1919年10月、
上野駅を出る汽車に3人の男が乗り合わせた。
1人は東京高等師範学校出身の金栗四三。
1912年ストックホルムオリンピックにマラソン代表として出場、日本人初のオリンピック選手となりその後、
2度のオリンピックに出場し後に、「日本マラソン界の父」と呼ばれた男。
もう1人は明治大学の沢田英一。
明治大学の出口林次郎とともに札幌~東京間(約830km)を22日で走破した実績を持つ健脚。
そして野口源三郎。
東京高等師範学校体育課教授で、1924年パリオリンピックに十種競技代表として出場。
3人は鴻巣の小学校で行われる運動会の審判員として招かれていた。
その車中での何気ない会話。同じ陸上選手としての一つの夢が、
世界一の歴史を誇る駅伝「箱根駅伝」創設の発端となったのである。
車中で金栗は、オリンピックで戦える日本の長距離ランナーを数多く育てるためには駅伝競走が最適だと熱弁した。
しかし、金栗は下関~東京間を、同じ東京高等師範学校の秋葉祐之とともに走破し、
乗り合わせた沢田も札幌~東京間をすでに走破していたため、「日本はもう走り尽くしてしまった」との思いもあった。
そこで3人は、何か桁外れのスケールで長距離ランナーを育てられないか?と考えた。
そして出した結論は、「アメリカ大陸横断駅伝」というものだった。
サンフランシスコを出発し→アリゾナの砂漠を越え→ロッキー山脈を越えて→アメリカ中部農村地帯を抜け→ニューヨークへ
ゴールするという壮大な計画。
世界中の人々を驚かせよう、何かどえらいことをやってやろう、3人はそんな気持ちだった。
車中でのまったくの思いつきで始まった「アメリカ大陸横断駅伝」
この構想を実現すべく、3人は、当時、陸上競技に大変理解のあった報知新聞を説得、資金の調達を試みる。
そして、金栗が当時勤務していた東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)に早稲田大学、慶應大学、明治大学、帝国大学など
東京都内の大学・専門学校の代表を集めて選考会実施計画を協議した。
「アメリカ横断駅伝」というアイディアに度肝を抜かれながらも、同じ夢を共有する仲間たちは満場一致で賛成、
意義を唱える者などいなかった。即座に翌年2月、予選としての出場選手選考会を行うこととなった。
しかし当初、東京都内13の大学、専門学校が参加の予定ではあったが、10人の長距離ランナーを揃えられる学校は少なく、
最終的に、「早稲田大学」、「慶應大学」、「明治大学」、「東京高等師範学校」の4校で行われることとなった。
さて、どこを走るか?コース決めは難航した。
それは「アメリカ大陸横断」という最終目的を考えた場合、
険しい山脈地帯や砂漠など厳しい自然状況下を走ることも予想されたためだった。
まずは、東京~水戸間が、候補にあがる。
しかし、平坦すぎるなどの理由から断念。続いて、東京~日光間。がこれは片道コースで、交通の利便性が至極悪いとの理由で消えた。
最後にあがったのが東京~箱根間ルート。
交通の利便性、箱根の山登りの勇壮さ往復コースとなることなどが決め手となった。
「天下の嶮」箱根の山、越すに越されぬ箱根山と歌われるほどの急峻な山道に挑む選手たちの姿が頭に浮かんだのかもしれない。
難航の末この東京~箱根間、東海道を往復するルートに話は決まった。
そしていよいよ、翌年1920年2月14日、有楽町の報知新聞社前から東京高等師範学校(現筑波大学)、
早稲田大学、慶応大学、明治大学の4校がスタートする。
そのスタート地点には金栗四三の姿があった。
審判長として自ら万感の想いでスタートの号砲を鳴らした。
栄光と挫折、襷にかける男たちの熱い情熱に彩られた「箱根駅伝の歴史」はここから始まった。
結局、「アメリカ大陸横断」は達成されなかったが、3人の男の情熱と世界を目指す熱い想いは今も「箱根駅伝」に生き続けている。