W杯サッカー審判の真実 / 高田静夫

2010年9月25日

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ワールドカップ・南アフリカ大会。
日本代表は善戦しましたよね。
 
でも実は、いまから24年前、
日本にはJリーグもなかった時代。
ワールドカップメキシコ大会のピッチに立った日本人がいたんです。
東京大泉学園でスポーツ店を営む、高田静夫さん。
日本人初の快挙に秘められた真実...教えてあげる.
 
大学時代は名門チームのミッドフィルダーでした。
当時、サッカーを職業にするなんて夢のまた夢。
卒業して、家業のスポーツ用品店を継ぎました。
 
そんなある日、
地元のサッカー指導者から審判を頼まれたんです。
「君しかいないんだよ」
コーチなら判るけど、なんでこのオレが審判なんだ...
断り切れずに引き受けたのは小学生の試合でした。
名門チームのプレイヤーだった自分。
割り切れない思いで笛を吹きました。
 
ところが、依頼は次々舞い込み、
実業団の試合まで任されることになります。
なのに...
「お前、どこ見てんだ!」...とか
「サッカーやったことあんのか!」...とか
興奮した選手たちに、詰め寄られたり...
レッドカードに、唾を吐きかけられたこともありました。
頼まれてやってるのに、どうしてこんな目に遭うんだろう。
おまけに、日本一を決める選手権でも、
謝礼は一万円程度...交通費さえ自腹でした。
 
スポーツ店をしながら無理にやっているのに、もう辞めよう...
そう考え始めたときのことです 。
日本サッカー協会から声がかかり、
国際試合への参加を要請されたんです。
「世界に通用する審判になってくれ!君しかいないんだよ」
結局、俺しかいないのか...
 
1985年、
国際審判員として、デビュー。
主審を務めたグループリーグの最終戦は、
オーストラリア対ナイジェリアでした。
無我夢中の90分が終わった、そのあと...
負けたチームの選手が近づいてきました。
また文句か...と思ったら
「ありがとう。君のジャッジで、いい試合になったよ」
これが世界なんだ!これが世界の一流なんだ...
彼らは超一流のプレーだけでなく、
審判がいかに重要かを知り、敬意を払ってくれる。
続けてきてよかった。こうなったら審判で世界の頂点を極めてみせる!
 
その日から、考え方は大きく変わりました。
選手とのコミュニケーションを円滑にするため、
苦手だった英語を猛勉強!
的確なジャッジを下すには、プレーの展開を読む必要があります。
選手の邪魔をせず、確実にプレーが見える場所を
イメージしてカラダに叩き込みました。
 
1986年1月、
信じられないコトが起きました。
なんと、ワールドカップ・メキシコ大会の審判に選ばれたんです。
高田さんは、スペイン対アルジェリア戦の主審を務めました。
『頭が真っ白になった』それが彼の感想でした。
そして何より、いつの日か日本代表も、
この檜舞台に立って欲しいと強く願ったと言います。
 
やがて日本にJリーグ誕生!
豊富な経験を活かして、草創期に大きな貢献を果たしました。
 
そして今年、
日本中を駆け抜けた、あの興奮!
高田さんは、感無量だったそうです。
いまは、店を切り盛りする傍ら、後進の育成に励む日々。
選手だけがサッカーをしているワケじゃない。
審判も一緒に試合を作り上げている
それが高田さんの信念です。

日本一のコンビニオーナー誕生物語 / 服部玲央

2010年9月18日

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そこは、一見すると
どこにでもあるごくごくフツ〜のコンビニ。
でも実は、全国に8千店舗近くあるチェーンの中で
去年、サービス日本一に輝きました。
業界にも「接客サービスの達人を育てる店」として注目されています。
 
そのオーナー、服部玲央(レオ)さんの過去は異色です。
学校にも殆ど通わなかったから、
かつては漢字も読めず、常識すら知らない人でした。
日本一に上り詰めた、奇跡の成功物語...教えてあげる。
 
学校が嫌いでした。
不登校を重ねるウチに両親に見放され、更正施設に送られました。
けれど、施設からも逃げだして、友達の家を転々とする日々。
「どうせボクなんか必要のない人間だ」
中学を卒業し、食べていかなければならなくなった服部さんは、
コンビニで働き出します。
仕事をするって、楽しかった。
でも見た目が不良だから、みんなからは変な目で見られました...
 
しかも、小学生レベルの知識もないコトで、
馬鹿にされ、口も聞いて貰えません。
腹が立つより先に、自分が情けなかった。
日報を書くのも全部ひらがな。
漢字が一文字も書けませんでした。
不足した飲み物を何ケース発注すればいいのか
指を使わないと計算できませんでした。
荷物を埼玉に届けたいと言われたとき...
埼玉がどこにあるのか、県なのか街なのかさえもわかりません。
 
...悔しかった。
仕事の合間を見ては、がむしゃらに勉強しました。
商品の名前で漢字を覚えました。
計算は電卓を使って覚えました。
県や町の名前は道路地図で...
一番困ったのは領収書の宛名書きです。
どうしても書けない漢字は、恥を忍んで年下の仲間に教わりました。
 
「ボクは馬鹿だ。けど...今から頑張れば遅くない!」
コンビニが服部さんにとって学校だったんです。
 
転機は二十歳のときにやってきました。
一生懸命に働く姿勢と、
売り上げの伸びが評価され、店長に抜擢されたんです。
耳を疑いました。でも決意しました。
「気合いと根性で乗り切ってやる!」
必死でした。
従業員に落ち度があれば怒鳴り飛ばし、
態度が悪ければ容赦なく責め立てました。
 
気がつけばひとりぼっち...
一人で背負い込むしかありませんでした。
ところが...過労でした。
「店長を任され、やっと人に必要とされる人間になれたと
思っていたのに...」
そのとき、気がつきました。
「誰かに必要とされたいと願って頑張ってきた自分が、
一番、他人を必要としていないじゃないか...」
 
間違っていたんです。
大切なのは、「あなたが必要だ!」その一言でした。
それからは、積極的に良いところを探して声をかけました。
みんなに敬意をもって、あなたが必要なんだと伝えました。
 
すると驚くほど、従業員の態度は変わり、
店の雰囲気も良くなりました。
「人を必要とする人間が人に必要とされるんだ」
 
その後、行き場のない問題児や不良たちも
ためらうことなく雇い入れました。
恩返しをするような思いでした。
 
服部さんの店では、従業員の明るい声が飛び交っています。
そこは「接客サービスの達人が育つ店」。
お客への声かけが産む親近感が、
サービス日本一の要でした。
5店舗のオーナーとなった服部さんにとって、
コンビニは、今も変わらず「学校」です。

写真修復誕生物語 / 村林孝夫

2010年9月11日

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遠い日の記憶を刻む写真たち。
色あせて、輪郭もぼやけてしまったものが、
魔法のように甦るとしたら...
 
古い写真を修復するこの方法を
10年の歳月をかけてあみだした、村林孝夫さん。
父親と交わした約束が生んだ、
奇跡のワザの物語...教えてあげる。
  
あれは小学校1年生の時でした。
初めて覗いた父親の暗室で、思わず息を呑みました。
真っ白い紙の上に父親が撮ってくれた自分の姿が、
ゆらゆら浮き上がってきたんです。
「うわスゴイ!父さん、魔法使いみたいだ」
広告からアート作品まで幅広くこなす写真家だったオヤジ。
その背中を夢中で追いかけました。
  
そんな父親が病に倒れたのは、1990年、
病床で託されたのは一枚のポートレイトでした。
「オレの最高傑作も、すっかり汚れちまった。
もう元には戻らないかなぁ...」
そんな遺言のような言葉を遺し、オヤジは息をひきとりました。 
父が半世紀あまり前に、写真展で入選を果たした作品でした。
モノクロームの幻想的な世界は画像も滲み、
まるでおばけのようでした。
一度劣化した写真は修復不可能...それが業界の常識でした。
写真一筋に生きたオヤジの、最後の夢...
オレも、魔法使いにならなければ。 
  
学生時代の教科書やノートを引っ張り出して
もう一度勉強し直しました。
写真は、銀の化学変化を利用したモノです。
銀に結びついた空気中の不純物を洗い流し、
新たな現像によって、もう一度化学変化を促せばいい。
理屈は判るのですが、印画紙の種類や保存状態によって、
劣化のプロセスは様々でした。
汚れを取る薬品の調合には、
わずか0・1グラム単位の試行錯誤が必要です。
しかも、失敗したら写真はこの世から
消えてなくなってしまうのです。
   
実験材料となったのは、我が家のアルバムでした。
父親が撮りためてきた写真を犠牲にするしか、
...手だてはなかったのです。
かけがえのない思い出が
失敗とともに次々と紙くずになっていきました。
「オヤジ...ごめんな...」
心の中で繰り返しながら、実験を重ねました。
   
何度もあきらめかけた中で、気付いたのです。
「この無謀な試みは、ただ写真の汚れを取るのではなく、
父の誇り、そして、写真にこめられた『想い』を、
未来へと伝える挑戦なのだ...
きっと出来る!やってみせる!」
   
父親が亡くなって十年...
ありとあらゆる劣化も直せる、 
百通りもの修復方法をわがモノにしたのです。
そしてついに、あの写真を手がける日がやってきました。
「オヤジ、いくよ...」 
世界にただ一枚きりの写真...オヤジの「誇り」...
    
70年ぶりに甦った写真。
肌のやわらかさ、きめ細やかな質感が蘇ったのです。
その後、より失敗のないものへと改良を重ねました。
この村林さんの技術は雑誌に載り、
そのウワサを聞きつけた多くの人が、
それぞれの思いを宿した写真を持ちこんでくるようになりました。
その一枚一枚を、丁寧に甦らせています。
『遠い昔を思い起こし、遅まきながらの供養が出来ました』
『母は涙をポロポロこぼし、いつにない笑顔で大喜びしてくれました』
工房には、感謝の手紙が絶えません。  
あの歴史的人物、福澤諭吉の写真修復も依頼されているという村林さん。
   
写真の修復は思い出の修復...
魔法使いは今日も暗室に立つのです。

「天使の歌声」復活物語 / 辻宏

2010年9月 4日

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スペインの古都、サラマンカ...
町の大聖堂に、世界最古と云われるパイプオルガンがあります。
かつて、天使の歌声と呼ばれながら、
200年余りの間、壊れたまま沈黙してきました。

不可能といわれた修復を果たし、
その音色を甦らせた日本人の物語...教えてあげる。

1974年、
日本でオルガンの製造を手がけていた、
辻宏(つじ ひろし)さんを、
運命の出会いが待っていました。

そのパイプオルガンは、
16世紀、ルネサンス時代に頂点を極めた技術の賜物でした。
...なのに、音が出ない。
「このオルガンを直したい...」
懸命に交渉してみました。
でも、応対に出たビクトリアーノ神父は、
オルガンに近寄ることさえ許してくれなかったのです。
 
無理もありません。
ヨーロッパの宝を、見知らぬ日本人に託すなんて...
諦めきれずに、翌年も、また翌年も足を運びました。
けれど神父の冷たい態度は変わりません。
 
岐阜県白川町にオルガン工房を作ったのは丁度その頃でした。
技術を磨き、イタリアで四台の修復作業も手がけました。
そんな実績を伝えても、神父は眉一つ動かさなかったのです。
 
それでも、毎年通い続けました。
「いつかきっと、判って貰える」
そしてある年、オルガンを見ることを許されました。
しかしたった30分だけ。それだけでした。
それでも、ただただ通うしかなく、
いつしか10年を越える月日が流れていました。
 
そして、14年目の秋...
神父が突然いつもと違う態度に出ました。
「こ、これは...」
渡された名刺には神父直筆の言葉。
「ワタシはこの人に、オルガンを扱う全ての許可を与える」
なんと神父は、自ら役所に掛け合い、
修復許可を得るために奔走してくれたのです。
無愛想で冷たく見えた、あの神父が...
ひょっとすると、試されていたのかも知れません。
幻の音色に寄せる、情熱の深さを。
「神父の厳しさに、応えなければ...」
 
1989年8月、
ついに始まった修復作業。
その記録映像が残っています。
 
出来る限り、当時の材料を活かすこと。
その信念を貫きました。
ゆがんでしまったパイプは、
一本一本、丁寧にカタチを整えました。
木材から釘一本に至るまで、そのままに...
全ては、ルネサンスの音を忠実に再現するためです。
「本当にこの音でいいのか...」
ひたすら自問自答を繰り返しながら、手探りの日々でした。
 
その努力にスペインの人々も注目します。
誰も聞いたことのない幻の音色が甦る。
8ヶ月を経て、修復を終えたパイプオルガンの演奏が、
スペイン国営放送の手で生中継されました。
 
甦る、天使の歌声...
聖歌隊を指揮したのは、あのビクトリアーノ神父です。
込み上げる感動を、懸命に抑えているように見えました。
けれど、辻さんはただ一人自問自答していたのです。
「本当にこの音でいいのか...」
これがルネサンスの職人が作りだした音なのか、
辻さんは、亡くなるまでの15年間、
大聖堂に通い続け、微調整を続けたといいます。
 
「決してピリオドを打たない」
本物の職人がここにいました。