12月19日 手作り天気

「昔の天気予報のことを教えてほしい」と、気象予報士の木原実さんからメールが来た。

木原さんとは、40年来の付き合いである。もともとは(今も)役者さんで、私が「ルンルンあさ6生情報」の司会者だったころ、木原さんは番組でリポーターとしてデビューした。1986年、私がアンカーを務めた夕方のニュース「ライブオン・ネットワーク」で、お天気お兄さんのオーディションに合格。その後、気象予報士となり、現在の「every.」に至るまで、「夕方の顔」だが、天気予報の担当は、実は私の方が、数年“先輩”である。木原さんが、講演で天気予報の歴史を話すことになり、古い話を聞きたくなったらしい。

 

私がアナウンサーになった1980年、日本気象協会は、東京都心の竹橋にあり、建物内に、日本テレビの天気予報スタジオがあった。3畳ほどの小さなスタジオ。隣の副調整室を加えても、4畳半くらい。顔出し用と天気図用の2台のカメラは無人で、アナウンサーが手元のスイッチで切り替える。アナウンサーの横に、六角柱の形をした、大きな糸巻きのような、回る枠があり、天気図や予報の紙をはめ込んで、アナウンサーが一面ずつ回転させて、紙芝居のように喋っていた。天気図は、気象協会の解説員が画用紙にマジックで手書き。晴れ・曇りなどのマークは、その都度マグネットを貼って、まさに手作り天気予報。夕方の「タウン5」、6時55分の「ヤン坊・マー坊天気予報」、夜9時前と10時前の短い天気コーナー、土曜日はそれに加えて、夜11時前にも「レジャー天気」という行楽情報入りの予報があり、週末担当だった私は、7時間くらい気象協会に詰めて、協会の人にレクチャーを受けたり、予報の合間に、たった一人のスタジオ調整技術スタッフ(日テレOBがほとんど)から、昔のテレビ局のこぼれ話を聞いたりしていた。思えばのどかで、豊かな時間だった。

 

日々の天気の顔出し挨拶や、「レジャー天気」の行楽情報は、アナウンサーが考える。

当時、東京駅八重洲口の近くに、各県の観光協会が集まったビルがあり、よく取材に行った。茨城県のアマガイさんという女性が親切に、各県の季節情報を紹介してくれた。

築地市場に初ガツオを買いに行って、スタジオに持ち込んだこともあったなァ…。

何だか中学の文化祭のような仕事ぶりだが、気候も今より穏やかで、猛暑や突然の激しい雨が、こんなにしばしばニュースになることはなかった。

 

人間が加担していることはほぼ間違いない、昨今の気候変動。予測できなかった不明を恥じつつも、あの頃の「手作り天気」のような日々の営みを紡いでいけば、少しは悪化を遅らせるすべになるのではないかしら、と真剣に思う。

2024年は、仕事も暮らしも、ゆったりと丁寧に歩んでゆく年にしたい。