6月9日(水)深夜2:29〜3:29

指 揮 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
管弦楽 読売日本交響楽団
司 会 古市幸子(日本テレビアナウンサー)
ゲスト 奥田佳道(音楽評論家)

ブルックナー作曲:
交響曲第8番ハ短調

※2010年3月26日 サントリーホールにて収録


読売日響の常任指揮者として輝かしい歴史を刻んできた、
マエストロ スクロヴァチェフスキが、3年にわたる任期のフィナーレを迎えました。
最後の公演に選んだのは、ブルックナーの最高傑作 交響曲第8番。


スタニスラフ・スクロヴァチェフスキさんは2007年4月から2010年3月まで読売日本交響楽団の
第8代常任指揮者を務められ、数多くの名演奏でファンを魅了してきました。
今回は常任指揮者としての最後の演奏会の模様をお送りします。
読響と共に歩んだ3年間の集大成です。

ブルックナー(1824-96)

♪ブルックナー:交響曲第8番
交響曲第8番は、1887年に第1稿が完成されたものの、改訂されて
1890年に第2稿が完成されました。
作品は、なかなか初演の機会に恵まれず、ようやく1892年12月に、
ハンス・リヒター指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって
初演されています。


スタニスラフ・スクロヴァチェフスキさんは今年87歳。
実に60年以上ものキャリアをもつ大巨匠。
そのキャリアを感じさせないチャ−ミングなお人柄が読響のメンバーにとても愛されていました。

そんなスクロヴァチェフスキさんと読響との3年間の足跡を
音楽評論家の奥田佳道さんに振り返っていただきました。

♪スクロヴァチェフスキが読響に与えた影響と変化:

80歳をすぎて尚進化し発展をとげるマエストロと
ご一緒した3年間だったと思います。
マエストロは
オーケストラとしての日常的なレバートリーに
新たな発見や喜びを教えてくれました。
読響にとってはオーケストラとしての道を示してくださった3年間でした。













終演後、メンバーがステージを降りても、カーテンコールは鳴り止みませんでした。




スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(指揮者)  Stanislaw Skrowaczewski(conductor)
1923年10月3日、ポーランドのリヴォフ(現在はウクライナ領)に生まれる。  4歳でヴァイオリンとピアノを始め、7歳でオーケストラ曲を書き、11歳で公式リサイタルを開いてピアニストとしてデビュー。13歳の時にはベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾き振りするほどの神童だったという。しかし、第二次大戦中に空襲で負った手の傷が元で、ピアニストの道を断念。以降、作曲と指揮の勉強に向かった。
 大戦終結後、クラクフでワルシャワ・フィルを指揮した際、時のフランス大使が感動したことが縁で、奨学金を受けて2年間、パリに留学。まだ、西側に出ることが困難な時代だったが、そのパリで熱心に作曲を学んだ。
 1940年代後半から本格的な指揮活動に入り、46年、ブロツワフ・フィルの指揮者を務めた後、カトヴィツェ・フィル(1949-54年)、クラクフ・フィル(1954-56年)、ワルシャワ国立響(1956-59年)の音楽監督などを歴任。この間、56年にローマの国際指揮者コンクールで優勝し、58年にはクリーヴランド管を指揮してアメリカ・デビューを果たした。以降、ニューヨーク・フィル、ピッツバーグ響、シンシナティ響に客演している。
 その後、1960年から20年近くにわたってミネソタ管弦楽団(旧ミネアポリス交響楽団、1968年に改称)の音楽監督を務めた。ワルシャワ国立響の首席指揮者に続いて、84-91年には英・ハレ管弦楽団の首席指揮者を務め、現在はミネソタ管の桂冠指揮者のほかザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者でもある。アメリカ国籍を得て、今はミネアポリス在住。ブルックナーの指揮では世界的に定評があり、ブルックナー交響曲の解釈でマーラー・ブルックナー協会から金メダルも授与されている。ザールブリュッケン放送響との「ブルックナー交響曲全集」は世界中で賞賛され、「カンヌ・クラシック大賞2002(19世紀管弦楽作品部門)」を受賞している。読売日響とは1978年に初共演して以来、2000年、02年、05年と演奏を重ね、同年末には「第九」を指揮。07年4月、第8代常任指揮者に就任した。2010年4月より、桂冠名誉指揮者となる。