ワシントンナショナルギャラリー展

新国立美術館

展示会紹介

ごあいさつ

vol15

近代の画家というと、ゴッホやゴーギャンのように「貧しくとも自らの芸術の道を突き進んだ画家たち」といったイメージがあるが、実はVol.15 のメアリー・カサットなど、裕福な家の出身者も意外と多い。

たとえば「印象派の父」と言われるマネや、彼の弟子だったベルト・モリゾはそろって高級官僚の家の生まれだし、バレエ・ダンサーの絵で有名なドガはナポリとパリに拠点を置く銀行家のお坊ちゃま、若い頃は彼らと行動をともにしたセザンヌも、エクス・アン・プロヴァンスの新興富裕層の出身だった。

逆に画家として成功するまでは「赤貧洗うがごとし」だったのが、モネやルノワールなど。20世紀を代表する映画監督のひとりでもあるルノワールの息子のジャンは、インゲン豆1袋で1か月を過ごしたという2人の共同生活を、著書『わが父ルノワール』の中で面白おかしく語っている。

さて今回取り上げるポスト印象派の画家ロートレックは、家柄ではマネやモリゾのようなブルジョワジーの上をいく、正真正銘のお貴族さまだ。彼は十字軍時代にまでさかのぼれるアルビの伯爵家に生まれたが、少年時代の2度にわたる骨折で両脚の発育が止まるという不幸に見舞われ、画家をめざした。

当時のパリ一番の歓楽街だったモンマルトルにアトリエを構え、そこに生きる踊り子や娼婦などの姿を描いたロートレック。アルビの両親から有り余る仕送りを受け、絵で生計を立てる必要のなかった彼は、自分が心惹かれた人々を、美化することなく自由に描いた。

たとえば本展で紹介されている《カルメン・ゴーダン》は、ロートレックが通りで見つけてモデルを頼んだ洗濯女の姿だし、《犬を抱く女性》は彼の友人の肖像画。また、第3章「紙の上の印象派」で展示されている《アンバサドゥールの粋な人々》のモデルも、なかなか興味深い人物だった。


ここに描かれているのは、当時評判のカフェ・コンセール(音楽やアクロバット、コメディなどを見せる音楽パブ)「アンバドサドゥール」で向いあって坐る男女の図。カタログでは、燕尾服を着た金髪の男性は「ロートレックの友人でオーストラリア人のチャールズ・コンダーがモデルをつとめた」とさらっと書いてあるに過ぎないが、実はこの人、日本では鹿鳴館の建築家として知られるお雇い外国人、ジョサイヤ・コンドルの甥である(「コンドル」は「Conder」のオランダ風読み、「コンダー」は英語風読み。by「Wikipedia」)。

イギリスに生まれ、後にオーストラリアに移住したチャールズ・コンダーは、フランスのポスト印象主義をイギリスに導入した画家。ロートレックとは親友で、彼の作品にはパリの夜の典型的な遊び人として、劇場や娼館の中によく描かれた。一方、前述の鹿鳴館や神田駿河台に建つニコライ堂などを設計した叔父のジョサイヤは、言わずと知れた「日本近代建築の父」である。

さて、《アンバサドゥールの粋な人々》の制作年は、1893年となっている。日本ではその翌年の明治27年、ジョサイヤ設計による日本初のオフィスビル三菱一号館が東京丸の内に誕生した。以後、東京駅前に伸びる馬場先通りには、赤レンガの建物がロンドンのように立ち並ぶ「一丁倫敦」の商業エリアが形成された。

つまりロートレックが、チャールズをモデルに19世紀末パリの「ベル・エポック(美しき時代)」を描いていた頃、東京では、叔父のジョサイヤが近代日本を始動させるための本格的な都市作りを行っていたというわけだ。

ちなみにチャールズが生まれたのは、ジョサイヤが16歳の頃で、彼は24歳の時に来日した。今のところ2人がどんな関係だったのかは不明である。が、この叔父と甥が手紙をやりとりするような仲であれば、筋金入りの日本オタクだったロートレックが、チャールズを介して「日本の着物送って!」なんてジョサイヤに頼んでいた!? という可能性だって無きにしもあらず・・・、なのである。


アート・ライター。現在「婦人公論」「マリソル」「Men’s JOKER」「ぴあムック」などでアート情報を執筆。
アートムック、展覧会音声ガイドの執筆も多数。