FROM ZERO

2018年5月25日

#82 サッカー 宇佐美貴史
はじまりは...「決断できた勇気」

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今週始まった、日本代表合宿。 ワールドカップに出場できる23人を絞り込むラストサバイバル。 宇佐美貴史の初のワールドカップ出場の夢は後一歩で叶うところまで来ていた。 そんな宇佐美を支えているのは、海外で、もがき苦しんだ日々...。


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今月ドイツ・デュッセルドルフ。
海外での生活は、4年目を迎えた宇佐美。
日本にいる妻と、2人の娘とは離れて暮らしている。
日本にいる家族との電話は毎日の日課。3月には、次女が生まれたばかり。


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そして家の中には、宇佐美の強いこだわりを表すモノが...。

「日本代表のことを出かける前に強く意識する。
 常に着ていたいユニホームを目に見えるように飾っている」

今シーズンの宇佐美の戦いの舞台はドイツの2部リーグ。
優勝をかけた最終戦ではゴールを奪い、チームを優勝へ導いた。

「花開いてくれたじゃないけど充実感が得られるくらいの
 パフォーマンスにはなった」

物心がつく前から、サッカーボールを蹴っていた宇佐美。
小学校での通算ゴール数は「600」を超える"天才少年"と呼ばれた。

16歳にして、Jリーグ・ガンバ大阪でプロ生活をスタート。
そのデビュー戦でプロ初ゴールを挙げ、華々しいデビューを飾る。


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そして2011年、19歳の時。
ドイツの名門バイエルンへ、日本人で初めて移籍。
しかし、そこは各国のスター選手が集まる世界のトップクラブ。
リーグ戦出場はわずか3試合。ゴール数は「0」。天才の名はかすんでいった...。

「試合に出られない時があると、焦りになっていったり
 あたふたしてしまう自分がいましたね」

サッカー人生で初めて味わった挫折。
日本へ戻った宇佐美は一から自分の武器である決定力に磨きをかける。
すると...才能が再び輝きを見せる。2015年...念願の日本代表デビューを飾る。


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確かな成長を背に、宇佐美は2016年。2度目のドイツ挑戦を決断する。
しかし1年間でのゴールはまたも「0」。

「自分のレベルの低さ、選手としての価値の低さ
 無力さを改めて痛感して、限界を見られた」

ドイツで2度目の挫折...。
しかし、今回の挫折を宇佐美はプラスにとらえていた。

「1回目と同じミスをおかさない意識ではいましたし、
 焦りを抱えてサッカーをすることをやめようと思った」


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日本に戻ることは簡単だった。しかし、宇佐美が下した決断は...。
1部リーグから2部リーグに落としてでも、ドイツに残る道を選んだのだ。

「苦しんだからこそ、ドイツで頑張りたいという
 気持ちにさせてもらえる逃げたくない自分もいる」

「活躍してドイツで一旗揚げたいという思いは強くある」


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出場機会を求めて、2部へ移籍した宇佐美の決断は実を結ぶ。
ドイツで過ごした4年間の中で、シーズン最多となる8ゴールをマーク。
チームを2部優勝に導き、その活躍は、地元サポーターに認められた。

「サポーターからは"来季も残ってくれ、残ってくれ"
 "絶対残れよ、お前"と、ほっぺたにブチュブチュと
 チューされました」

ドイツで輝きを取り戻した宇佐美。
ワールドカップのメンバー発表前、
最後の海外遠征に招集され、
初のワールドカップ出場を自らの手で近づけた。

ワールドカップ日本代表の23人。
そこに、宇佐美貴史の名前は記されているのだろうか...。

「ワールドカップはもう夢の舞台です。ずっと夢でした。
 昔からワールドカップに出て
 プレーしてみたいと思っていたので一番の目標ですね」

2017年12月22日

♯81 青山学院大学 田村和希
はじまりは...「駅伝が団体競技と知った日」

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今シーズンの学生駅伝には「絶対王者」はいない...。
昨シーズン無敵を誇った青山学院は、
勝利を手に出来ないでいる。
箱根駅伝3連覇を支えてきた選手たちが、
卒業した青山学院。
抜けた穴を埋められないチームの中で、
もがいている選手がいる。
最後の箱根駅伝に挑む4年生・田村カズキ。

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田村の名が世間に知れ渡ったのは、1年生の箱根駅伝。
初出場で区間記録を更新。
チームの箱根駅伝初優勝に大きく貢献した
2年生の箱根駅伝でも区間賞の走りを見せた田村。
青山学院に欠かせない存在になっていった

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しかし、3年生で迎えた今年の箱根。
脱水症状を起こした田村。結果は、区間11位。
走り終えた後は倒れこみ病院へ運ばれた。
田村が必死に繋いだ襷を、その後仲間たちが懸命に
ゴールまで繋ぎ、見事チームは箱根駅伝3連覇を達成。
しかし、歓喜の輪の中に、田村の姿は無かった。

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レースから2日後。チームメートの前で田村は...。
「何とか襷を繋げることができたんですけど
良かったと思っています。自分の中でも少しホッとしている
部分があってイマイチ言葉にまとまらないんですけど...
本当にこの一年間今の4年生についていって良かったなと
思っています」「立派な4年生になって」
「高いレベルで安定感のある走りができるように
この一年間さらに成長していきたいと思っています」

頼もしい仲間たちへの思いがあふれた。
田村は、駅伝が団体競技ということを改めて感じていた...
「駅伝というのは楽しいイメージが
ほとんどだったんですけど」
「楽しいというだけじゃなくて団体の競技というか
チーム全員で取り組んでいるというのを感じていて」

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仲間と共に、箱根駅伝4連覇へ。4年生となり、
チームを引っ張る立場になった田村だったが...。
右ひざ、そして左足スネと2度の怪我に悩まされた。
その影響から一人別メニューでの調整が続く。

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練習に合流しても、仲間のスピードについていけない。
焦りだけが募っていく。
走りで貢献できないもどかしさを感じつつ、
試合では、裏方に徹した。
後輩に、伝えられることは全て伝えた。

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それでも、走ることで仲間に貢献したい...。
全体練習が終わっても、田村の練習は続いた。
それは、日が落ちた夜になっても。

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復活を目指すエースの姿に原監督は...
「何度も挫折して這い上がってこそ本当の力がつく」

秋の駅伝シーズン直前。
ようやく田村に以前のような走りが戻ってくる。
仲間のスピードについていけるようになった。

そして先月。全日本大学駅伝。
そこには、挫折から這い上がってきた田村の姿が。
しかし、優勝候補のチームは1区でまさかの出遅れ。
2区を任された田村は10位で襷を受け取る。
  
仲間に助けられた箱根駅伝...
今度は、自分が仲間を助ける番。
実況「今かわしました。10位で襷をもらった
青山学院大学駅伝男の田村和希が9位に順位を上げました」
快走を見せた田村は区間賞の走りで、
6位まで順位を押し上げた。

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次は、4連覇に挑む箱根駅伝。
田村が再び仲間のために走る。
「チームみんなでこの一年間一度も味わえなかった
勝利の味っていうのを、うれしさっていうのを
分かち合いながら本当喜びを爆発させたいなと。」

2017年12月15日

♯80 俳優 大泉洋
はじまりは...「30歳で抱えた不安」

「"面白さの奴隷"なんでしょうね。
面白いって言われたらやっちゃうもん。
だったら芸人さんになれば良かったのに
っていう話なんだけど」

そう語るのは俳優・大泉 洋さん。
俳優なのに、なぜ"面白さ"を求めているのか。

11月中旬、バラエティー番組の収録のため
地元・北海道へ。北海道で3本のレギュラー番組を
持つ大泉さんは、俳優として活躍する今も
忙しい合間をぬい北海道へ帰る。

北海道で生まれた大泉さんは、幼い頃から
周囲の人を笑わせることが大好き。
大学の時に演劇ユニット『TEAM NACS』を結成。
大学生の頃から出演するバラエティー番組
『水曜どうでしょう』で人気タレントとなった。

この日は18年続くバラエティー番組
『1×8いこうよ!』の収録。
北海道警察学校の職業体験で"大泉節"を
さく裂させていた。

「捜査会議出ていいですか?」
「この間にも事件は進行しているんですよ!!」

"面白さ"に対して貪欲な大泉さんは
ルールを持っている。

「怒られるギリギリまでふざける!(笑)」 

東京でも活躍している彼が、
なぜそこまで地元にこだわるのか。

「北海道のスタッフと作るゆるい感じの笑い
っていうのは北海道であの人たちとしか作れないから。 
出会った人たちとなるべく別れたくない...。
定期的にお仕事で会って、くだらない話で
笑っているのが一番幸せなんですよね。」

北海道は"一番幸せでいられる場所"
しかしある時、地元にいるだけでは
いけないと気づいた。

「30歳くらいの時に、多分みなさん
そうだと思うけど、本当にこれでいいのかな?
みたいな。勢いでここまで来ているけど...例えば
将来家族を持って養っていけるんだろうか?とかって
不安をみんな抱えると思うんですね。
やっぱり僕もそれはあって。北海道のみんなは
俺が40歳、50歳ってなった時に
応援してくれるのかしら、見てくれるのかしら、
北海道でテレビ出来るのかしらっていう
その不安はある。」

多くの人が抱える"将来への不安"を
大泉さんも抱えていた。
そんな大泉さんは30歳の頃、活動の幅を
より広げるため東京でも仕事をすることを決断。

"俳優"と"タレント"と2つの顔を持ちながら
全力で30代を走り続け、次第に"俳優"としても
注目を浴びるようになった。
2011年公開の映画『探偵はBARにいる』は
自身の代表作となる。シリーズ最新作では
"面白さ"を追求しパンツ一丁で極寒の海へ挑み、
2000人のエキストラが集まる撮影では
全力の土下座で現場を温めた。
映画の舞台挨拶でも、感謝の気持ちを込めて
笑いを誘い観客を笑顔にする。

"出会う人すべてを笑顔にしたい"
大泉洋という俳優はいつもそんなことばかり考えている。

「人に笑って欲しいという思いが子供の頃から
強い人だから"持って生まれた性"としか
言いようがないというか、すべったらどうしようとか
思う訳じゃない?だったらやらなきゃいいじゃん!
って話なんだけど、笑いを取りに行ったっていう姿勢が
大泉にはあったんだっていうのはなぜか残したいな(笑)」

2017年12月 8日

♯79 イラストレーターChocomoo
はじまりは...「昼下がりのセントラルパーク」

イラストレーターのChocomoo。
可愛らしくてポップなその作品で、今国内外からオファーが殺到。今人気のイラストレーターだ。

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長年の友人でもある歌手のAIさんは...
『ペン一本で人を感動させたり楽しませてくれたり
本当に"ハッピーな気持ち"させてくれる』と言う。

彼女は絵に関しては全て独学。
さらに黒いペンしか使っていない。
自身の作品に色を塗らず、絵を見た人が元気になるようにと
前向きなメッセージを作品の中に入れ、可愛らしい作品を生み出していく。

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そんな彼女がイラストレーターの道へ進んだのは、
ニューヨークにあるセントラルパークでの
「ある偶然」がキッカケだった。
その出来事が彼女の人生を大きく変えた。

幼少の頃から犬が好きだったChocomoo。
高校を卒業後、資格を取得しトリマーとして働いていた。
しかし...

『猫アレルギーやったんですよ』

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20代前半、働き始めてすぐに判明したアレルギー。
この影響でトリマーを辞め、アルバイトで日々を過ごしていた。そんな時自分の人生を見つめ直すために向かったのが
ニューヨーク。

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幼い頃からいつでもどこでも描いていたという趣味の絵。
セントラルパークでも描いていたChocomooさんに
"ひとつの奇跡"が起こった。

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『たまたま男の人が通りかかって時に
ショップ持ってるから展示する?って』

通りがかりのショップオーナーが絵を気に入りお店に展示。
翌日には 3000円で買い手がついた。

『これまで体験したことのなかった衝撃。絵で稼げるというよりも絵をもっと描きたいと思わせてもらった。』

これがキッカケとなり、本格的に絵の道へ進むことを決めた。
その後、彼女の描く独特な世界観で世界から注目されるイラストレーターになった。
そして今でも描く喜びを忘れず、絵を見る人にハッピーを伝えるため黒いペン1本でメッセージを発信し続けている。

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イラストレーターとなって10年。
これまでの集大成として開いた個展には
多くの友人たちが駆けつけていた。

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『絵って言葉と一緒で形にした時に見てくれる人に
気持ちが伝わると思う。何気なく見た時に元気に
なるような作品をこれからも作れたらなと思います』

ペン1本で世界が変わったChocomooにとって
黒いペンとは何なのだろうか?

『親友、相棒かな』

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2017年12月 1日

♯78 スケートボード 瀬尻稜
はじまりは...「日本になかった世界の景色」

11月、神戸。
日本で25年ぶりにスケートボード
世界大会が行われた。

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実はこの世界大会をプロデュースしたのは...
瀬尻稜、20歳。
これまでスケートボード界の歴史を次々と
塗り替えてきた現役のプロスケーターだ。

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5歳からスケートボードを始めると、
最年少11歳にして日本の
年間チャンピオンの座に。
次はいよいよ世界の舞台へ。
しかし...

「日本に世界大会は全くなかった」
「世界大会なら海外に行くという選択肢しかなかった」

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回りのサポートを受け、世界に渡った瀬尻。
日本人初のW杯優勝、日本人初の
世界最高峰リーグ出場。快進撃は続いた。

そんな世界での戦いの中で感じたのは、
会場の盛り上がり・海外選手たちと
切磋琢磨できる環境、日本とはひと味違う
"大会の面白さ"だった。
それは「日本になかった世界の景色」
次は日本でも開催したいと
大会プロデュースに乗り出した。

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瀬尻の仕事は、大会を資金面でサポート
してくれるスポンサーへの挨拶回り
選手集め、ルール作り、大会演出など
多岐にわたる。

中でもこだわったのは、パークと呼ばれる
選手達が滑るコースの設計だった。

「パークのコンセプトは"回れるパーク"
選手達がずっと流せるようなパークが作りたい」

大会開催まであと4か月、新潟。
ここにある組み立て式の移動可能な
スケートパークに訪れ
大会で使用できないか検討することに。

すると瀬尻はスケートボードを取り出し、
選手目線として改善点がないか探り始めた。

2つの点を改善することに。
1、レールの長さ
2、バンクの角度

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大会開催まであと3か月、都内。
自らデザインしたパークの構想を具体化していく。
徐々に準備も熱を帯びる。

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大会開催まであと2か月、神戸。
資金面でサポートしてくれる
スポンサーへの挨拶。
大会への熱い思いをまっすぐに伝える。

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"プロデューサー" "選手"
まさに二足のわらじ。
多忙な中、大会成功のため、
ひたむきに取り組んだ瀬尻。

そして迎えた11月上旬。
特設としては日本最大級の舞台に、
ブラジル、カナダ、ロシア、スペイン、
世界中のトップライダーが集結。
さらに日本からも28人の選手達が
華麗な技を見せた。

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まさに大会は大成功。
日本にはなかった
"あの世界の景色"が
そこには広がっていた。

2020年の東京五輪、
その前にスケートボード界に
新たな歴史が作られた。

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