豊後国岡藩の3代目藩主。
藩政の確立と教育の普及に努めた名君。藩政を確立するため家老制度や奉行制度を制定し、検地やキリシタン摘発のため絵踏みなどを行った。
岡城は大分県の山間にある天神山の頂にあり、1185年に築城されたと伝えられる。その城下街の竹田には「魚町」という町があり、内陸部では貴重だった魚が多く並び、豊後国岡藩の城下町の台所として栄えたとされる。初代藩主の中川秀成は竹田に入城する際、京都を意識した街づくりを目指した。その影響で、今も竹田は大分の小京都と言われる。
竹田の海魚
江戸時代、竹田には馬を利用して貴重だった海の魚を運んでいたが、小さな魚だとすぐに痛んでしまうため、大きな魚しか入って来なかった。今でも正月や祝い事に出されるという。
岡藩の殿様は魚の刺身に出来る部分のみを食べていたが、それ以外のいわゆる魚の粗の部分を捨ててしまうのが勿体ないということで、家臣たちが食べていたというのが頭料理の始まりとされる。「アラ」「ハタ」「ニベ」などの巨大な白身魚の頭部分をはじめ、エラや胃袋、腸など内臓部分を余すことなく、塩茹でにして食べる。




滝廉太郎が作曲した「荒城の月」の舞台となったのが岡城。少年時代を竹田で過ごした滝廉太郎が荒れ果てた岡城で遊んだ思い出を歌にしている。