2008年01月29日

アジアが誇るアン・リー監督 知られざる父との物語

映画『ラストコーション』。舞台は第二次世界大戦中の上海。女スパイと敵対する男の許されざる禁断の恋を描いた作品。

メガホンをとったのはアン・リー監督53歳!昨年9月のベネチア国際映画祭ではこの作品で同映画祭最高の栄誉である金獅子賞を獲得した! 

台湾や香港では大スターのアン・リー監督!
2000年公開のアジア合作映画『グリーン・デスティニー』は全米興行収入1億4500万ドル(約174億円)の大ヒットを記録!アメリカで最も成功したアジア映画と言われる。

これまでベネチア国際映画祭の金獅子賞を2回、ベルリン国際映画祭の金熊賞も2回受賞!
獲得したトロフィーは実に60本!
今や台湾が誇る世界の巨匠アン・リー監督に話を聞いた。

Q賞を獲得する秘訣は?
アン・リー監督「(秘訣は)わからないよ‥。映画を製作している時は、受賞したいとか一切考えない。良い映画を作ることだけに集中しているんだ」

華々しい活躍を見せるアン・リー監督だが、36歳までは無職同然の生活だった。成功の陰には、映画製作を反対し続けた厳格な父親の存在があった。

アン・リー監督は教師だった父の影響で、幼少から勉強一筋だったという。そんな父の口ぐせは‥

「将来は教師になりなさい」 だった。

ところが大学受験の後、父の猛反対を押し切り映画を学ぶため単身アメリカへ。これを機に父と確執が‥。   

アン監督はニューヨーク大学を卒業するが仕事のオファーはゼロ。妻の収入で生計を立て、コンテストに脚本を応募する日々が続いた。

卒業から6年後。36歳の時、自分の父親をモデルに書いた脚本が映画化され監督としてデビュー(映画『推手』)!この作品は頑固な中国人の父がアメリカで暮らす息子夫婦と共同生活をする物語。

アン・リー監督「父の存在がなかったら、この映画を作っていなかったよ」

その後も父に認められたい一心で、父親をテーマに次々と作品を製作。数々の賞を獲得し世界的な評価を得た!巨匠と呼ばれるようになったアン・リー監督に対し、それでも父は‥

「教師になりなさい」 と、話したという。

その後アン・リー監督8作目の映画『ハルク』。それまでの作風と違う、ハリウッド娯楽大作。この作品後、アン・リー監督は心身共に疲弊してしまった。

「辞めたい‥」

落ち込むアン・リー監督に対し父は‥

「映画の世界で、頑張ってみなさい」

これが、父が初めてアン監督の仕事を認めてくれた瞬間だった。

しかしその言葉から2週間後‥父、シェン・リーさんはこの世を去った(享年91)。

アン・リー監督はその後『ブロークバック・マウンテン』を父にささげる思いで製作!
するとこの作品で、アジアの監督として初めてアカデミー監督賞を獲得した!

アン・リー監督「8作も時間がかかったけど、ようやくお互いのしこりを洗い流すことができた。今は、運命で私たち親子は結ばれていたと感じているよ」

2008年01月22日

驚異のパフォーマンス 指揮者ボビー・マクファーリン!

世界の小沢征爾氏が創立した新日本フィルハーモニー交響楽団。
その公演がつい先ほど行われた。

指揮者をつとめたのは、ボビー・マクファーリンさん57歳。実はボビーさんは現役のジャズシンガー。

1980年代には『ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー』が大ヒットしグラミー賞も受賞。ヴォーカリストとしてトップスターだったボビーさん。しかしなぜ指揮者になったのか?

ボビー「全く違う新しいことに挑戦したかったんだ」
 
父親がオペラ歌手だったこともあり、幼少のころから指揮者に憧れていたボビーさん。その夢を捨てられず40歳の時、クラシックの名門ジュリーアード音楽院に入学。アメリカの高名な指導者であるグスタフ・メイヤー氏から、指揮者としての技術を学んだ。

ボビー「でも、私はとても恥ずかしがり屋な人間なのでオーケストラの前に立って指揮をするのが最初はとても怖かったよ」

ボビーさんは現在、オーケストラとジャズの要素を融合したこれまでにない指揮者のスタイルが人気を呼び、ヨーロッパを中心に大活躍!今までにウィーン・フィルやロンドン・フィルなどを指揮し、成功をおさめてきた。
 
そして、つい先ほどボビーさんの驚きのパフォーマンスが日本で披露された!

オーケストラを指揮し曲が終わった後、舞台上に残るボビーさん。手にしていた指揮棒を髪にさすと‥バイオリンの音色に合わせ歌い始めた!

ボビーさんの別名は『声の魔術師』。4オクターヴという驚異的な声域を自在に操り独特のヴォイス・パーカッションと組み合わせた歌声が会場に響きわたる。

そして次にソロのヴォイス・パフォーマンスでも観客を魅了。ちなみにヨーロッパ公演では観衆に対して指揮をし、2万人の大合唱になったこともあるボビーさん。今回も観客を指揮し、ホール一丸となってアヴェ・マリアを合唱した!

ボビーさんにとって指揮をすることとは‥

「自分にとって指揮をすることは手で歌うこと。良い音楽をつくることが自分に与えられた宿命なのさ」

2008年01月21日

現代学生百人一首!

若者が世相を歌った「第21回 現代学生百人一首」。

21年前に100周年を迎えた東洋大学が「100」にちなんだ記念行事を開催する際、百人一首を全国から応募したのがはじまり。参加資格は中学生以上の学生で、はがきによる応募総数はなんと6万点以上。

今月15日に入選した100首の発表が行なわれた

「ネットカフェ 名前はカフェのはずなのに 今では人の家になってる」

これは昨年、流行語大賞にも選ばれた「ネットカフェ難民」を取り上げたもの…。

「復興の願いを込めて新潟の 夜空彩る大輪の花」

これは被災した新潟県の人々を勇気付けるため昨年8月に長岡市で行なわれた花火大会を歌ったもの。
ZEROでも小林キャスターが取材していた。

今年の傾向について選考委員長は…

「両親とかおじいさん、おばあさんとか。家族の事を詠む歌が大変多い。」

今回選ばれた100作品のうち、家族をテーマにしたモノが全体の約25%あったということです

家族をテーマに詠んだ歌、他にもこんな作品が…

■ほうれん草の おひたし最近水っぽい 握力落ちた母の細腕 (北海道 高校3年生)

■両親の 働く姿に胸打たれ そっと終わらすマイ反抗期 (東京都 中学3年生)

■「帰るね」と いったら急に話し出す 祖母の顔見て「まだいようかな」 (鹿児島 高校2年生)

2008年01月15日

ミュージカル「ペテン師と詐欺師」主演!鹿賀丈史&市村正親!

現在日生劇場にて公演中のミュージカル「ペテン師と詐欺師」。

鹿賀丈史さん演じる詐欺師にペテン師役の市村正親さんが弟子入り。その後2人はライバルとなり、プライドをかけ闘うというストーリー。

ZEROはこのミュージカルの稽古場を訪れると、セリフをチェックしている2人がいた。とても楽しげな様子。

今から35年前、鹿賀さんと市村さんは劇団四季の同じ舞台でデビューを果たした。
デビュー直後から「歌の鹿賀」「ダンスの市村」と脚光を浴び、今や演劇界のトップスターとなった2人。

ZEROでは、30年来の友人であるおふたりにデビュー当時の思い出、そして舞台に賭ける熱い想いを伺った!

Q デビュー当時の思い出について・・・
市村「嬉し泣きするんですよ。人の気持ちがありがたくって」
鹿賀「やっぱり多感だったからね。(市村さんは)多感な青年だった。」
市村「よく泣きました、昔はね」

Q 舞台について・・・
鹿賀「僕らもいい年になってきた。この人は20年くらいやると思うんですけど・・」
市村「いや30年くらいやるよ。僕にとって舞台とはやっぱり生きる糧というか生きる全てというか・・・。これがなかったら何にもない。僕からこれを取ったら、はたして何が残るかなって。何も残らないなって。そういうものですね。」

最後にお二人に「最近気になるニュース」を聞いてみると、鹿賀さんは今年の箱根駅伝の話題をあげた。

鹿賀「やっぱり本人が一番悔しいと思うんですけど・・・。これから頑張って欲しいということと、(リタイアという経験は)無駄にはならないだろうと思います。」

そして市村さんは・・・
市村「おっぱっぴー(小島よしおさん)の今後の活動。いつまでも応援するから生き残れよ。(この先)持たない持たないって言われていても、そんなの関係ねーって言ってる小島君が好きでね。生き残るというのは大変なんですよ。僕もここまでよく生き残れたなーっと大晦日にも思った。おっぱっぴーの今後の活動。」
鹿賀「そんなの関係ねー」(一同笑)

※ブロードウェイ・ミュージカル 「ペテン師と詐欺師」公演情報
東京公演 1月5日(土)~1月29日(火) 日生劇場
兵庫公演 2月28日(木)~3月2日(日)兵庫県立芸術文化センター 他
<詳細は「ペテン師と詐欺師」公式HPにてご確認下さい>

2008年01月11日

NY仕込みの実力派!DJ Kaoriとは?

クラブのフロアなどで全体の構成を考え楽曲を選曲し、観客を盛り上げるDJ。
ZEROではクラブを熱狂に包み込む、女性DJ、DJ Kaoriさんの仕事場に密着した!

2007年12月。
西麻布のクラブにDJ Kaoriさんの姿が。
まず彼女がクラブに入り、取った行動はフロアの観察。
客層を見てこの日の選曲を決める。

そして…

「(チェキラーDJ Kaori~ Waaa!)」

ブースにDJ Kaoriさんが立った…
持ち時間30分に対し用意したレコードは、なんと200枚。
彼女は最初の選曲に強いこだわりを持っているという。

実は彼女、16年前に渡米、クラブミュージックの本場ニューヨークで修行を積んだ。
そこでバスケットのマイケル・ジョーダンなど、豪華セレブが主催するパーティーでDJをするまでに成長。
その活躍はNY Times紙でも紹介されるほどに!

DJ Kaoriさんがそこで学んだのは、最初の曲がその日の盛り上がりを左右するということ
この日も、全神経を傾け一曲目を選ぶ。
今日、彼女が選んだのは・・・

ジェニファー・ロペスの「Do It Well」
この日は西麻布という場所柄、20代の女性たちが多く集まったため、彼女たちに支持されているこの曲を選んだ。
この後も彼女のDJプレイは続き、全25曲、50分間のショウタイムは大盛り上がりのまま終了した!

Dj Kaoriさんの目標とは?

「歳とか性別とか国境とか関係なくとりあえずチャレンジできるような自分でいたいな、
結果はどうあれ。」

2008年01月10日

承認から3か月・・・ムコ多糖症患者の今

昨年、ゼロで行ったキャンペーン「No More ドラッグ・ラグ」。
その中で紹介したムコ多糖症Ⅱ型患者、中井耀くんのお母さんが書いた 『命耀ける毎日』(著:中井まり 青志社)が本日発売された!

日本でムコ多糖症Ⅱ型の治療薬が認可されて3か月。患者さんの今を追った。

1998年10月6日、中井耀くんは大阪に誕生した。風邪ひとつ引かない元気な子だった耀くん。

しかし、2歳の時にムコ多糖症Ⅱ型と診断された。

老廃物を分解する酵素が生まれつきなく、体内に溜まってしまう難病・ムコ多糖症。成人まで生きることができない患者も多い。

日本ではまだ使えなかった治療薬の治験に参加するために、耀君は5歳の時にお母さんの元を離れアメリカで1年半生活した。

日本テレビが以前取材した中で、幼い耀くん、そしてまりさんはこう話してくれた。

耀「死にたくないので、薬を使えるようにしてください」
まり「なんで(海外では薬があるのに)認めてもらえないのでしょうか?」

薬があるのに日本では使えない。その現状を知り、立ち上がったのが人気レゲエバンド「湘南乃風」の若旦那さん。患者を支援するためのライブイベントを開催し、訴えてきた。その呼びかけに賛同した人たちによってその運動はさらに大きくなり、1日も早い薬の承認を求め多くの人が街頭で呼びかけてきた。

そうした活動の甲斐あって、昨年10月には異例の早さで治療薬の1つが日本で承認された!


そして、耀くんと同じムコ多糖症Ⅱ型患者の深見卓矢くん、17歳。卓矢くんは5歳の時にムコ多糖症Ⅱ型と診断された。

治療法が確立されるのを待つ間に、卓矢くんの病状は進行。声を出すことも自力で呼吸することもできなくなった。

母「昔はちゃーちゃんって呼んでくれたよな」

寝たきりの生活になって10年。言葉を発することはできないものの、卓矢くんはご両親の話すことをすべて理解している。

そんな卓矢くんに薬の承認の知らせが届いた日。母親から知らされた卓矢くんの目には涙が…。

そうして、薬の投与が始まって1カ月。ZEROは卓矢くんのお宅に伺った。

2007年12月。この日は卓矢くんにとって薬が認可されてから6回目の投与の日。卓矢くんが待ち続けた病気の進行を抑えるための薬の名は「エラプレース」。投与は週に1回、5時間をかけて行われる。

父「ずっと長いこと待った。夢のようなことだったのでほんまにうれしいですね」
母「こんな日が来ると思わなかったな」

投与が始まって1カ月。ご両親は卓矢くんのある変化に気づいた。

父「呼吸が楽になったような。お風呂に入れるときは自発呼吸で頑張っているんですけど、それが楽になったというか」
母「薬が効いて楽になるね。楽になったらいっぱい遊びに行こな」