『長い地球の歴史において、小麦や米は我々ホモサピエンスの寵愛を受けることで生存競争を見事に勝ち抜いた。勝者だ。』
地元富山に帰るとこんなことを考えながら、カメラを片手に田んぼの前に立っていることが多い。
私はこの田園風景が好きだ。
・・・いや、好きなのか?
大好きだ!という、耳をすませばの聖司くんのような燃える恋情ではもちろんない。
ガイドブックの紙面を占領する、生涯に一度は観たいと願う絶景の類でもない。
「そこにないと困る景色」これが今のところ、形容する言葉として私の精一杯だ。チープ。アナウンサー3年目、こんなものか。失望。
高校までの古文で「いとをかしって便利だな」と感じていたが、今も使って良いのなら、田んぼはきっと、いとをかし。現代で言うとこれは、「エモい」という言葉が対応するのだろうか。田園風景はそう、エモくていとをかし。
なぜこのような感情になるのか。
私の中での答えは単純明快。田んぼは私のふるさとを、「ふるさとっぽく」しているのだ。
そう。田んぼは「ふるさと力」が高い。
そして自然と人間の所業が融合している。
放っておけば稲が毎年ニョキニョキ生えてきて、水がポコポコ湧いてくるわけではない。
植えている。引っ張ってきている。
そうして整えられた自然は四季のキャンバスになる。
これを書いているのは夏であるが、今はちょうど葉緑体軍団大フィーバー、青々としている。秋には黄金色のさざなみとなり、冬は雪の布団を被る。
いとエモいこの景色を、守ってくれている人がいる。そのことを確かめたくて、私は田んぼに会いにいくのかもしれない。
米の価格のニュースに触れるたび、数百年後も、米が我々の子孫に愛されることで生存競争を勝ち抜いていることを願っている。そして、「いとをかし」「エモい」に続く未来の言葉で、田園風景を愛していってほしいと、祈るばかりである。
