東京マラソン2024が3月3日に開催され、約3万7000人のランナーが大都会の真ん中を駆け抜けました。
マラソン男子は、パリ五輪の日本代表の選考がかかったMGCファイナルチャレンジに指定されており、この大会で2時間5分50秒を切って日本選手最上位になればパリ五輪に内定するとあって、最後の3枠目を目指して多くの有力ランナーが挑みました。

五輪2連覇中のエリウド・キプチョゲ(ケニア)ら世界のトップランナーも出場しましたが、五輪の選考がかかった日本勢は、1km 2分57秒〜58秒に設定された第2グループでレースを進めました。
序盤はなかなかペースが安定しないなか、8km過ぎに前回日本選手トップの山下一貴選手(三菱重工、駒澤大学OB)が遅れる波乱がありました。山下選手は日本歴代3位となる2時間5分51秒をもっていますが、「(昨年の)11月中旬ぐらいからハムストリングスや膝裏に張りや痛みがあって、練習ができていなかった」と万全な状態で臨むことができませんでした。

その後、日本選手のトップ集団は、2時間5分50秒を切れるかどうかギリギリのペースで進みました。18km過ぎには日本記録保持者の鈴木健吾選手(富士通、神奈川大学OB)が集団の前方にポジションを上げ、中間点は1時間2分55秒で通過しました。
細かいペースの上げ下げがあり、集団が少しずつ絞られていきます。23km過ぎには東京五輪代表の服部勇馬選手(トヨタ自動車、東洋大学OB)や、有力候補の1人、細谷恭平選手(黒崎播磨、中央学院大学OB)が遅れをとり、27km過ぎには2時間4分台をもつ鈴木選手までもが遅れだしました。



代わってポジションを上げたのが西山雄介選手(トヨタ自動車、駒澤大学OB)でした。実は、西山選手は19km過ぎに転倒するアクシデントに見舞われていました。
「転倒はしたんですけど、ここで気持ちを切らしてしまったら、今までやってきたことが無駄になると思ったので、そこは冷静になってしっかり対処しました。パリ五輪を決めるつもりで来たので、その一心で最後まで走りました」
昨年10月のMGCは46位と惨敗しており、東京マラソンには並々ならぬ思いをもって挑んでいました。一度は浦野雄平選手(富士通、國學院大學OB)に先行を許しましたが、33km過ぎに追いつくと一気に引き離しました。
「30kmで1回きつくなってしまったんですけど、自分のペースで落ち着かせようと思って走っていたら、少しずつ回復し(脚が)動いてきた。浦野選手を抜いた後が大事だなと感じていたので、そこからどれだけ(ペースを)押せるかが勝負。そこを意識して走りました」
日本選手にトップに立ってからは記録との勝負。2時間5分50秒を目指して力を振り絞りました。しかし、35km以降ペースダウン。日本選手トップの9位だったものの、2時間6分31秒とパリ五輪には41秒届かず。フィニッシュ後には両手で顔を覆い、悔し涙を流していました。
「パリしか考えていなくて、このオリンピックが最後の挑戦だと考えていた。今後の目標は全く考えていません」
自己ベストを1分以上しながらも、悔しいレースになってしまいました。



日本選手2位争いは、其田健也選手(JR東日本、駒澤大学OB)と細谷選手のデッドヒートとなりましたが、其田選手がわずかに先着しました。
「パリ五輪に出ることだけを考えて苦しいトレーニングを積んできたので、それが達成できなくて本当に悔しいです」
其田選手は持ち味の粘りを発揮し、東京マラソンで3大会連続の日本選手2位と力を見せましたが、やはり悔しさをあらわにしていました。

今回の東京マラソンで日本代表獲得とはならなかったものの、箱根駅伝でも活躍した駒澤大学のOBが日本選手1位、2位となりました。
彼らを大学時代に指導した駒澤大学の大八木弘明総監督は「この大会で日本選手ワンツーをやってくれたのはうれしかった」と教え子の活躍を称えていました。一方で「本人たちは2時間5分50秒を目指してきたので、切れなかったのはかわいそうだった。切らせたかったですね」と言葉を続け、教え子の心情を慮っていました。

昨年12月の福岡国際マラソン、今年2月の大阪マラソンに続き、今回の東京マラソンでも2時間5分50秒を切った選手は出なかったので、パリ五輪の男子マラソン日本代表の3枠目には、昨年10月のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)で3位に入った大迫傑選手(Nike、早稲田大学OB)が2大会連続(トラックでの出場も合わせると3大会連続)で内定しました。MGC優勝の小山直城選手(Honda、東京農業大学OB)、同2位の赤﨑暁選手(九電工、拓殖大学OB)と共にパリに出場します。いずれも箱根駅伝を走った選手たち。箱根駅伝を経由して世界に挑みます。