右松取材日記

2012年12月26日

今年の現場取材を振り返る④ ~10月から12月~

10月中旬、尼崎市の民家の床下から3人の遺体が見つかりました。
複雑に絡み合った人間関係。
取材に向かった尼崎の民家は下町の風情がある住宅街の一角にあり、
引き裂かれた高松市の一家が住んでいたのは、山や田畑が囲むのどかな町でした。
「平成事件史に残る重大事件だ…」
ある記者が現場でつぶやいた言葉が今でも耳に残ります。
12月12日、容疑者が警察署の留置所内で自殺。
この不可解な事件の全容解明は困難になったとの声が上がりました。

これからの4年間を誰に託すのか。
歴史的大接戦となった日本時間11月7日のアメリカ大統領選挙。
私は10月下旬から渡米し、“スイングステート=激戦州”と呼ばれるオハイオ州とネバダ州を中心に、
「オバマ政権の通信簿」そして、「アメリカ経済の光と陰」を取材しました。
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オハイオ州はGMやクライスラーの工場などが立ち並ぶ自動車産業の街。
米大手自動車企業が相次いで経営破綻した2009年。
公的資金を注入して救済したのがオバマ大統領でした。
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いち早く工場を再開できた工場には「VOTE OBAMA」のポスターが。
一方、破綻のあおりをうけたまま再開できない工場は、
いまだに看板がはずれ、煙を吐き出すことのない煙突が寂しげに立っていました。
胸に「ROMNEY」と書かれたバッジをつけた住民は「町が光を失ってしまった」と肩を落としていました。

西海岸のネバダ州では、
RVパークというキャンピングカー専用の駐車場で生活をする家族を取材。
出会った「ウィトリー」さんご家族は、2年ほど前に仕事を一時解雇され買ったばかりの持ち家も手放すことに。
以来、日本円約6万円で購入した5畳分ほどの古いキャンピングカーに家族4人で住んでいました。
「もっと大きなキャンピングカーに住みたい!」とおどけて話す子供を抱く父親は
「雇用が増え、より経済がよくなることを心から望んでいるよ」。
再選を果たしたオバマ大統領は、アメリカが抱える問題を前へ進めることができるのか、
これからの4年間にかかっています。
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「愛知県で立てこもり事件発生した!すぐに現場へ!」
その日は、都内で別の事件を取材中。すぐに東京駅に向かい新幹線に乗り込みました。
11月22日、愛知県豊川市にある信用金庫で発生した立てこもり事件。
現場から数百メートルほど離れた建物からカメラとマイクを構え続けました。
説得を続ける捜査員。店内をうかがい突入のタイミングを計る特殊捜査班。
晩秋の冷え込んだ空気のなか、緊迫の時間が続きました。
午前3時前。静寂を破り突入した「SIT」により人質全員を保護。
容疑者の身柄が確保されました。

まるで花畑のようにバラが咲き乱れた候補者の氏名が書かれたボード。
12月16日に行われた衆議院選挙では、
単独過半数を大きく超える議席を獲得し圧勝した自民党。
外では師走の冷たい風が吹く自民党本部。
しかし会見場は汗ばむ熱気に包まれていました。
一方、約3年3か月前に政権交代した民主党に対する国民の審判は厳しいものでした。
恒例のバラ付けは行わないとして、まっさらなままのボード。硬い表情の党執行部。
12月26日、新政権が発足。
国内外に問題が山積するなか、次の政権がどのような舵取りをしてゆくのか、
しっかりと見てゆかなくてはなりません。
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2012年12月19日

今年の現場取材を振り返る③ ~7月から9月~

「今まで経験したことのない大雨」
およそ50年に1度という極めてまれな大雨が降った際、
気象庁が災害への強い危機感を伝える表現。
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7月の日本列島は九州北部から紀伊半島にかけ梅雨前線が停滞。
さらに前線の活動が活発化し、まさに「経験したことがない」豪雨が襲いました。
大分県日田市では市内の川が氾濫し、
青々とした水田を茶色く濁った水が覆い尽くしていました。
「ようやく田植えが一段落したところだったのに…」と肩を落としていました。
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7月12日の豪雨では、熊本県阿蘇市などで甚大な被害が出ました。
阿蘇の緑の山肌は爪でえぐられたようにいくつも地表がむき出しになり、
車ほどもある大きな岩がごろごろと住宅地に転がり込んでいました。
私たちも取材中、突然の大雨で取材を中断。
視界が奪われ、呼吸がしづらくなるほどの大雨はまさしく経験したことのないものでした。

夏の日差しが校舎に照りつけ、ひまわりの咲くグラウンドを走る部活動の生徒たち。
夏休み直前、さわやかな学校生活の裏で「いじめ問題」が暗い陰を落としました。
悪質ないじめの実態、自ら絶ってしまった若い命、不明確なままの責任の所在。

滋賀県大津市の中学校に警察の家宅捜索を行いました。
本来、最も安全で平和であるはずである学校に
次々と入る捜査員の姿を目の当たりにし、なんともやるせない気持ちになりました。
ZEROは「いじめ、いま君に伝えたい。」というキャンペーンを行い、
各界の方から自身の経験を交え、いまもメッセージを伝え続けています。

「津波高34m」「最大で死者約32万人」
発生すれば、東日本大震災を超える国難になるとされている「南海トラフ巨大地震」
その被害想定が8月末に発表されました。
私たちは、およそ34mの津波が来襲することが想定されている高知県黒潮町を取材。
衝撃的なデータに動揺する住民の方もいる中、
小学校の上層階にあるベランダから直接裏山に逃げられる橋を設置したりと、
自治体では震災以降、高台へ逃げるための避難路の整備が進められていました。

また、すぐに避難できない地域では、
救命艇開発プロジェクトが国と民間の共同開発が行われていました。
被害想定に対して、“正しく恐れ”“できる対策を考え”
ひとりでも多くの命を救う取り組みが進んでいます。

「帰れ!」「配備反対!」
住民の激しい言葉がぶつけられている先には、ねずみ色の独特な形をした機体。
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ヘリコプターと飛行機の能力をあわせもつ、
米軍の垂直離着陸輸送機 MV-22オスプレイが
7月、沖縄県普天間基地に配備されるのを前に、山口県岩国基地に陸揚げされました。
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9月末には、取材陣向けの体験飛行に私も搭乗。
機体の急上昇や回転翼モードから固定翼モードに換える時に受ける振動・重力などを体感しました。
10月1日、オスプレイが沖縄普天間飛行場へ配備されました。
オスプレイの陰が付近の住宅街を覆い、
からだにズシンと響くような大きな爆音が
住民の不安や怒りをふさぐような印象すら覚えました。
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2012年12月11日

今年の現場取材を振り返る② ~4月から6月~

今年の現場を振り返る。第2回は4月から6月です。

東京ではサクラのつぼみが膨らんできた4月上旬。
深緑の発射台が、南の島の青空に向けられていました。
北朝鮮が発射を予告していた事実上の弾道ミサイルに備え、
迎撃ミサイル「PAC3」が沖縄本島、宮古島、石垣島などに配備されました。
市街地には人や車も行き交い観光客の姿も。
一見平穏に見える島も、住民に話を伺うと「万が一」という言葉が多く聞かれました。
「万が一の事態」が起きてしまったら一体どうなってしまうのかという
いわば、「とらえどころのない不安」が広がっていました。

4月は痛ましい重大交通事故が相次ぎました。
穏やかな春の朝。
京都府亀岡市で、新学期に胸躍らせて登校していた児童たちが
悲惨な事故に巻き込まれました。
2人の児童と引率をしていた妊娠中の女性、そしてお腹の子供が死亡、
さらに7人が重軽傷を負いました。
春の野花が咲いた植え込みはなぎ倒され、
道路には事故の状況を示すチョーク書きが残されていました。
多くの児童が利用する事故現場の通学路は国道と平行するいわば「抜け道」で、
取材中も絶え間なく車が往来していました。
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中央から切り裂かれたように大破した大型バス。
ブレーキ痕がない現場。
7人の命を奪った群馬県の関越自動車道の大惨事は、
GWに入ったばかりの日曜日の明け方、
石川県から東京ディズニーランドに向かう途中におきました。
当時、警察の調べによると事故原因は、その数日前に起きた亀岡の事故同様、
居眠り運転だったということです。
この事故では運転手が突っ伏して寝ている姿も目撃されており、
ずさんな安全管理も問題になりました。

「一瞬の出来事だった」と声を震わせながら語る住民。
茨城県つくば市を襲った巨大な竜巻は、
GW最終日、土蔵造りの建物が並ぶ趣のある町並みを破壊しました。
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竜巻を真っ正面に受けた集合団地の窓はほとんど破られ、
室内の壁には割れた瓦片が付き刺さっていました。
広場のブランコも数十メートル先に横たわり、
屋根ごと飛ばされた住宅の2階からは空が見えていました。
竜巻が襲ってきたとき、怪我を免れた住民の方は
「二階から一階へ、かつ窓のない部屋に逃げた」と話していました。
地震や豪雨災害だけでなく様々な災害に備えることが大切だと思いしらされました。
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5月22日、3年半から「つくしんぼ」のように、天高くゆっくりと伸びてきた東京スカイツリー。
東京の下町は高さ634mの新名所にわきました。
江戸っ子の老舗そば店は、大きな海老をスカイツリーに見立てた「タワー丼」を販売。
スカイツリーが見渡せるホテルではブライダルフェアを開催し、
挙式を目前に控えたカップルが634個の風船を放ち
スカイツリー開業を祝っていました。
開業から半年、取材の帰路、付近を通りがかるとき、
冬の澄んだ空気に輝くライトアップにはいつも目を奪われます。
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「オウム真理教元幹部 高橋克也容疑者と見られる男 身柄確保」
6月15日午前。各局のニュース速報が一斉に打たれました。
オウム真理教特別手配犯の17年に渡る逃亡生活。
その最後の場所は東京大田区のマンガ喫茶でした。
私はその店内、そして逃亡生活から身柄確保までの足取りを取材しました。

2012年12月01日

今年の現場取材を振り返る① ~1月から3月~

紅葉した街路樹に飾られたクリスマスネオンが、夜の街を彩っています。
今年もあと1ヶ月となりましたね。
『NEWSZERO』のフィールドキャスターとして今年も、全国各地の現場を駆け回りました。
そこで、この一年を四半期に区切り、4回に渡って今年の取材を振り返ってみたいと思います。

今年最初の放送は、1月4日。
2011年大晦日の夜に出頭したオウム元幹部真理教の、平田信被告(当時容疑者)が逮捕されました。
大崎警察署、人ごみのJR恵比寿駅、警視庁、丸の内警察署、出頭までの足取りを追いました。
17年間、その日も人目の網にかかることがなかった平田被告。
1月4日、夕方の駅前の交番に貼られた特別手配のポスター。
私たちにとっても見慣れた手配写真には「検挙」のシールが顔を覆うように貼られ、
逃亡生活に終止符が打たれたことを物語っていました。

1月中旬、広島市内は緊迫した空気に包まれていました。
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広島刑務所から受刑者が脱走。人口が密集する住宅街に逃げ込み、息を潜めていました。
街の至る所に多くの捜査員の姿。集団下校する児童たち。
近所でお好み焼き店を営む女性は、昼過ぎに店を従業員に任せ、子供を迎えに足早に小学校へ。
住み慣れた街並みを見つめながら、「今の町は子供が危険にさらされているようで不安です。」と話していました。
逃走から3日目に逮捕されましたが、その現場は人や車が行きかう交差点。近くには小学校がありました。

今年は北海道や本州の日本海側での豪雪被害が深刻でした。
2月上旬、記録的積雪に見舞われた新潟県津南町は住宅の2階まで雪が積もり、
また「雪庇(せっぴ)」という、屋根から雪のかたまりが張り出しているところが数多くあり、落雪の危険もありました。
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この地域では雪に閉ざされる冬の期間、
一人暮らしをするお年寄りが市街地の施設で共同生活をする仕組みを自治体が整えていました。
暮らす人、雪かきや雪害の見回りをする人もみな高齢者というなか、
地域のつながりはもちろん、行政の支えも不可欠であると感じました。
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3月11日。震災から1年。
私は岩手県宮古市田老地区にいました。
あの日、町の誇りだった巨大防潮堤は一瞬にして飲み込まれ、多くの尊い命が奪われました。
午後2時46分。今でも痛々しい傷が刻まれた田老の防潮堤には、
復興を誓うように、人たちが手を繋ぎ、穏やかな海を見つめていました。
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この時期、都会の住宅街の一室で発見されぬまま亡くなっていたのが見つかる「孤立死」が相次ぎました。
災害が地域の絆の大切さを示したように感じた一方で、都会に浮かび上がった繋がりの希薄さに、寂しさも覚えました。

2012年03月16日

あの日から一年

2012年3月11日、東日本大震災から一年。
報道特番『復興テレビ』の中継のため、私は岩手県宮古市田老地区にいました。

この田老地区は、1896年の明治三陸津波、
1933年昭和三陸津波で甚大な被害を受けました。
その教訓から、翌年に建設着工した防潮堤は、
1960年のチリ津波で、一人の犠牲者をだすことなく町を守り続けてきました。

およそ半世紀を経て完成した全長約2.4キロにおよぶ日本最大規模の防潮堤は
その姿から「万里の長城」とも呼ばれ、
晴れた日にはのんびりと散歩をするおばあさんや、
雪の日には防潮堤の土手でそり滑りをする子供たち。
防潮堤の一部には大きな絵が描かれており、
まさに田老地区のシンボルでもある「城壁」でした。

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しかし、この地区を襲った東日本大震災の大津波は、
高さ約12メートル以上ある防潮堤を破壊しながら乗り越え、
海沿いの町の穏やかな生活を一瞬にして奪いました。

2012年3月11日。

あの日、多くの住民が避難した高台にある墓地に花を手向ける家族。
さら地となった町の道路を歩く僧侶の列。

午後2時46分、黙祷。

静寂の町を包む鎮魂の念。カモメの鳴き声だけが遠くから響いていました。
その後、防潮堤の上には手を繋ぎ、海を見つめる人たち。
「震災に負けない。」
その後ろ姿は、これからの町の復興へ向けて立つ凜々しさがありました。

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2012年01月10日

原発事故の影響は生活ゴミにも…。

福島第一原発からおよそ200キロ離れた千葉県柏市。
1月5日、市内にあるゴミ処理施設、南部クリーンセンターの中央制御室では、
いつもとは違うモニター映像を見つめる職員の姿がありました。

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モニターにはたき火程度の小さな炎が画面手前に少しだけ映し出されていました。
この日、ゴミの焼却を停止。燃やすものがない焼却炉の火が自然に鎮火するのを待っているといいます。

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この施設で燃やされた家庭ゴミは焼却灰となり、
通常は、コンクリートの原料や埋め立てなどの方法で処理されます。
しかし原発事故以降、出されたゴミには放射性物質が付着。
この施設の焼却炉で燃やすと体積は100分の1に減少しますが、
放射性物質は減らないため高濃度の焼却灰となります。
国の基準で1キロあたり8000ベクレルを超えた焼却灰はそのまま埋めることができないため
この施設内では焼却灰をドラム缶にいれ、厳重に管理、保管しています。

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私たちは去年、ドラム缶を保管している地下室を取材しましたが、
放射能量の数値が書かれた緑色のドラム缶が、広い施設内に所狭しと並んでいました。
当初は約7万ベクレルほどあったそうですが、現在は平均で約3万~4万ベクレルといいます。
ドラム缶は1000本を超え、ついに保管場所がなくなり、今回、焼却そのものを停止することになってしまいました。

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千葉県印西市にある下水処理施設の一角。
この場所に広大な敷地にテントを立て、焼却灰の仮り置き場として千葉県が提案しています。
敷地の広さと柏市からのアクセスがよいことが理由ですが、
地元の市は焼却灰を出した自治体が管理すべきだとして受け入れに反対の姿勢を示し、
今も自治体間の協議が続けられています。

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現在のところ、別のゴミ処理施設でゴミ焼却しているため、日々のゴミ回収が滞ることはないとしていますが、
とは言え、「少なくしようと努力しても、ゴミは毎日出てしまうので…」
「この状態がいつまで続くのか…」と住民の皆さんは、
解決の道筋が見えない現在の状況に、不安を募らせていました。

2011年12月26日

金正日総書記死去~韓国取材ルポ

「これから朝鮮中央テレビが特別放送を行います!」
報道フロア中に響く一斉連絡。
12月19日正午、報道フロア中央にあるモニターに視線が集まりました。
そこで伝えられた北朝鮮の金正日総書記死去のニュース。
騒然とした報道フロアでは、すぐにニュース速報がうたれ、
緊急特番の準備が慌ただしく進んでゆきます。
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私たちZERO取材班は、急遽、19日夕方に韓国・ソウルへ向かい、
20日には、北朝鮮との軍事境界線付近にある統一展望台を取材しました。
望遠レンズでイムジン川を挟んで対岸3キロ先の北朝鮮の農村集落を見ると、
古い土壁の建物の前に、黒っぽい服を着た人が数人で座り込んで話をしている様子や、
まとまって歩く人の姿が確認できました。
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統一展望台の職員によると、金正日死去のニュースが伝えられた19日午後、
集落の集会所のような施設に数百もの人が集まっている姿が目撃されたといいます。
北朝鮮では、いま何が伝えられ、人々の心の中にはどのような感情が巡っているのでしょうか。
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ソウル市内は、クリスマスイルミネーションが輝き、
明洞(ミョンドン)の繁華街には観光客や若者があふれかえっています。
活気ある町並みを行き来する人々の表情に緊迫感などは見られません。
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ただ、帰宅ラッシュをむかえたソウル駅には、
街頭テレビの前に、夕方のニュースを食い入るように観る多くの人の姿がありました。
「実績のない若い指導者が、これからどのように北朝鮮を導いてゆくのか。」
「今の私たちの生活は変わらないけれど、これからどのような脅威が迫ってくるのか。」
平穏に見えるソウルの街には、
つかみどころのない、「これから」への漠然とした不安が漂っているように感じました。
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2011年11月28日

ガン治療の未来を照らす

「このような技術で、ガンの城を切り崩そうとしています。」
そう語るのは、東京大学の浦野泰照教授。
ガンの存在が疑われる部分を発光させる試薬を
アメリカ国立衛生研究所の小林久隆主任研究員と共同で開発しました。

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今回開発に成功した「GGT活性検出蛍光プローブ試薬」をがん細胞にふきかけると、
がん細胞に多く含まれる酵素と反応し、強い光を発する物質ができ、
この物質が、がん細胞の中に溜まることで明るく光って見えるといいます。
試薬は、通常の細胞にも反応するということですが、
がん細胞の光の方が、20倍以上も明るく発光するため肉眼でも区別がつくといいます。

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ガンの検査や治療は様々な手法がありますが、
摘出手術の際、肉眼で見えるガンよりも微少な1mm程度のガンは、
医師の経験などに依ることが多く、
微少なガン部位の見落としや取り残しが大きな課題で、
この微少なガンが、多臓器への転移やガン再発の原因となってしまうこともあるそうです。

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今回お話を伺った浦野教授は
「どこが正常でどこがガンかを見極めることが難しかったこれまでのガン摘出手術において
外科医の方に光ったこの部分を取りなさいと、教えるような技術は
将来的な外科手術を大きく変えると期待しています」と、
5年後の実用化を目指しています。

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国民の2人に1人がかかるといわれるガン。
浦野教授らが開発した「蛍光プローブ試薬」が
ガン治療の未来をも“照らす”かも知れません。

2011年11月09日

国の除染計画と飯舘村の今

11月7日から福島県への、国による本格的な除染計画がスタートしました。
対象地域は、福島第一原発から20キロ圏内の「警戒区域」と、
年間の放射線量が20ミリシーベルトを超える「計画的避難区域」です。
この日、福島県飯舘村をかわきりに詳細なモニタリングを行い、
そのデータに基づいてどのような除染が有効なのかを検討していくとしています。

測定には、線量計や専用PCを搭載したモニタリングカーや、
なかなか人が立ち入ることが出来ない里山や田畑などを測定するため、
全長約3mの無人小型ヘリコプターが導入されています。

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ただ、飯舘村の村民からは疑問や不安の声も聞かれます。
お話を伺った飯舘村の酪農家の長谷川健一さんは、
50頭いた牛を処分し、現在は県内の仮設住宅で暮らしています。
「今でも、牛を世話していた頃のように日が昇る前に目が覚めるんです。」
「山に囲まれたこの村の除染が果たしてどこまで効果があるのか。
自分の生まれた里だからいつか戻りたい。ただそれがいつになるのか・・・。」

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村の通りを歩くと、商店のシャッターは軒並み閉じられ、
小学校の校庭には元気に走り回る子供たちの姿はありません。
遠くでとんびの鳴き声だけが響いています。

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私が以前取材に訪れた今春、田園の畦道には新緑の若葉が萌え、
色とりどりの野花が咲き乱れていました。
半年後のこの日、静まりかえった村を囲む里山は、
秋の青空を背景に色鮮やかに紅葉していました。
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2011年06月28日

平泉は東北の希望

岩手県の「平泉の文化遺産」が、世界遺産に登録されることが決まりました。
3年前は登録が見送られ再挑戦の今回、東北初の世界文化遺産となりました。
私たちは登録決定を待ちわびる24日、平泉へ向かいました。
平泉駅には「世界遺産登録へ」と書かれた大きな看板。
3月の震災以降、イベントなどを自粛し、GWは前年に比べ85%も観光客が減ったそうで、
「震災で観光客も減り心配していた。これを機に平泉はいいところだと思ってもらえたら」と
町の方も観光地としての賑わいに胸を膨らませていました。

平泉は平安時代の末期、奥州藤原氏3代が築いたみちのくの都。
中尊寺金色堂を建立した初代藤原清衡は、戦乱の世に妻子や仲間を亡くしました。
生きとし生けるもの多くが犠牲となった奥州の地に、
仏の世界、「浄土」を空間化しようと計画し、その願いは代々引き継がれました。

寺院の前には日本独特の曲線を帯びた池があり背景には自然の山という配置。
これが仏と日本の自然信仰とが融合した浄土庭園です。
今回、世界遺産に登録された毛越寺 執事長 藤里明久さんは、
「『平和な世の中、そして一切衆生を救いたい』という奥州藤原氏の志と
『戦争は人の心の中で生まれるもの、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない』
というユネスコの精神とが900年の時を経て相通ずていること。
加えて、浄土庭園が大陸には残されていなかった、極めて日本的なものだということが評価されたのではないか」
「震災で被災された皆様へ対し、平泉はその痛みに沿い
世界遺産登録ということが、東北の力となれれば」とおっしゃっていました。
今回の震災で甚大な被害を受けた東北太平洋沿岸は
かつて奥州藤原氏が治めていた地域でもあります。
その60キロ内陸で、平和で穏やかな理想郷を具現化しようとした平泉が、
今年、世界遺産に登録されるというのは不思議な縁を感じてしまいます。
平泉が東北の希望となり、活性化のきっかけのひとつになればと願ってやみません。