最後の空襲―小田原空襲―

November 2, 2011

久々の更新ですみません。
放送からすでに2か月半たってますが、この夏、「小田原空襲」について
取材・放送をしました。放送にはのせてない内容を少し入れて
アップしようとしたブログを今回はお送りします。

終戦直前、小田原地方で米軍機による空襲がありました。
何回かあった中でも特に今回お伝えしたいのは以下の空襲です。
小田原の中心部、旧東海道の青物町交差点から北へ向かう街道沿いを中心に
B29から照明弾や焼夷弾が落とされました。
およそ400軒を焼失、12人が死亡した空襲です。

実はこの空襲がおきたのは、1945年8月15日午前1時ごろ。
玉音放送が同じ15日の正午で、その、ほぼ半日前の空襲になります。
文字通り、第二次世界大戦「最後の空襲」になります。
しかし、空襲があったことは一般にはあまり知られていません。
元は歴史ある旅館だったところにある資料館に展示されている焼け焦げのある
階段や廊下、焼夷弾の落とされた場所にある碑くらいで、
空襲があったことを示すのはほとんどが体験した人の「証言」によるものです。
その証言を集めているのが「戦時下の小田原地方を記録する会」という
市民団体で、もう約30年もの間、証言を集めています。
今回、この取材を通じて驚いたことがありました。放送には載せていませんが。
この会が様々な資料を探したり、話を聞いたりして調べたことによりますと、
小田原空襲は米軍に「作戦を遂行した」という報告が残っていない空襲だそうです。
数時間前には、埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市でも空襲がありましたが、こちらはきちんと報告が残っているそうです。熊谷と伊勢崎を攻撃したB29の帰路、時間から見ると、その帰りに小田原上空を通過したときに焼夷弾を落としたということが考えられるそうです。焼夷弾を残したまま拠点に帰るわけにはいかないために落としたとも見られているそうです。小田原が「巻き添えをくった」かたちの空襲だということなんです。
さらに、この時間はすでに日本は敗戦が決まっていた時間。それなのになぜ焼かれなければならないのか。被害を受けた市民は、割り切れない思いを持ち続けているそうです。

空襲というと、どうしても3月10日の「東京大空襲」がクローズアップされてしまいます。しかし、第二次世界大戦後半は日本各地でその規模は違いがありますが、空襲があったのは紛れもない事実です。この夏、関東地方にあった2つの空襲に関する取材を通して、
改めて知りました。

今回は写真はありませんが、日テレNEWS24のサイトから、放送した動画を見ることが出来ますので、そちらもご覧下さい。

投稿者:スタッフN・K

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