FROM ZERO

2017年1月 6日

#67 女優・高畑充希(25)
はじまりは...「知ってもらうこと」

女優、高畑充希25歳。

彼女の環境は、この1年で大きく変わった。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」をはじめ数多くの作品に出演し
CMにもひっぱりだこ。
とにかく忙しかった彼女は2016年、最もブレイクした女優に輝いた。
自分の想像を遙かに超える飛躍。
この場所にたどり着くまでに、どんな道のりを歩んできたのか。

2016年12月。この日、テレビの収録を終えた高畑さんは、すぐに別の仕事へ。
多忙な彼女、移動中のわずかな時間に話を聞いた。

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ディ)"忙しい"ことに対してはどうですか?
高畑)いいところも悪いところもあるな~。
忙しすぎるのはよくないと思います。
ディ)何でですか?
高畑)ひとつひとつに心が動かなくなるから。
   感受性が敏感なときって結構、余裕をもって動けている気がする。

「どんな時も、感受性を大切に生きていたい。」
そう語りながら、次の現場、雑誌の撮影へ向かった。

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彼女が女優を目指すきっかけとなったのは...

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「舞台の客席です。ずっとちっちゃい時からお芝居を観るのが好きだったので、
小学生のときはミュージカルを見ることが多くて、音楽だけで物語がつむがれていくので、
単純にメロディーとかその音楽をマネして家で歌ったりとかして、
みんながJポップにはまるように
私はミュージカルのサウンドトラックにはまったりしていました。」

自分もいつか、舞台に立ちたい。
大きな夢を持った少女は、たくさんのオーディションを受けた。しかし...
「さんざん落ちましたね。
でもこんなに舞台好きなんだからそのうち受かると思っていた。」

そしてついに、13歳の時。
山口百恵さんのトリビュートミュージカルで、初めて主役の座をつかむ。
15歳のときには、「ピーターパン」にも抜擢。実に6年に渡って主役を務めた。

舞台女優として順調にキャリアを詰んでいった高畑さん。
しかし彼女は、ドラマや映画など、舞台ではない映像の世界に向かう。なぜなのか?

「やっぱり舞台は観てもらわないと始まらないので
(自分のことを)知ってもらっていた方がいいだろうなっていうのはあって
踏み込んだ映像の世界」

映像の世界に踏み込んだのは、自分を知ってもらうため。
そして何より、舞台の魅力を知ってもらうため。
朝ドラの主役も務め、映像の世界で高畑充希の名は一気に広まった。

2016年10月。
高畑さんは1年ぶりにミュージカルの舞台に戻ってきた。
稽古場に入ると高畑さんの目つきが変わる。

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「お客さんが面白かったって帰ってくれるのが一番うれしい。
私達は体と心を削って一生懸命やるって感じ」

この1年、自分のことは大勢に知ってもらえた。
だから次は、舞台の楽しさを多くの人に知って欲しい。

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「(自分が)きっかけで舞台を見に行って、舞台意外と面白いんだとか思ってもらえたら、
それきっかけで別の作品も見に行ったりするかもしれないじゃないですか。
これで演劇を観る人が増えたら最高ですよね。」

現在25歳。いま目標にしていることは...
「全編音楽の舞台に出たい。それが自分にあうと思うし大好き。チャレンジしたいですね。」

2016年12月23日

♯66 青山学院大学 一色 恭志
はじまりは...「悔しさしかなかった連覇」

スタートから一度もトップを譲らない完全優勝で
箱根駅伝連覇を果たした青山学院大学。
そのチームの新エースが一色恭志、4年生。
一色は連覇の裏で、ある思いを募らせていた。

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小学1年生のとき。学校のマラソン大会で優勝したのを
きっかけに、走る楽しさのとりこになる。
高校生になるとその名を知られる存在に。
3年生の時には、全国高校駅伝でチームを日本一に導き、
自身も区間賞を獲得した。

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大学でも1年生から注目を浴びた。初めての箱根駅伝では、
1区を任され、1年生の歴代最速タイムを更新。
2年生からは各校のエースが集う「花の2区」を任された。

その2区に初めて臨んだ2年生のときは、区間3位。
さらに3年生になった今年も2区を任されたが、
その前に立ちはだかったのが、ケニア出身の
山梨学院大学1年生、ドミニク・ニャイロ。

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ニャイロの圧巻の走りで一色は今年も区間3位。
大会で青山学院は連覇を達成するも一色は素直に喜べず。
ニャイロに負けた悔しさが残った連覇となった。
「まだまだ自分の力というのは日本学生長距離界の中では
まだまだなんだなと痛感させられました」

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このままでは終われない。一色は走りを磨くためこの1年、
新しいことに取り組んだ。
まず挑んだのは初めてのフルマラソン。
2区のおよそ倍の距離。過酷さは想像以上だった。
体のブレが少なく、安定感のあるフォーム。これだけでは
勝てないと気付いた。さらに取り組んだのは上半身の強化。

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その成果は目に見える形で現れる。
先月行われた全日本大学駅伝。一色はアンカーを任された。
しかし2位でタスキをもらう。その差は49秒。
逆転は難しい状況。だが・・

実況「追い抜かれたその襷が先頭に押し上がってきます。
一色恭志4年生がついについに再び先頭に順位を
押し上げました。」

青山学院大学を悲願の初優勝へ導いた一色の走り。
一年間の取り組みが実を結んだ。

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そして先週土曜日。箱根へ向けた記者会見。

原監督「今年に限っては2区については一色を公言しております」

原監督のエースへの信頼。
その期待に応えようと一色自身の思いも同じだった。
一色「またニャイロ選手も来ると思うので、そこでしっかりと競り合って最後、4年目の最後の意地を見せて勝てるようにやっていきたいと思います」

2016年11月18日

♯65 月へ挑むエンジニア 古友大輔
はじまりは...「宇宙は嫌い」

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民間で初めて月に挑む日本の月面探査チームがあります。そのエンジニアの挑戦に迫りました。

2016年10月28日

♯64 女性芸人 渡辺直美
はじまりは...「日本語が苦手な自分」

ニューヨークにあるウェブスターホール。


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ここは、エリック・クラプトン、プリンス、スティングなど
大物アーティストがライブを行った場所。
そのステージに日本のお笑い芸人が立った。

身長158cm 体重100kg 
お笑い芸人・渡辺直美さん、29歳。
インスタグラムのフォロアー数は500万人以上で国内1位。
さらにファッションブランドをプロデュースするなど
いま最も勢いがある芸人。
そんな人気芸人が、なぜ単身ニューヨークでライブを行ったのか?


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ライブ前日、ニューヨークの街を歩く渡辺さん。すると...

「うわっ、めっちゃおいしそう!すごいこれ、うー!」

グルメには目がない様子。


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渡辺さんにとって、ニューヨークは特別な思いがある。 

「初めて人生で留学したのがニューヨークなので
いろいろ成長できた街」

実は2年前、渡辺さんは、売れっ子だったにも関わらず
仕事を全て断り、単身ニューヨークに留学した。
およそ3か月間の海外生活。

当時は、世界中からプロのダンサーを目指す人たちが集まるというスタジオで
習いたいレッスンに通い続けた。

「こういう風にイスを使って、こうやって座って
こういう動きやったりとかして、こうやってバーンってやったりとか」

「どうすれば、ダンスが面白くなるか...」必死に研究を重ねた。


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しかし、なぜニューヨークに留学したのか?

実は渡辺さん、
デビューした時からずっと、ある劣等感を感じていたという。
それは、彼女のルーツにある。

1987年。台湾で生まれた渡辺さん。
その後、日本に移住し台湾人の母と2人で暮らした。

「言葉が母親が台湾人っていうので片言なんですよ。
片言の生活の中で過ごしてきたんで小学校の時とかも
授業の先生の言っていることが分からないみないな」

18歳のとき、憧れていた芸人の道に進むが
そこに"言葉の壁"が立ちはだかった。

「しゃべりが苦手」という芸人としての弱点を抱え、悩み続けた。

そんなとき、先輩にある言葉をかけられた。


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オリラジの中田さんと話した。
「『私、どうすればいいですかね』って話したら
『短所ばっかり見ないで長所を誰もできないくらい伸ばせ』って
言ってくれたんですよ。
私の長所ってなんだろうって思ったときに
"表現力"かなと思ったんですよね」

ショービジネスの本場、ニューヨークで表現力を学びたい。
彼女は留学を決めた。

「何か日本と違うところはありますか?」

「全然違いますね。我が強すぎる全員。
その我が強い人たちの中で生きていくには
自分も強くならないといけないので何でもかんでも
『どうぞ、どうぞ』っていう性格だったのが、
『ちょっと待って、私はこうなんだけど』って言えるようになりましたね。
強くなりましたね」

芸人としての自分を変えてくれた。
だからこそこの街で結果を残したい。
ニューヨークの単独ライブにはそんな思いが込められている。

本番1週間前、ニューヨークで行う単独ライブのリハーサルが行われた。

「(持ち上げるの)ちょっとだけでいいから
あーやばい...落ちそう...あー」


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この日は、最終リハ。
あとは本番を残すのみ。
練習にも熱が入る。


「ダンスだけで見せるっていう感じなので
ちゃんとやらないとっていうので細かくやってますね」

さまざまな人種が集まるニューヨーク。
ライブでは、言葉を使わず体の表現だけで笑いをとりにいく。
だからこそ、納得できない場面では...。

「もう1回同じ所から...ちょっとじゃあもう1回、もう1回、もう1回...」

ダイナミックな動きから細かい顔の表情まで何度もチェック。


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本番当日。チケットは即完売。
会場は大きな笑いに包まれた。


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直美さんの今後の夢は。

「みなさんの笑顔が増えますようにってことで
もっともっとクオリティの高いことを
日本でも海外でもいろんなところでできるようにしたいですね」

2016年10月14日

#63 映画監督 内村光良
はじまりは...「映写機の後ろから見た景色」

「わかんないよね...どっちがウケのるかなんてさっ」
「もう怖くて怖くて、"間"がなくなっちゃうの」

30年以上"お笑い"の世界を追求してきた内村光良さんが
"笑い"の見せ方に、悩んでいた。


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テレビで見ない日はないほどの活躍ぶり。
しかしその裏では、"もうひとつの顔"を持っていた。
それは...


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映画監督。
この1年、内村さんにとって3作目となる
映画の製作に取り組んでいた。

何においても1等賞を目指す男の
半生を描いたコメディー映画「金メダル男」。
内村さんが監督、脚本、原作、主演まで務めた。

"映画監督"内村光良はじまりは...
「映写機の後ろから見た景色」だった。


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内村さんが私たちに案内してくれたのは、
30年前に住んでいた街。
デビュー直後の下積み時代を過ごしたアパートが
今でも残っていた。


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当時、コントの台本や、劇団の脚本に追われながらも
夢中になっていたことがあった。

「本当に"映画"ばっかり見てましたね。
 2軒あったビデオ屋さんばっかり行って。
ここでずっと見てました」

高校生まで熊本県で過ごした内村さん。
今では"お笑い芸人"の道を歩いているが
学生時代の夢は"映画監督"になることだった。

内村さんが映画に興味を持ったのは
ある作品との出会いがきっかけだった。

「『七人の侍』これは大きかったですね。
 小学生ながらに絵のすごさとか立ち回りの迫力...
 なにか感じ取ったんでしょうね。
 あの当時の映画をいっぱい見たから撮りたいと思った」


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好きだから作りたい――

その純粋な思いから
高校生の時に私物の8mmカメラで映画制作を始めた。

当時の作品が今でも残っている。
3人の男子高校生それぞれの恋愛や夢を描いた
青春ストーリー「男物語」。


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この作品を文化祭で同級生に披露。
その時の感情が、今の原動力になっていた。

「視聴覚教室で、作った8mm映画を見せて
 笑いが起こった時のことはずっと忘れてません。
 あのとき映写機の後ろでみんなの反応を見て
 『笑ってくれたよ、うれしいな』っていう
 あの記憶があるから、今もやってる

みんなに笑ってもらいたい。
この原点があったからこそ、今でも走り続けられる。

映画の編集作業では、
お笑い芸人だからこそ、"間"にこだわる。

「このカットを0.1秒くらい切ってほしい」


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今回が初のコメディー作品。
たとえ0.1秒でも妥協はしない。

そのため作業には何週間もの時間を要し
内村さんは座骨神経痛を発症。
痛み止めを飲みながら、1本の映画を作り上げた。


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映画館でお客さんがみんな一緒になって
 笑っているっていうのが一番好きな光景。

 舞台でもない、テレビでもない、"映画"という場所で
笑ってもらえたら自分の中で得るものがあるなと。
 それができた時はもうちょっと上に
いけるんじゃないかな」

 


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