんま1/2」...と
日本のアニメに、のめり込みました。
主題歌を聞き取って、日本語も勉強して、
一人部屋で毎日歌っていました。
 
でも両親は判ってくれませんでした。
「こんなモノいつまでも見てないで早く大人になりなさい!」
だけど...夢中になれるモノなんて他にない。
友達も誰もいないし、ひとりで部屋にこもるこもるしかなかった...
 
ちょうどその頃、アメリカで、
アニメ・フェスティバルが開かれたんです。
集まってきたのは、日本のアニメを愛する仲間たち。
アニメソングのカラオケ大会も行われていました。
 
「この人たちの前なら、歌えるかも」
誰かに歌を聴かせるなんて、初めてでした。
「アニソンなら自分を認めてもらえるんだ...」
そして決意します。
「アニソン歌手になろう!そのためには日本に行くんだ!」
なんの当てもないし知り合いも居ないけれど、
東京へ向かいました。このとき、26歳でした。
 
日本語なんて、歌で覚えた言葉くらいしか知らないし、
手持ちのお金は50万円。
人と話すのがいやだったから、食品工場で働いて貯めてきたお金。
東京では節約のため、苦手な共同生活でした。
でも、物価はビックリするほど高かった。
 
蓄えは見る間に減ってゆきます。
孤独な日々に、何度も心が折れそうになりました。
夢だけが支えでした。
そして50万円も底を付こうとしたころ、目にしたのは、
アニソンコンテストの参加募集でした。
「優勝すればプロになれる...」
このチャンスに賭けよう!
 
コンテスト決勝大会、
そこに、彼女の姿がありました。たった一人の外国人。
好奇の目にさらされます。
そして決勝のステージへ...心臓が張り裂けそうでした。
 
♪「まっすぐな~♪」
 
目の前に私を応援してくれる人がこんなにも...
思わず声が出ました。
「楽しんでいますかぁ!」
人と話すことさえ苦手だった少女が変身した瞬間でした。
 
「カトリーヌ!」
優勝でした。
カトリーヌは『ヒメカ』という名前で、
アニソン歌手としてデビューを飾ります。
 
どんなに遠く離れた夢でも、信じ続ければ、
手にすることができるんです......。

NO.1社内販売員誕生の真実 / 茂木久美子

2010年7月 3日

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「コーヒーにぃ...お弁当はいかがですか?」

新幹線の車内販売員、3千人の中で
27歳にしてトップの売り上げを記録した、
茂木久美子(もき くみこ)さん。
その金額を聞いたら、腰をぬかしちゃうかもしれません。

そんな彼女、元はと言えば、恥ずかしながらプー太郎。
ダメダメのコギャルが仕事に目覚めたお話し...教えてあげる。

生まれも育ちも山形でーす。
ハッキリ言って、学校の成績は酷かった。
日サロに通ってガングロ茶髪でぇ、
ルーズソックスでぇ...みたいな。
高校出て3ヶ月くらいは、遊びまくってた。
別にやりたいコトなかったし、
アタシなんか、大した仕事出来ないしぃ...

でも、みんな就職しちゃうし、髪とか黒に戻して
山形新幹線の売り子になったんだ。
そしたら、聞いちゃった。
「バイト気分で来てるんだろう?どうせ、1週間も保たないよ」
何それ、チョ〜むかつく。
 
まずは何より、標準語の勉強。
「コーヒーにミルクとお砂糖」...ん?(なまったイントネーションで)
 
ぶっちゃけ仕事はきつかった。
ワゴンの荷物は100キロ以上。数十回の積み替えも全て独りで。
揺れる車内を3往復って、マジ無理だから...
同期採用の15人は、一ヶ月でみんな辞めちゃったけど、
意地があるから頑張りました。
 
とりあえず目指したのは売り上げUP。
普通は3往復のところ、7往復もしてみたり。
おつりに手間取らないよう、工夫したり。かなり必死だった...
「お砂糖とミルクはおつけしますか?」
でも、かなり無理してる。そう感じてた。
 
ある日突然、身体が動かなくなった。
人前なのに、ワケもなく涙もボロボロこぼれてきて...。
体と心のバランスが崩れてた。
会社からは、一週間休めって言われました。
 
休み明け...
なんだかもの凄く緊張してた。で...やっちゃった。
「お砂糖とミルク、どうすっぺ?」
お客唖然『あん?』
「も、申し訳ありません」
『なぁに、謝ることなかっよ〜。俺も山形だあ。
やっぱいいずにゃあ、山形弁はにゃあ』
「ほんてん!?」(本当に!?)
 
それまでの緊張が一気に解けちゃいました。
山形弁を使うと、お客さんも喜んでくれるし、
一人のお客さんと話すと、それを聞いて
他のお客さんも声をかけてくれて。
方言を恥ずかしがることなんて、なかった。
ありのままで良かったんだ!
 
お客さんに楽しんでもらいたい!どんな質問にも答えたい!
そう思って、トイレの場所や、時刻表、外の景色も覚えました。
『ねぇ、大宮まであとどれくらい?』
「もうすぐ右手に山が見えっぺ。したら1、2分だ」
もっと楽しんで貰いたいから、山形弁のクイズも出しちゃいます。
出題したら、次の車両へ。戻ってくると、答えを知りたくて
わくわくしながら待ってってくれるんです。
お馴染みのお客さんも、どんどん増えていきました。
 
「充実感つったら簡単になっちゃうんだけど、なんつんだべ、
この仕事超ヤベ~」
 
アレは、3年前のゴールデンウィーク。
東京山形間を一往復半したときのことでした。
一日平均7万円の売り上げが...なんと53万円!!
私、スゴイかも!前代未聞の大記録でした。
26歳にして最年少で全販売員でたった3人しかいない
チーフインストラクターに!
 
自分に素直になれたから、仕事が楽しくて、
お客様も楽しんでくれて、やっとワタシも本物になれた...