「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづこころなく 花の散るらむ」
小倉百人一首のかるたを親が買ってくれたのは、私が小学校高学年の頃だったろうか。
上の句の読み始めを聞いて、下の句の字札を取る、という形式が新鮮で、お正月が来ると、2人の弟も一緒に、にぎやかに遊んだ。和歌の雅びにはほど遠い思い出が、いくつもある。
「たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む」
この歌を読み上げた後、母は必ず「コロちゃんの歌」と言った。母が子供の頃、実家で飼っていた猫のコロが、時々いなくなる。すると祖母が、半紙に墨で「たち別れ いなばの山の 峰に生ふる」と書いて、お勝手の隅の、猫の出入り口に垂らしておく。コロちゃんは必ず帰ってきたそうだ。
飼い猫の帰ってくるおまじないとして、昔はポピュラーなものだったらしい。
「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪越さじとは」
この歌の下の句を、母はまともに読んだことがない。いつも「末のマッちゃん、ナミコさんとは~?」と、おどけていた。仲の良い二人を冷やかす、もじり言葉、と、私にも想像はついたけれど、母の知り合いに「マッちゃん」と「ナミコさん」が、本当にいたのかどうかは分からない。
「君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな」
純情な恋の歌も、幼い弟たちにかかると、もう滅茶苦茶。当時、「4の字固め」というプロレスの技が人気だったのだが、弟たちは「君固め」という新たな技(?)を思いついて、「惜しからざりし~」と歌いながら、「長くもがな」と相手の胴を引っ張り、「思い、蹴るかな!」と最後は蹴って倒す、珍妙なプロレスごっこを毎日のようにやっていた。おかげで私もこの歌はすぐに覚えてしまった。何ということであろう…。
10年ほど前、ラジオ日本の「わたしの図書室」で「田辺聖子の小倉百人一首」を朗読する機会があった。古文に全く興味のない男性2人に、田辺聖子が和歌の魅力を話して聞かせる、という構成で、ひょうきんなやり取りに笑っているうちに、古典の教養が自然に身につく、奥深い一冊である。きちんと「百人一首」を勉強せずに、数十年が過ぎてしまっていた私だが、音だけで覚えていた歌に、作者の心情が吹き込まれ、時代背景が肉付けされ、ようやく大人の学びとなった。
きっかけは遊びでも、暗唱できる和歌があるのは嬉しい。「ちはやぶる~」と、百人一首のかるた取り、半世紀ぶりにやってみようか。
