3.11 あの日から、4年。

2015年3月11日(水)

4度目の取材 廃炉へ・・・原発内部“新たな課題”

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出口が見えないのが原発事故からの復興です。
私はその原発の敷地内で4度目の取材を行いました。
これまでより放射線量は下がり、汚染水の処理も進み始めています。
しかし、新たな課題も浮き彫りになってきました。

2015年3月11日(水)

4年たった海は今 妻を捜す・・・潜水士になった夫

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今だ行方が分からない妻を捜し続ける男性がいます。
潜水士の資格をとり自ら海へ潜ることを決断した男性。
その4年にわたる思いを取材しました。

2015年3月11日(水)

進む住宅再建 住民「移転」で見えた“課題”

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切り崩した山で行われているのが新たな住まいを作る「高台移転」の工事です。
急速に歩みを進める復興への動き。
しかしその住民の移転には多くの課題も残されていました。

2015年3月10日(火)

「震災遺構」・・・割れる意見 震災4年・・・記憶を「バーチャル」に残す

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特殊なメガネをかけると見えてくるのは、震災直後の被災地の様子や被害に遭った建物。
いま、最新技術を使って震災当時の記憶を残そうとする動きが進んでいます。
そのワケを取材しました。

2015年3月6日(金)

小泉進次郎政務官がサポート 時の止まった高校・・・被災地“教育”のいま

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原発事故の影響で離れ離れになった福島県双葉郡の子供たち。
この春、その子供たちが一緒に授業を受けられる学校がスタートします。
その取り組みに力を入れてきたのが復興庁の小泉進次郎政務官。
目指す「前例のない教育」を取材しました。

2015年3月9日(月)

住民「戻らない」?・・・櫻井 翔が除染 “終わらない”現実

私は、福島県・富岡町へ向かいました。

2014年夏から、ようやく本格的に住宅地の除染が始まった富岡町。
除染が終わった住宅は、全体の2割に達していません。

私は今回、富岡町のあるお宅で、除染作業をお手伝いさせていただきました。

現在は郡山市で避難生活を送る、渡辺達生さん、ヒロ子さん夫妻です。

櫻井
「敷地はどこまで?」

富岡町から避難 渡辺達生さん
「向こうに杉林が見えますけど、あそこからそこの竹林含めて見えるところすべてなんですよ。」

渡辺さんが所有するおよそ1000坪の、広大な庭。

事故から4年がたとうとしている2015年2月末、ようやく除染作業が始まりました。

櫻井
「およそ4年たってやっと(除染)ということですよね。」

富岡町から避難 渡辺達生さん
「ほんとだねえ~これ以上首伸びないってくらい待ったね。」

作業服に着替えたあと、マスクやヘルメットを装着。
この日は、広大な庭の一角にある庭木の周辺を作業します。

まずは雑草や、落ち葉を取り除きます。

ここで、放射線量を測定。

測定係
「毎時0.65マイクロシーベルトです。」

この値を下げるために、放射性物質がついた土を、カマで削っていきます。
深さは5センチが目安。
広い場所であれば、重機が使えますが、庭木の周辺は、手作業でやるしかありません。

除染作業を担当する鹿島JV西川武志副所長
「木の際っていうのが放射性物質がたれて落ちてくるところなので
その際はできるだけ取りたいところ。」

櫻井
「こういうところですか?」

除染作業を担当する鹿島JV西川武志副所長
「そうです、そうです、だから傷つけないように取ってください。」

櫻井
「根っこがいっぱいあって難しい。」

実はこの庭木の中には、
避難生活の間で亡くなった渡辺さんの母親が大切に育てていたものもあります。
根本を傷つけないよう、特に注意深く削っていきます。

作業前は、毎時0.65マイクロシーベルトだった放射線量。
土を削ったところでは計り直すと。

測定係
「(除染前)毎時0.65マイクロシーベルトから、(除染後)毎時0.12マイクロシーベルト。」

櫻井
「ああそんなに変わるんですか。」

除染作業を担当する鹿島JV西川武志副所長
「上からきれいに取っていけば確実に線量は落ちると。」

作業中、特に線量の高い場所がみつかりました。
それは庭石のコケ。
放射性物質を吸着しやすいためだといいます。
ブラシで丁寧にこすり落とした後、紙タオルで拭いていきます。
これで放射線量は3分の1程度になりました。

櫻井
「放射線が目に見えないからどれくらい落ちているかが
やりながらだとちょっと分からないですね。」

およそ1時間で、私ができたのは、広い敷地のほんの一角だけでした。
庭の除染は重機を使っても6週間ほどかかるといいます。

櫻井
「除染が全部終わって“町に戻っていいですよ”と宣言が出たら?」

富岡町から避難 渡辺達生さん
「私は戻ってきて、こういう自分の家はもちろんだけどね、
それがひいては地域のため、町のためにも繋がっていくようになれば。」

富岡町から避難 渡辺ヒロ子さん
「こっちに戻って一緒に。自然に、緑に囲まれたところで、土をいじる、触って。」

町に戻りたいという、強い思い。
その一方で・・・。

櫻井
「周りの方々ってどうですか?」

富岡町から避難 渡辺達生さん
「私らみたく戻ってきて色々やろうという人は少ないですね、今のところ。」

櫻井
「少ないですか。」

なぜなのでしょうか?

避難先の郡山市で妻のヒロ子さんが始めた草木染めの工房を訪ねました。
同僚はみな、富岡町の住民ですが・・・。

富岡町から避難した女性
「家族はいわき市へ住むので、もしかしたら私は(富岡町に)戻らないかもしれません。」

富岡町から避難した女性
「帰町するというのはちょっと難しいかなと。
(郡山市に家を建てて)こちらに基盤ができておりますので。」

実は、復興庁などが行ったアンケートでも除染が終わり
避難指示が解除されたら富岡町に戻ると決めている人は、わずか12%。
一方、戻らないと決めている人は49%と半数近くにのぼりました。

除染が終わっても戻らない。
4年にわたる避難生活の中で、新たな基盤ができたという人も多くいました。

戻らない理由は、ほかにも。

その1つが、除染作業で出た土や草など、いわゆる除染廃棄物を入れた、黒い袋です。

私は、渡辺さんの家から出た黒い袋の行く先を追いました。

黒い袋が到着したのは、かつての町の玄関口、JR富岡駅前でした。

櫻井
「右も左も黒い袋の壁に挟まれているような感じです。すごい量・・・」

ここが、富岡町の除染廃棄物をいったん保管する「仮置き場」でした。
海岸沿いの広大な更地に、黒い袋が並んでいました。
黒で埋め尽くされたかつての町の玄関口。

この景色の中で、将来を思い描くのは難しいと感じる住民が少なくないのです。
黒い袋はここだけで現在およそ14万個。
毎日およそ2000個のペースで増え続けているといいます。

この仮置き場で、私はある場所に案内されました。
大型の重機が並ぶスペース。
ここで何をしているのか?上から見せてもらうと・・・

櫻井
「どんどん細かくしていってなるべくかさを小さくなるように」

袋に入っていた、除染廃棄物のうち、草や木。
機械に乗せられると細かく砕かれていきます。
こうしてチップ状にすることで元の量の3分の1程度に減らせるといいます。
これをまた袋に戻していきます。

福島県内の除染で出た廃棄物は、自治体の仮置き場に置かれます。
期間は3年がめど。
その後、福島県の双葉町と大熊町にまたがる中間貯蔵施設に運ばれ、
最後は、福島県外で最終処分される計画です。

黒い袋のタグを見てみると・・・「3年」の文字が。
仮置き場の保管期間にあわせて、耐用年数は3年のものが使われています。

ところが中間貯蔵施設への搬入は、事故から丸4年となる今も、始まっていません。

こうした中、仮置き場のスペースを少しでも確保するために、
かさを減らす作業をやらざるをえないのです。

櫻井
「なるべく早く袋から出して、次の場所に移して出すということが大切ですよね」

除染作業を担当する鹿島JV西川武志副所長
「そういうふうに思います。 ここからそのゴミ、こういった黒い袋がなくなるっていうのが
やはり復興のまずスタートだと思います」

除染が終わり、富岡町から、そして福島県から黒い袋がなくなるのはいつになるのか。
原発事故から4年、いまだ出口は見えていません。

2015年3月5日(木)

教訓として生かすには・・・15メートル巨大津波の“脅威”

高さ15メートルの津波に襲われながら
助かった米沢祐一さん。

どうやって助かったのか?
当時のお店に案内して頂きました。

岩手県陸前高田市。
そこは海からおよそ1キロの場所。
一帯をかさ上げする予定で工事が着々と進んでいました。

米沢さん
「これが、私のお店があった(被災した)ビルです。」

そのビルは、更地の中、ひとつだけ遺されていました。

米沢さん
「あそこまで津波がきまして。」

高さ15メートル。
『津波到達水位』と書かれたあの高さまで津波が襲ってきたのです。

板谷
「あんなところまでいったんですね。」

米沢さん
「信じられないでしょ。自分も建物見るとここまできたなと
思い出しますけど、だんだん本当にあんなとこまで来たのかなって。」

街が一変した、あの日。
お店はセールのまっただ中でした。
地震発生からおよそ40分。

津波は静かに、海岸に押し寄せてきたのです。

「船が流れた。」

瞬く間にあがる水位。
予想をはるかに超えた大津波が
すごい速さで街に向かってきていました。

その頃、米沢さんは地震の様子を見に、2階へ。
階段をのぼった時、津波の存在に気付きます。

米沢さん
「この窓をみたら真っ黒い津波が山側に向けて
ダーッと押し寄せてるのを見たんですよ。」

急いで屋上へ逃げた米沢さん。
しかし・・・。

米沢さん
「こうやってやるんですけど、(扉が)全然開かないんです。
ものすごい勢いで砂と風が入ってきて。」

津波がもたらす強風で、動かないドア。

なんとか開けたものの
そこで見たのは、一面真っ黒な濁流。
迫って来る津波に米沢さんはさらに上へと、ハシゴをのぼります。
そこで煙突にしがみつき、ひたすら耐えたといいます。

米沢さん
「ものすごく渦巻いてるっていうか。
360度全部が津波に飲みこまれてるっていう状態ですね。
津波はこんなに恐ろしいもんなんだっていうのを
その時ずっと思ってました。」

米沢さんの足元10センチにまで迫る津波。
この場所で一人、夜通し救助を待ち
24時間後、自衛隊に助けられました。

私も実際にのぼってみると

板谷
「うわぁ、信じられない。こんなところまで来たんですか。」

およそ1キロ先にある海。
そこから私がいるこの場所までずっと、
15メートルの高さの海面が続いていたのです。

専門家によると今後建物が崩れる心配はないというものの
今もむき出しになったコンクリートが津波の破壊力を物語っています。

当時、両親と弟とここで一緒に働いていた米沢さん。
3人は先に避難所に移動し、津波に襲われ、命を落としました。

津波の怖さを忘れてはいけない。
米沢さんは、建物を残すことを決めたのです。

米沢さん
「高い所に逃げなきゃって意識を持って
とにかく命だけは助かるようになってほしいなと思ってるんです。」

しかし一方で保存が検討されていた釜石市の防災センターや
宮城県・女川町の共済会館なども撤去。
4年たち津波の爪痕が次々と姿を消しています。

そして、あの大型漁船も。

私は以前来た、船があった場所を訪れたのですが・・・。

板谷
「いま自分がどこにいるのか
わからないぐらい様変わりしてますね。」

宮城県気仙沼市の鹿折地区。
辺りは盛り土で、かさ上げされていました。

4年前。濁流となって街を襲った津波。

女性
「えー、夢じゃないよね、えー」

すべてを飲み込み、猛烈な勢いで押し寄せていきます。
その威力は翌日、さらに悲惨な形となってあらわになりました。

内陸まで打ち上げられた
全長およそ60メートルの大型漁船・第18共徳丸。

街には車や船、破壊された家が・・・。

板谷
「船の真横に家があるっていう・・・この感じが・・・。」

それから2年半。震災を思い出すから見たくないという
住民の声などを受け、漁船は解体されたのです。

解体に、住民の方の気持ちは様々。

男性
「なくなって私は良かったと思います。
共徳丸があったらもっと(復興が)遅れてたと思う。」

気仙沼に60年以上住む、語り部の男性は・・・。

男性
「残した方が良かったんじゃないかなと。
船があそこにあってすぐ近くで見ると威圧感。
こんな船がここまで来たのという感じになるので。」

復興が進む中、
津波の脅威を伝えるため、被災した建物を残すのは、
難しくなっていました。

そんな中、一人で立ち上がった人もいます。
齊藤賢治さん。

津波伝承館を自ら開き、ある映像を見せることで
見学者に、津波の怖さを伝えています。

齋藤さんは逃げた高台から津波を撮影していました。

地震発生からおよそ37分。
画面中央にあるのが齋藤さんの会社です。

「おいおいおい」

津波は、防波堤を越え、
海からおよそ100メートル離れた場所まで
一気に流れ込んでいきます。

「あーとめてくれー」

次々に流される民家や車。

「何が防波堤だよ」

街の中に水が流れこんでから、わずか2分。
一瞬にして街を破壊していったのです。

震災から4年、
齋藤さんが抱いていたのは、危機感でした。

齋藤さん
「時の経過とともに
(津波の)怖さもどんどん薄れていっているから
伝承していかないとまた同じ繰り返しになるのかなと。
(映像を)見る方々に津波の怖さを知ってほしいと思ってる。」

二度と同じ被害を出さないために・・・。
あの時の津波の脅威を、どう教訓にするのか
課題となっています。

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