3.11 あの日から、5年。

2016年3月11日(金)

村尾キャスター「廃炉への道に、立つ。」

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復興には欠かせない「福島第一原発」の廃炉。
大きなカベになっていうるのが、溶け落ちた核燃料がどこにあるかわからないこと。
どうやって核燃料を探し出し、取り出すのか。
村尾キャスターが6度目の原発内部を取材。
(※動画には原発事故の映像が含まれています。)

2016年3月11日(金)

板谷キャスター「震災、はじまりのごはん。」

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震災のあと、「初めて食べたごはん」は何ですか?
5年前の記憶が薄れていくことが懸念される中、
「ごはん」の写真を通じて思い出してもらう活動を仙台市のNPOが行っています。
見た人は何を思い出すのか?撮影した家族は何を思っていたのか?
板谷キャスターが取材。

2016年3月11日(金)

「津波カメラマンが、撮り続けた5年。」

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岩手・釜石市を襲った津波の映像を克明に捉えたカメラマン・柳田慎也。
実は、自分が撮影した津波で母親を失っていた。
5年たった今も、釜石で震災に関する取材を続けている柳田。
レンズを通して彼が伝えていることは。
(※動画には津波の映像が含まれています。)

2016年3月10日(木)

完全再現「震災10日目、奇跡の救助。」

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震災から10日目の、2011年3月20日。
宮城・石巻市でガレキの中から、高校生とその祖母が奇跡的に救助された。
5年たった今、当時の状況を初めて証言。
なぜ2人は生き延びたのか、証言を元に“完全再現"した。
(※動画には津波の映像が含まれています。)

2016年3月9日(水)

又吉直樹が被災地へ「“読書”の特別授業。」

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宮城県・石巻市にある雄勝中学校は
震災から5年たつ今なお、隣町の高校の校舎を間借りして
授業を行っています。もろちん学校には図書室もありません。
その現状を知った又吉さんが雄勝中学校を訪問し
“読書”に関する授業を行いました。
そこで、生徒たちに贈った「本」はどんな作品だったのでしょうか?

2016年3月8日(火)

桐谷キャスター「津波“犠牲者ゼロ”、の授業。」

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巨大な津波からどうやって命を守るのか?
震災で「津波による犠牲者ゼロ」につながった授業があるという。
岩手・宮古市の高校生が行う、
模型を使い「津波をリアルに感じさせる」その授業を、桐谷キャスターが体験取材。
(※動画には津波の映像が含まれています。)

2016年3月7日(月)

櫻井キャスター「この除染に、意味はあるのか。」

福島第一原発から10キロの、福島県・富岡町。

ここは除染作業で出た土などの「除染廃棄物」を
一時的に保管する「仮置き場」です。

一面をうめつくした黒い袋。
富岡町全体で100万個以上にまでふくれあがっていました。

櫻井
「時間の経過とともに黒い袋も白くなってしまっています」

「除染廃棄物」の外側に積まれた土のう。
中には、草が生えているものも。
原発事故から5年がたとうとしていました。

私は、3度目となる除染作業のお手伝いを
この富岡町で、させていただきました。

今回は、私がこれまで経験したことがない、
“高い放射線量の場所"を除染します。

櫻井
「うわすごい、針振り切れますね」

測定係
「毎時30マイクロシーベルト、オーバーになりますね」

実はここ、雨どいの下の部分。
雨水が土にしみこむため、庭の中でも特に線量が高い、
“ホットスポット"です。

通常の除染では土を5センチ削りますが、
ここは30センチ掘ることになりました。

櫻井
「掘るときの30センチというのは相当深いですね。」

また配管の中にこびりついた土を取り除かないと、
放射線量は下がりません。

この場所の除染だけで、6つの道具が必要でした。

櫻井
「作業が細かくなってくるんでまた別の大変さがありますね。
掃いたり、掘ったり、削ったりっていう」

測定係
「(除染後)毎時1.75マイクロシーベルト」

櫻井 「30以上下がっていますね」

今村さんが住んでいる地域は
来年春に避難指示の解除を目指しています。

除染が終わったら、どれほどの住民が戻ってくるのか。
富岡町の将来を占う場所がありました。

除染が終わった楢葉町。
去年9月に避難指示が解除され、
町に戻って、生活できるようになりました。

ところが、町には人が暮らしている気配はありません。

櫻井
「鳥の鳴き声しか聞こえないですね…」

楢葉町の住民およそ7400人のうち、
戻ってきたのは459人。
全体のわずか6%で、ほとんどは高齢者です。

こちらの一軒家も、不在。
実はこの家、おととし、
私が除染のお手伝いをさせていただいた、
井出さんのお宅でした。
当時、除染が終われば戻りたいと話していた井出さん。

しかし今も、いわき市のアパートで避難を続けていました。

楢葉町から避難 井出亜紀さん
「長男が来年3年生なので受験の方に集中させてあげたいというので。
外の方はみなさんそう言うんですよね、『何で(帰らない)?』って。
でも実際本当に生活に慣れている中、
解除だから帰っていいよって言われても…」

避難先で過ごした5年という月日は、
簡単には帰れない時間になっていました。

楢葉町の3つの小中学校は、今も再開できていません。

さらに震災前、44軒あった店は、現在12軒に。

住民が戻らない町には、商業施設が戻らない。
商業施設の少ない町には、住民が戻らない。
そんな悪循環もおきているのです。

原発事故から5年。
除染だけでは、かつての町の姿を取り戻せないという現実。
手探りの戦いが続いています。

2016年3月4日(金)

「津波に負けない、野球部の5年。」

街中の気温計は氷点下を差す中、練習する球児たち。
彼らは被災した陸前高田市で唯一の高校、高田高校野球部。

1988年には夏の甲子園に出場し、その快挙に町中が熱狂した。

あの日、海岸からおよそ1キロに位置する高田高校は、
3階まで津波が押し寄せ、校舎は全壊。

5年前、震災によって、野球部のグラウンドは仮設住宅に。

野球のできる練習グラウンドを探し、転々とする日々が続いた。

それでも震災に負けまいと、
限られた時間と環境の中で野球を続けた。

そんな彼らを支援するため、全国から野球道具が届いた。

多くの人たちに支えられてきた野球部。
彼らの奮闘は、町の人々の希望となり、支えとなった。

震災から5年を迎えようとする陸前高田。

現在、巨大な高台の上に新しい住宅地を作るため、
街の中心部のかさ上げ工事が進んでいる。

全壊した高田高校も去年春、新校舎が完成した。

しかし、窓から見えるグラウンドには
未だ仮設住宅が並んでいる。
そのため、野球部は今もバスで移動し、
隣町のグラウンドで練習を行っている。

チームの中心で副キャプテンの長沼柊さん、17歳。
彼も津波によって家を失った。

「残骸だらけで何がなんだかわからなかった。
山に逃げている瞬間が夢に出てくる。」

長沼さん一家4人は現在、仮設住宅に住んでいる。

あれから5年、
陸前高田では今も3000人以上が仮設で暮らしている。
母・恵里子さんは…

「4畳半2間の部屋に住んでいる
息子も自分の部屋が欲しい年頃なんですけど、それもない」

そんな生活の中でも、彼らはなぜ野球にひたむきになれるのか?

「道端を歩いていて“高田高校頑張って”とよく言われる
地元から甲子園に行きたいという思いが強い」

一方、陸前高田からおよそ500キロ離れた
立教大学の練習場。

ここに高田高校のグラウンドコートを着た青年がいる。

彼は4年前のキャプテン、佐藤央祐さん21歳。

高校時代、佐藤さんは練習試合の後、
対戦したチームに「自分たちの経験」を伝えていた。

「もし大地震が起きて 津波が来ることになったら
親とか助けたい気持ちはわかるんですけど
どこかに逃げていれば いずれ会える
津波は恐ろしいものなので
まず 自分の命を大切にしてほしい」

佐藤さんは今、選手ではなく、コーチとしての勉強をしている。
「高田高校で野球を教える」
それがふるさとの復興につながると、佐藤さんは信じている。

「高校生だった自分たちが大きくなった時が一番 復興が進む
自分たちが携わらなければ復興しない」

野球を通じて、陸前高田を元気にしたい――
その思いは、5年を迎える今も、高田高校野球部の大きな力となっている。

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