放送内容

2018年7月17日 ON AIR

オウム事件 元死刑囚からの手紙

オウム事件で死刑が執行された。
執行されたのは、麻原彰晃こと、松本智津夫元死刑囚ら7人。


その中には、「サリンを作った男」土谷正実もいた。


土谷を取り調べ、その人となりをよく知る元警視庁の大峯氏によると、
土谷は非常に頭脳明晰で、
当時、サリン生成に関する文献が一切日本にはなかったにもかかわらず、
サリンの化学記号を分解し、サリンを生成したほどだという。


高学歴のエリートとして、輝かしい未来を進めたはずの彼が、なぜ道を踏み外したのか?


執行を待つ間、獄中の土谷から送られてきた400通ものの手紙。
そこから、その本心を紐解き...関係者の取材をもとに事件を再現する。


信者を洗脳する恐怖のシステム


23年前の地下鉄サリン事件。
通勤ラッシュの地下鉄でオウム真理教が車内に毒物を撒き散らした。


死者13人、負傷者5800人以上もの被害者を出したのは
大量殺戮を目的に開発された恐怖の化学兵器『サリン』だった。


それが一般市民に向けられた史上最悪の無差別テロ事件。
首謀者は麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚だった。


地下鉄サリン事件にはもう一人の重要な人物がいた。
この男の頭脳がなかったらサリン製造は不可能だったという。


その人物こそ、土谷正実元死刑囚。
この土谷という人物が、後に多くの犠牲者が出ることになる毒物をなぜ作ったのか?


そこには、マインドコントロールという恐怖のシステムが存在したとされる。


オウムにはキリストのイニシエーションと名づけた儀式があった。
麻原が一度口にした水を信者が飲むというこの儀式を信者達は神聖なものだと信じていたが、
実は水の中に幻覚誘発剤が混ぜてあったという。


彼らが瞑想によって得られると信じる神秘的な体験を、薬によって実現させる。
そうして麻原の力を信じさせた。


薬を飲まされた信者は2畳ほどの小部屋に入れられた。
部屋には麻原のマントラが大音量で流れ音量調節は一切出来ない。
ここに1週間ほど閉じ込められ、幻覚と恐怖から信者は教団に逆らう気力を失っていく。


さらに信者が恐れていたのが温熱治療法と称する行為。
47度の風呂に15分入るというもの。


さらに、5分ごとに50度の湯をどんぶり1杯分飲まされた。
これを10回繰り返す。そのまま意識を失う者もいたという。


オウムは信者の脱退や裏切りを、決して許さなかった。
脱走を試みた信者は捕らえられ、様々な拷問が加えられた。
中には麻酔薬と電気ショックで記憶を消されたものもいた。


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こうして閉鎖空間の中で信者たちは、麻原へ絶対服従していったのだ。


土谷元死刑囚の生い立ちとは


『サリン』を作ったのは高学歴のエリートだった土谷正実元死刑囚。
「呪怨」などの作品で知られる作家の大石圭さんは、土谷と幼なじみだった。
大石さんによると、土谷元死刑囚は信じ込みやすい性格で、教団にマインドコントロールされていたと語る。


獄中の土谷元死刑囚と、400通もの手紙のやり取りをしたという大石さん。
土谷元死刑囚の手紙にはこう書かれている。


「私は麻原氏の言葉を信じて化学兵器をつくることを『尊師を守るため、教団を守るための純粋な帰依の実践』と考えていた。」


「私は尊師の証言を待ち続けていたのですが、世間に詐病と受け取られるような麻原氏の挙動に私は失望し少しずつ少しずつ帰依心が薄れていきました。」


マインドコントロールと、そこから醒めて行く現実。土谷はどんな男だったのか?


1965年、土谷は東京郊外のある街で産声を上げた。
裕福な家庭で育ち、土谷は弱い生き物は殺したりしない子どもだったという。
高校へ進むとラグビー部に入り、中心選手として活躍した。


学校の成績も優秀。女の子とも交際した。
1984年、ラグビーの強豪で国立大学でもある筑波大学に入学。


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そして、筑波のラグビー部に入った。
しかしこの後、大きな挫折を味わうことになる。


運命を変えたオウムとの出会い


順風満帆の日々を送っていた土谷だったが、ラグビー部に入って1週間もたたないうちに
重症のケガで退部せざるを得なくなった。
さらに交際していた女性も別の彼氏を作り、土谷のもとを離れていった。


初めて味わう挫折感...そして、どんどんマイナス思考になる。


その頃、世はバブル最盛期。
大学生もバブルに浮かれる時代...派手なパーティーが毎晩のように行われていた。


土谷はそんな時代にどうしてもなじめなかった。
そして、就職する気も起きず、大学院博士課程へ進む。


しかし土谷は、次第に自分の将来について不安を感じるようになっていった。
このまま大学院を卒業してもたいしたことは出来ない気がする...


自分は無意味な存在...自分の居場所がわからない。
そんな頃、土谷の人生は思いもしなかった方向へ向かうことになる。


ある日、友人に誘われるままに、とあるイベント会場に行った土谷。
最初は何をやっているのか分からなかった。
戸惑う土谷を迎えたのは...教団の幹部、村井秀夫だった。


阪大の理学部にいた村井。
未知の科学知識にあふれた彼の話に土谷は引き込まれた。


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そして、村井に誘われる形でオウムの超能力セミナーに参加することになった。


これが土谷とオウムとの初めての出会いだった。


どんどん教団にのめり込んでいく


この時、土谷は宗教団体に入信するという意識は全くなかったという。
そして次の日、超能力セミナーに参加。


座禅を組んだ状態で目を閉じ、慣れてくると体がはねる感覚があると聞いていた。


しばらくすると...土谷もその感覚を味わったという。
それはここでは置いていかれたくないという焦りだったのかもしれない。


セミナーの支部長は「初心者でこの感覚を味わえるのは尊師がエネルギーを
送ってくれたからだ」と言った。


尊師の力で『超能力者』になる第一歩を踏み出したと力強く語る支部長。
まさか自分にそんな力が?半信半疑ながら、とことん追求してみたい。
土谷はそう思った。


すぐに教団からテキストや指導テープが送られてくると、久しぶりにやる気が湧いた。
そして4か月後、教団から出家を薦められた土谷。


オウムの言う出家とは...家族との縁を切り、集団生活をする事だった。
悩んだ末、土谷は家族の心配も考え、出家を断った。


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その頃世間では、週刊誌がオウムの反社会性を指摘し始めていた。
そして、坂本弁護士一家3人の行方不明事件が発生。
疑惑の目が、オウムに注がれ始めていく。


そんな中、土谷は教団が薦める修行プログラムに30万円、
そして説法テープ10万円を、修行を極めたい一心で購入した。


やがて教団への借金はどんどん膨らみ、アルバイトに明け暮れた。
日中は塾の講師を2つかけもち。それが終わると深夜まで警備の仕事。
いくつものアルバイトをこなさなくては返済できなかった。


それでも激しい修行は変わらず続き、睡眠時間はわずか。
食事は粗末なものを一日一食だけ。
土谷は徐々に正常な思考能力を失っていった。


教団が社会に牙をむき始める


ついには、こんな麻原の言葉を真に受けるようになっていった。
それは1997年から2000年にかけて激しいハルマゲドンが起き、
高い世界の経験をした人間しか救われない。という説法だった。


この言葉を信じてしまった土谷。
オウムに入った事を知った友人から心配されても聞く耳を持たなくなった。
こんなことが重なり、次第に土谷は孤立。研究室へ足が向かなくなっていく。


またこの頃、オウムが世間の注目を集めたのが衆議院選挙への集団立候補。
結果は1783票しか票が集まらず惨敗。しかし、麻原はこの失敗を逆手にとった。


こんな得票数はありえない。やはりオウムは国家に弾圧されている、と信者に説いたのだ。
すると閉鎖的に生活していた信者たちは社会を敵視することで、より結束が高まっていった。
そして土谷もこの教団の国家敵視の流れに乗っていった。


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そんな中...麻原の指示でオウム真理教の遠藤誠一が中心となり、
極秘に始めていたものがあった。それは、細菌兵器の開発だった!


1990年4月。国会議事堂前。
車の後ろから開発した細菌兵器を噴射した。


都心で騒ぎを起こし、麻原のハルマゲドン予言に近づくのが狙いだったとされる。
ところが、この細菌には毒性がなく失敗。
この後もオウムの開発する細菌兵器はことごとく失敗を重ねていった。


解けなかったマインドコントロール


そんな頃...土谷は麻原と初めての面会を果たす。
憧れていた麻原を目の当たりにし、より一層オウムにのめりこんでいく土谷。


心配した身内は、ある強硬手段にでる。
土谷をオウムから奪還したのだ!


その後、土谷はとある更正目的の施設に隔離された。
部屋にカギはなく、24時間、関係者が見張りについた。
土谷は個室の中でひたすら瞑想を続けていたという。


しばらくすると、オウムの反撃が始まった。
ある日の朝、土谷の実家の周りに突然びっしりとビラが貼られたのだ!


電柱や壁にも際限なく、そこら中が真っ白になるくらいだった。
大量のビラは駅までの道ぞいにもずっと貼られていた。


さらに、土谷が隔離された施設をオウムの街宣車が取り囲んだ。
朝から晩までボリュームいっぱいにがなりたてたという。


なぜ、これほどまでにオウムは、土谷に執念を燃やしたのか。
それは教団が土谷の化学の知識や能力を必要としたから。
どうしても失うわけにはいかなかった。


土谷は、個室の中で体をガタガタ震わせていたという。
3週間たっても、オウムの抗議はおさまる様子がなかった。


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一方で、土谷は落ち着きを取り戻したようにみえた。
これでマインドコントロールは解けたのか?


その頃、オウムは東京地裁に人身保護を請求するという手に出た。
これにより土谷は裁判所に出頭しなくてはならなくなった。
つまり、隔離施設を一旦出なければならないのだ。


出頭する日の未明。
オウムに見つからないよう境内の裏門から脱出し、用意していた車で
オウムの監視をくぐり抜けた土谷は、寺の関係者と東京へ向かった。


早朝、一行はホテルに入った。
裁判所に出頭するまで、しばらくこの部屋にいる。


そのわずかな間に...なんと土谷は一瞬の隙を突いて逃走したのだ。
マインドコントロールは解けていなかった。


そのまま土谷は、オウム真理教に出家。
サティアンと呼ばれる施設の奥深くへ逃げ込んだ。


麻原から命じられたサリンの生産


出家してから1年...土谷は麻原からあることを命じられる。
その後、土谷には専用の研究室が与えられた。
大学の研究施設でも見たことがない高価な実験器具が揃えられていた。


その任務は...サリンを70t作るというものだった。
第7サティアンに巨大プラントを作り、サリンを大量生産するというのだ。


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オウムは自衛力を持たなければ、国家権力に潰されてしまう。
一年以内に自衛隊程度の防衛力を作らなければならないというのが理由だった。


そして1994年6月。松本サリン事件が発生。
土谷の製造したサリンで8人が死亡。およそ140人が負傷した。


その翌年の元日。
『上九一色村にサリン残留物』と読売新聞がスクープした。


つまり、松本サリン事件はオウムの犯行という疑いが一気に強まったのである。
しかし、オウムへの捜査は思うように進まず。


その間に施設内では...
サリンなどすべての合成物質を処分するよう指示が出され、その作業が進められていた。


そんな時、東京都内の路上で初老の男性が男数人に無理矢理ワゴン車に乗せて連れ去られた。
仮谷さん拉致監禁致死事件。
警視庁の管轄内で起きた、オウムと結びつく事件だった。


ついに警視庁が上九一色村に踏み込んでくる。
オウム幹部はあせりの色を濃くしていた。


そして教団幹部の村井からこんな指令が...場所は第6サティアンの小部屋。
その場にいたのは、林泰男、林郁夫、広瀬健一、横山真人の4人。
地下鉄サリン事件の47時間前だった。


騒ぎを起こして強制捜査の矛先をそらす。
そのために、村井は地下鉄各路線にサリンをまく担当者をそれぞれ決定した。


一方、教団幹部の遠藤は第7サティアンの脇にある研究施設に土谷正実を呼んだ。
この時のサリンの生成は遠藤と中川の二人が担当していた。
しかし、2人の知識と能力ではサリンの完成は遠かったのだ。


化学に強い土谷が2人に手を貸し、サリンの生成は一気に進んでいった。
そして...悪魔の化学兵器は完成した。


中川が給油ポンプでサリン混合液を600ccずつ、11のビニール袋に詰めた。
3月20日未明、土谷は警視庁の強制捜査に備え、サリンなど各種実験のデータを入力した
ディスクを持ち出し仲間とともに上九一色村を脱出。国道1号線を西へ向かった。


同じく3月20日未明、実行犯らは上九一色村を出て、東京へ出発した。


そして実行された悪魔の計画


1995年3月20日。実行犯は地下鉄へ。
サリンの入った袋に傘をつきたて、人々の命を奪った。


死者13人、負傷者5800人。
一般市民を標的にした凶悪この上ない無差別テロ事件となった。


土谷はこの事件で決定的に重要な役割を果たした。
彼がサリンを作らなければこの未曾有の事件は起きなかったからだ。
そして事件発生から1か月。土谷は、第6サティアンで逮捕された。


このとき土谷は麻原の言う、
「国家権力による陰謀」が明らかになると確信していたという。


そして、多くの信者がそうだったように土谷も取り調べで黙秘を続けた。
初公判でも、何と麻原の直弟子を名乗り、6回目の公判まで黙秘を続けた。
長くマインドコントロールが解けなかったと思われた。


しかしそんな土谷の心が揺らぐ出来事があった。
それは地下鉄サリン事件で娘を奪われた母親の言葉だった。


母親「土谷被告のご両親は、もしかしたら私よりももっと辛いのかもしれない、と思ったことがあります。ご両親が慈しみ育ててくれたことを思い出してください。そしてどうか話して頂けないでしょうか?」


土谷はその言葉に頷いた。


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しかし、麻原の証言を聞くまでは、オウム真理教の罪について確定的なことは言えない。
そう思っていた土谷は法廷で麻原を擁護する発言を繰り返した。
しかし10年経っても麻原は沈黙を続けた。


ついに解けたマインドコントロール


これまで崇め続けた麻原に対し不信感を覚え始めた土谷が大きく変わる日がやってきた。
それは、法廷で詐病に逃げる麻原の挙動を記した雑誌記事を読んだときだった。


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そして、手紙にはこう記している。


土谷「麻原は弟子たちの信仰心を利用しながら個人的な野望を満足させるために、反社会的行為に向かわせたと思わざるを得ません。このような苦渋に満ちた経験を経て、私自身の気持ちに素直であり続けたいと思っています。」


最高裁は上告を棄却。土谷の死刑が確定した。


土谷元死刑囚と、400通もの手紙をやり取りした作家・大石圭さんは、
以前こう語ってくれた。


土谷は、麻原氏は自分の人生を滅茶苦茶にした人だと思っているが、
ただ自分もその時信じたんだから、それはもう自分の責任で、その罪は償いたい、
命で償うしかないならそうするだろう、と。


土谷正実元死刑囚は死刑が確定し、執行を待つ間に、幼馴染の大石さんに手紙を書いている。


土谷「一連のオウム事件により、多くの遺族の方達に多くの被害者の方達に非常に大きな苦しみ、非常に大きな悲しみを負わせてしまったことをしっかりと受け止め、私もこのまま
死ぬべきと思っています。」


そして死刑確定から7年後、刑が執行された。

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