去年2021年は、ドストエフスキー生誕200年であった。
今年2022年は、森鷗外の没後100年だという。
いずれも、ラジオ日本の朗読番組「わたしの図書室」のスタッフから教えられ、
それにちなんで去年の秋、番組でドストエフスキーの短編を3編朗読し、
今年の初めは羽佐間道夫さん朗読の、森鷗外「半日」で、女の台詞を担当した。
読書家には程遠い私は、ドストエフスキーに短編があることすら知らなかった。
長編の方も、中学か高校時代に、父の書棚の「罪と罰」を手に取り、最初の10ページほどで断念、という残念な思い出があるばかり。
しかし、ラジオで朗読した短編は、いずれも馴染みやすく面白かった。
短い1編とあわせて、ドストエフスキーに心酔していた詩人・萩原朔太郎の随筆も紹介したのだが、
朔太郎は「カラマーゾフの兄弟」を二昼夜で読了したという。
これも縁かと思い、「カラマーゾフの兄弟」の文庫本3冊組を買い求め、
できれば二か月半、最長二年半で読み終えようと、ページをめくり出した。
硬いお煎餅みたいなもので、初めはなかなか歯が立たない。
しかし、ある時、サクッと噛めるような瞬間があると、面白くなってくる。
私は、新幹線や飛行機の中で本を読むと、頭のエンジンがかかり、
加速するという妙な癖を持っているのだが、出張も旅もままならない時勢で、
考えた末、ホテルのロビーや、喫茶店をはしごして、勢いをつけた。
二か月半、とはいかなかったが、四か月で読み終えた。
驚いたのはドストエフスキーの饒舌さ。こんなにお喋りな男には、会ったことがない。
厳寒のロシアを舞台に、南米の作家(これも殆ど知らないのだけれど)のような、灼けつく太陽を思わせる情念を込めて、
政治、宗教、金と女…語り尽くさんばかりに語る。
汚濁の中にある清らかさ。日本でいえば江戸末期に生まれたドストエフスキーが、
200年後の今、コロナ禍に翻弄される世界に向かって叫んでいるのか、と思う一節もあった。
生誕何年、没後何年、という節目は、出版社のビジネスチャンスであろうが、
これを機に、読んでいなかった作家に導かれるのは、読み手にとってもチャンスである。
もう1編、ドストさんの長編を覗いて、今年中には森鷗外の難しそうな作品も読んでみたい。
頭脳明晰、博識、謹厳実直、というイメージの鷗外が、どんな顔を見せてくれるか。
遠くに出かけなくても、相手が現存していなくても、知人、友人は作れるものだなと思う。