
家族を残して死ななくてはならないとしたら、あなたはどうしますか…?
突然告げられた命の期限。この問題に直面し、生きる為に最善の道を探して、最後まで戦い続けた一人の男がいる。
心優しきプロレスラー、ジャンボ鶴田。 今年5月13日、突然、フィリピンで臓器移植手術中、49歳の若さでこの世を去ったジャンボ鶴田。
その突然の死故にマスコミがこぞって、様々な推測記事を発表した。 ジャンボ鶴田の謎めいた死…。
今、沈黙を守っていた妻、保子さんが、全てを語り始めた…。
プロレスのヒーロー・ジャイアント馬場に入門し、「史上最強のレスラー」と呼ばれながら、B型肝炎によって、トップレスラーの道を断たれたジャンボ鶴田。
「第2の人生」を模索しながら、未来を信じ、家族と歩んだ苦悩と決意の日々とは…?
そして、ついに明かされる、ジャンボ鶴田、最後の1年…。
人生というリングで、ジャンボ鶴田が最後に挑んだ勝負、そしてその結末とはどのようなものだったのだろうか?
1951年、山梨県牧丘町に生まれたジャンボ鶴田。
実家が養蚕業者だった為、子供の頃から肉体労働に明け暮れ、鶴田が「生活筋肉」とよぶ頑丈な肉体が形作られることになる。
中学2年生で身長は180センチを超え、相撲部屋に誘われるほどであった。高校では上背を生かして、バスケットボールで頭角を現し、3年連続インターハイ出場。大学で、プロがないという理由でバスケットボールに見切りを付け、自衛隊で独自にアマレスの修行をし、1972年には、ミュンヘンオリンピックに出場。
「強さは自らの存在価値を証明する最大の武器に成り得る。」
そんな自信が鶴田の中で芽生え始めたそんな時…、将来に悩む鶴田に、転機が訪れる。
全日本プロレスを立ち上げたばかりのジャイアント馬場が、スカウトに来たのである。
「全日本プロレスに就職します。」という名言と共に、全日本のメンバーになった鶴田。
その優しいリングスタイルは時に「善戦マン」などと非難をあびたが、恵まれた体と抜群のレスリングセンスで、「史上最強」とファンが認めるプロレスラーになっていった。
しかし…。1992年、鶴田41歳の時、異変は突然、起こった。B型肝炎を発病したのだ。
「申し訳ございません。もう何をしても無駄です。」
鶴田は死の瀬戸際にさえ、追い込まれていた。
なぜ自分だけこんな目に遭うんだ…。運命を呪う鶴田。
その時、鶴田は病院の中で一人の少女に出会う。
動くことも出来ず鼻に管を通した少女がこうつぶやいたのである。
「明日も晴れるかな?明日も晴れるといいね…。」
そのつぶやきが鶴田の耳に届いたとき、鶴田の中で何かがほどけた。
奇跡的に回復し、7ヶ月もの入院生活にピリオドをうてたのは、プロレスで鍛えた体力ゆえであった。
リングに復帰後、すでにメインイベントを張れない程体は衰弱していたが、鶴田の目は希望に輝いていた。
スポーツ生理学を学び、スポーツ医学の専門家の道を目指し始めたのである。
1994年筑波大学大学院に合格。
「レスラーとして新たな転身の見本を見せたい、大学のスポーツ研究や教育関係でレスラーが活躍できるように先鞭をつけたいんです」
鶴田友美の「第2の人生」の始まりであった。
1999年、鶴田の全てのルーツであるジャイアント馬場が急死。
馬場の死からわずか20日後、引退声明をした鶴田。
肝臓に爆弾を抱えながら、しかし、彼は既に未来を、第2の人生を見つめていた。引退声明の直後、留学の為、アメリカに旅立って行ったのだ。
新しい人生の門出を祝う間もなく、妻保子さんの耳に衝撃的宣告がされる。
「ご主人の余命は1年から1年半。移植しなければ亡くなります。」
妻にだけ告げられた命の期限…。
鶴田と妻、息子達の最後の1年が始まった。
残された時間はあまりにも少なかった。
臓器移植の可能性を求め、オーストラリア、フィリピンと、渡り歩き、命をつなぐ細い糸を必死にたぐる…。
第2の人生を生き抜くために、どうしても時間が欲しい…。
しかし、無残にもその夢は断たれた。
フィリピンで、臓器移植手術中、出血多量でその命を終えたジャンボ鶴田。享年49。
病との闘いの中で、家族との間に刻まれた絆、未来に希望を繋ぎ続けた鶴田の思いとは?
人生というリングで、ジャンボ鶴田が身をもって、子供たちに残そうとしたもの…。
それは、一体何だったのでしょうか…?
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