放送内容

2016年9月21日 ON AIR

パニック障害 死の恐怖

パニック障害。
日本では100人に3人の割合で発症していると言われており、
症状は呼吸困難、動悸、吐き気、めまい、震えなど。


閉ざされたエレベーターや飛行機、電車、バスなどの乗り物。長時間行われる会議など
自由のきかない場所に身を置く時、恐怖に支配される心の病。
このまま自分は死んでしまうのではと思うほど激しい呼吸困難に襲われる。


そんなパニック障害と闘うプロ野球選手がいた。


小谷野栄一。
現在、オリックス・バファローズでチームの大黒柱として活躍する現役の選手。
2009年には、当時所属していた日本ハムファイターズをリーグ優勝に導いた
立役者の一人で、ゴールデングラブ賞を計3回、打点王にも輝き、
勝負強さには定評があるスター選手。


華々しい経歴の陰で、小谷野はパニック障害と闘い、
信じられない地獄を味わっていた。


"ある日突然、打席に立てなくなる"


2006年6月。
日本ハムファイターズと読売ジャイアンツの2軍の試合中。
小谷野は突然体調がおかしくなった。


激しい動悸と心臓の高鳴り..."自分は死ぬかもしれない..."強烈にそう思った。
ベンチに戻るとスーッと症状が治まり、バッターボックスでの失態が恥ずかしくなった。


あの..."死ぬ"と思った恐怖心は何だったのか?
その日の夜...あのバッターボックスでの恐怖心と人前での失態が頭から離れなかった。


翌日、自分の打席が近づくと...自分は死ぬ!と感じた。
何か悪い病気かもしれない...そう思い検査を重ねたが異常は見つからない。
小谷野の身に起きていた異変の原因...それは脳にあった。


脳内で危険を察知する役目も持つ扁桃体。
パニック障害は、この"扁桃体の誤作動"が原因と言われており
わずかな緊張から恐怖や興奮状態を作り出してしまうと言われている。


身体には特に異常はなく、練習も全く問題なく普通にこなせるのに
試合になると急にあの恐怖が襲ってくる。
小谷野はバッターボックスに立つのが怖くてしかなかった。


7月、チームドクターの勧めで球団職員と心療内科を訪れ、そこで自分の病を知った。
しかし医師の説明に小谷野は"心が弱い..."と言われているような気がした。


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バッターボックスに立つのが怖いなんてチームメイトには言えない。
それは家族に対しても同じだった。


"パニック障害に苦しむ日々"


小谷野は1980年に東京で生まれた。
あの松坂大輔とはリトルリーグでチームメイト。
すでに頭角を現していた松坂に比べ、目立った存在ではなかった小谷野は
常に努力を惜しまない少年だった。


そんな自分が今、打席に立つと死の恐怖で何も出来ない。
医師からもらった薬を飲み始めた。ドーピング検査のことも考え極力弱い薬を選んだ。


バッターボックスで吐くのを防ぐため、先輩の誘いも断り食事を極力控えた。
努めて明るく振る舞う。自分の弱い心が知られることが何より恥ずかしかった。


やがて守備についている時もあの症状が...異常な心臓の高鳴り、呼吸困難。
人前で失態をみせられない。その不安がさらに症状を悪化させる。


小谷野の症状を周りはすぐに理解することはできなかった。
次第に控えに回ることが増えていく。焦りと不安は大きくなるばかり。


代打での出場で準備を促されるが、それもこの時の小谷野には負担となっていた。
もしまたあの発作に襲われたら?そんな不安で体が動かなくなった。


実はコレもパニック障害の症状の一つ"予期不安"。
パニック発作を経験するとそのシチュエーションに強烈な恐怖心を覚えていることが多く、『また発作が起きるかも...』と考えるだけでパニックを起こす。


パニック障害と闘いながら野球を続けていた小谷野は精神的限界に近づいていた。
9月になるとついに小谷野は練習もできなくなった。


部屋に閉じこもる日々。たまに外に出てもグラウンドと同じで動悸が止まらず
自分は死ぬのでは?という恐怖にとらわれた。


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食欲も失せ、なぜか涙が止まらない。自分の野球人生はもう終わりだと思った。
決して裕福と言えない家庭で育った小谷野は、それでも家族のサポートもあり
野球を続け、やっと夢が叶いプロ野球選手になった。


なのに自分が勝手に作り出す病のせいでその夢を失いかけている。
小谷野はそう考えて自分を追い込んでいった。


"親やチームメイトの言葉に救われる"


パニック障害に苦しんでいた小谷野の体調を心配した球団は
一度実家に帰って休養するように薦めた。


ファイターズの2軍施設は千葉県。小谷野の実家までそう遠くはなかった。
野球人生を常に支えてくれた両親。自分が今の状態を知ったらきっとがっかりするだろう。


そう思っていたが、両親は一切野球の話をしなかった。
食卓に並ぶのは昔と変わらぬ母のカレー。小谷野はほっとした。
それまで食事もろくに喉を通らなかったのに、小谷野は夢中でカレーを食べた。


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そして...心の思いを両親に告げた。
恐怖でバッターボックス立てないこと、今年でクビになるのではという不安。


しかし母親は何も聞かず、もしそうなったら家に戻ってきたらいいと言った。
自分の全てを受け入れてくれたのだ。この日、小谷野は久しぶりに熟睡できた。


実家から戻ってチームに合流した小谷野は自分の情けない状況を全て仲間に話した。
仲間は小谷野の状況は前から知っていたという。触れてはいけないと思っていたのだ。
みんなに全てを話したことでかなり心が楽になった。


そしてこんなことを始めた。
それは大学の野球部時代、日々の成長を確認するため義務付けられていた『野球日記』。
今回は野球ではなく日常生活の些細なことで"できたこと"を書き記していった。


こうしてパニック障害と闘う決心をした時、
当時ファイターズの2軍を率いていた現オリックス監督の福良淳一がこう言った。


「調子が悪けりゃタイムかけたっていいし、イケるまで何分かけたっていい。
なんなら何回でも吐きゃいいじゃねえか」


この言葉を受けた小谷野は、
自分は今シーズン限りでクビだろう...それなら思いっきりやってやろう!と開き直れた。


仲間の存在が心強かった。それに吐いたっていい...このチームでよかった。
心からそう思った。


この日から見違える程変わった小谷野。
好成績を残し、チームと契約を更新することができた。


"少年との出会いで完全復活"


その翌年、幼稚園に勤める友人から電話があった。
その内容は、脳腫瘍と闘う園児を励ましてくれないか?というもの。


少年の名は加藤渓くん。
野球が大好きな少年は、会話もできず、ほとんど動くこともできない状態。
長くはない...そういわれていた渓くんは自宅に戻っていた。


会いに行った小谷野はその小さな身体から、病気に真っ向から立ち向かう
大きな勇気を感じた。その姿を見て逆に自身が勇気をもらったという。
このとき小谷野は渓くんと一つの約束をした。それは"ホームランを打つこと"。


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そして一軍に上がった小谷野。
渓くんとの約束を胸に一打席目、なんと顔面にデッドボールを受けた。
しかし、小谷野はその後もグラウンドに立ち続けた。


迎えた延長11回、全身全霊で振り切った打球はレフトスタンドに吸い込まれた。
渓くんとの約束を果たしたホームラン。
それは小谷野完全復活の一撃だった


その後、小谷野はパニック障害を抱えながらもファイターズの主力選手となり、
その勝負強さで打点王にも輝いた。


一方、余命1か月とまで言われていた渓くんは徐々に回復を遂げ、今も元気に生活している。
小谷野は今も病が完治したわけではない。
しかし、この症状を不安やドキドキを楽しめっていう合図だと考えるようになった。


奇跡の復活を果たした小谷野栄一は去年オリックス・バファローズに移籍。
今もパニック障害と闘いながら打席に立ち続けている。

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