2004年6月6日(日)/55分枠
よみがえれ!−30℃の冷凍庫
〜 雪印牛肉偽装・告発のゆくえ 〜
制作=日本テレビ
2002年1月。雪印による牛肉の偽装表示を内部告発した西宮冷蔵の水谷社長。その後、荷主を失った西宮冷蔵は倒産の危機に襲われる。社長、家族、そして元社員たちのどん底の生活…。カメラは2年以上に渡ってその切迫した状況に密着、再建までの長かった道のりを克明に記録した。"食の安全"が叫ばれるきっかけともなった内部告発。その行方を追いながら企業とはどうあるべきか、水谷社長の生き方を見つめる。


 2004年6月13日(日)/25分枠
妻が見た戦場特派員
〜 橋田信介という生き方 〜
制作=福岡放送
戦火に身を投じ、生と死が交錯する戦場で人々の営みを追いつづけてきた一人のフリージャーナリストが亡くなった。橋田信介さん(61)。イラク・バクダット郊外で乗っていた車が銃撃され、甥の小川巧太郎さんとともに非業の死を遂げたのだ。長年連れ添ってきた橋田さんの妻・幸子(ゆきこ)さんは語る。「夫は結婚してからずっと戦場ばかり歩いてきた。夫も私も覚悟はいつでも出来ているつもりだった」。
しかし突然の夫の死が信じられない。幸子さんは夫の死を確認するため、クウェートへと向かった。その途中、幸子さんの胸に夫とのさまざまな思い出が蘇ってきた……。

橋田さんと幸子さんが初めて出会ったのは、1970年代、ベトナム戦争下のハノイだった。橋田さんは当時ただ一人の日本人特派員として、ベトナムに滞在。空爆にさらされながらベトナムの人々の日常をカメラで追い続けた。当時大学生だった幸子さんはその姿と橋田さんの人柄に惹かれ、結婚を決意した。

以来橋田さんはカンボジア内戦、湾岸戦争、旧ユーゴ、アフガン戦争と戦場を駆け回る。幸子さんはそんな夫を気遣いながらも、「戦争の真実を知りたい。そして自分の目で確かめたい」という夫のジャーナリストとしての生き方に大きな影響を受ける。銃弾や砲弾が飛び交う戦場で、橋田さんは数々の悲劇を目の当たりにしてきた。家を焼き払われ、泣き喚きながら逃げ惑う家族、道端に放置されたままの兵士の死体、傷の痛みに苦しみながら死んでいく子供達。運命のはかなさが身に染む一方で、橋田さんが最も強く印象付けられたのは、死と隣り合わせの日常を懸命に生きようとする人々の姿だった。「死が身近であればあるほど、生きていること、生き続けることの尊さを全身で感じられる」…戦場から帰ってきた橋田さんは幸子さんに話してくれた。

そして幸子さん自身もアフガンに潜入したり、本を書いたりとジャーナリストとして歩き始めた。幸子さんは語る。「夫はジャーナリストとしての大先輩。尊敬できる人…」。
最後の取材場所となったイラク。夫は幸子さんと一人息子の大介さんに「遺書」を残し、バクダットへと旅立っていった。

戦火に追われる人々へのやさしい思い、そのやさしい視線は路傍に咲く花にも注がれた。「夫は戦場に生きる普通の人にとてもやさしい人でした。……そして私たちにもそうでした」。
仕事を愛し、妻を愛し、家族を愛し、そして逝ってしまった夫。悲しみにくれながらも幸子さんは戦争の真実を求めた夫の思いに向き合う。

戦場の最前線で生と死のドラマを見つづけてきた橋田さんが追い求めたものとは?番組は妻の視線で橋田さんの足跡をたどりながら、戦争と平和の意味を問い掛ける。


 2004年6月20日(日)/25分枠
オヤジたちの放課後
〜 元気発信!まちなかプロレス 〜
制作=福島中央テレビ
福島市を拠点に活動する“草レスラー”集団SED。リングに上がるのは、どこにでもいるプロレス好きの親父たちだ。毎日の仕事に追われ、居酒屋でビールを飲んでは出てきたお腹を気にする世代。たいした趣味もなかった彼らが今、リングの上で輝いている。去年は地元の夏祭りや町おこしのイベントで興行を行い、多くの観客を笑わせ、沸かせた。それまで冷ややかだった家族や勤め先も、親父たちのひたむきな姿に心が動き始めた。


 2004年6月27日(日)/55分枠
見過ごされたシグナル
〜 検証・高速道路トラック事故 〜
制作=中京テレビ
大型トラックによる死亡事故が多発している。過労運転の末、居眠りによって引き起こされる事故が多い。愛知県に住む阪口さん夫婦はおととし、最愛の息子・若葉君(享年6)を失った。運転手の過労が原因だった。勤務する運送会社は労働基準監督署から二度にわたって改善勧告を受けていた。番組では、深夜輸送の実態、運送業者や荷主の本音、「暴走」を前提に成り立っている利便性などを見つめ、日本の流通の実態を多角的に検証。ニッポンの今を浮き彫りにする。