プレスリリース

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2004年06月10日

「新しい評価基準を考える会」答申内容と委員からのご意見


2004年6月4日
新しい番組評価基準を考える会

糸井重里
大石 静
楠田枝里子
重延 浩
鈴木敏夫
鈴木嘉一
テリー伊藤
藤平芳紀


 「新しい番組評価基準を考える会」は、日本テレビにおける放送番組の評価のあり方を新たに考える目的で設立された。本会は日本テレビの要請により、取締役会への答申をすべく、6回の会合と、ネットによる意見交換を経て、以下のような答申を取締役会へ行う。

<答申趣旨>

 本会の答申は日本テレビの要請に基づくものであるが、原則、独立機関としての第三者的答申を行うものとする。
 日本テレビの放送の主たる目的が「公正な客観報道」と「人々の心を豊かにする娯楽」であることを確認した上での答申とする。
 番組評価のあり方については、広告主・広告業・放送局の3業態において、既に検討されてきたが、現在まで視聴率以外に客観的基準となる番組評価を生み出せなかったと言える。しかし、視聴者からは、「現状の放送内容が、放送のあるべき姿か」という指摘、広告主からは「現在の視聴率中心の番組評価が十全な価値基準か」という指摘があり、視聴率操作事件を契機に、その指摘がさらに強まった。放送倫理・番組向上機構(BPO)も「過大な視聴率依存を改めるには、番組の質を測定する視聴質調査も併用して総合的に評価すべきだ」と提言した。民放連も新しい番組評価のあり方を検討し、その報告がなされたが、日本テレビは、特に真摯にその対応を行わなければならないと本会は考える。日本テレビは番組審議会に於いて、放送法に基づき、審議会の本来の目的に沿う活動を実践すること、新設されたコンプライアンス委員会が厳正に社内の綱紀を粛正するとの報告があった。番組審議、綱紀粛正についての検討は、番組審議会及びコンプライアンス委員会の管轄とし、本会は「どのような評価基準があれば、日本テレビにとってのあるべき放送を実現出来るか」について審議する会と認識した。
 本会は最初に広告主協会から、ついで日本広告業協会から、さらに視聴率調査会社からの意見聴取を行った。その後日本テレビによる視聴質調査、視聴者対応について報告を受けた。本会の答申と日本テレビの対応を併せて、本会の目的を果たしたものとしたい。

<答申内容>

Ⅰ 視聴率について

   本会は視聴率を価値ある基準と考える。しかし、視聴率を過大評価せず、視聴率の持つ多様性を認識した上で、それを有効に活用すべきであると考える。

 視聴率は視聴者のテレビ視聴における期待の反応であり、視聴者の動向を知る上で貴重な評価基準である。視聴率は、放送の企画・制作・編成・営業にとって重要な基準になっている。また視聴率により、制作者の研鑽が生まれている番組があることも事実である。その価値を一面的に否定すべきではないと考える。

 しかし、視聴率はあくまでも視聴の数量であり、放送内容の質、視聴者の視聴態様、心理、反応を十全に判定する正確な基準にはならない。また視聴率調査は現状のサンプル数に限りがあり、統計学的に許される範囲であるとしても、誤差があるという事実を常に念頭に置くべきである。こうした視聴率の実態を知った上で、新しい「視聴率観」を築くべきである。

 視聴率を「取引上の唯一の評価基準とする」、「制作上の成否の唯一・最高の基準とする」などの評価の傾向が現実にあったことは否定しがたい事実である。こうした放送を取り巻く環境から、「視聴率至上主義」と言われる状況が生まれたともいえる。このような視聴率に対する安易な認識を超えて、放送局も広告主も、視聴率を柔軟に、多様に解釈する新しい時代の視聴率観を持つべきであろう。

 視聴率について、以下の提言を行なう。

 本会は民間放送が事業の成功を重視するという考えは肯定する。しかし、日本テレビが事業の経済的成功を重視したとしても、放送事業者の公共的責任を考えると、放送法に基づき、放送倫理をまもり、多様な番組編成を行うことが前提であると提言しておく。

 視聴率については、「視聴率をどう捉えるか」が重要である。視聴率の目的や価値を視聴者、広告主、放送局が改めて分析し合うことにより、相互に有効な新しい視聴率観がうまれると考える。まず視聴者の共感があり、その共感が高い視聴率につながるという視聴率観を日本テレビに持ってほしい。

 視聴率の目的について、前記のような認識を高めた上で、現状の視聴率調査の改善を求め、視聴率調査会社に、「視聴率の精度をさらに高めること」、「個人視聴率の精度をさらに高めること」「より信頼できる視聴率調査」を求めることはできると考える。ただし、視聴率の精度の向上については、日本テレビの課題と言うより、広告主・広告業・放送局の3業態が視聴率調査会社と協議し、向上を目指す方法を確立すべき課題であると本会は考える。

 複数の視聴率調査機関があることは、視聴率の調査結果を多様に選択することができ、3業態への、そして視聴者へのサービスの向上にはなると考えられるが、視聴率調査会社が公営ではなく民営であることを良しとするとき、その決定は自由競争に委ねるべきことであり、本会が複数視聴率調査会社の設立を指摘する問題ではない。第三者監査機関の設立についても、放送局・広告主・広告業の3業態間の自主的判断と、視聴率調査会社との協議を待つべきもので、現状本会から指摘することではない。

 日本テレビは、視聴率競争だけではない新しい価値ある「視聴率観」を構築して、視聴率至上主義批判を超えてほしい。自ら新しい「視聴率観」を構築し、視聴者に魅力ある番組を提供してほしいと提言する。

II 視聴質について

   視聴率に加えて、視聴質を重視する評価は重要であると本会は考える。

 視聴質については、一般に「放送内容の視聴質」と考えられている。
しかし、民間放送には、「取引上の視聴質」というものがある。「どのように宣伝・広告としての価値になるか」という質のことである。この取引上の価値についても言及する必要がある。「放送内容の視聴質」と「取引上の視聴質」の二種類の視聴質を分別して、答申する。

 1 放送内容の視聴質についての評価基準

   本会は、放送内容の視聴質を、統一的、客観的基準で規定する番組評価基準は無い、と考える。

 「報道」と「娯楽」の視聴質について答申する。

 「報道番組」については、報道の自由を守り、公正なる「報道」を原点とし、何よりも正確な「報道」であることを質の第一義とするべきと考える。それが「報道番組」の視聴質である。
 しかし、報道内容について深刻な反省を行わなければならない事態も起きている現状から鑑みると、日本テレビも信頼をどう回復できるか、再考しなければならない。

 「娯楽」については、そのジャンルはさまざまである。エンターテインメント番組、ドラマ番組、スポーツ番組、情報番組等各種番組があり、それらのジャンルを混合するような番組もある。それぞれについて、その番組を企画し、編成したプロデューサーの能力、出演者の能力、演出の能力、脚本・脚色・構成の能力等には、現状でも価値高いものがある。しかし、一部の番組が「他番組を追随し独創性が欠如していた」「一時的に視聴者の関心をひくだけ」の番組であったことも事実である。

 「娯楽番組」については、独創的で、視聴者の共感を得る魅力的な番組であることを視聴質と考える。それが結果的に高い視聴率に結びつくという「高度な視聴率観」を前提とし、視聴質を考えてほしい。ただし視聴質の統一的基準というものはない。基準があれば、質の良い番組が生まれるというものではない。

 なお一部の視聴者から強い支持を受け、その感覚がDVDや映画に連動し、成功する番組もある。また、番組は必ずしも初回の視聴率で決められるものではなく、視聴者の反応で変化するという視点が必要である。このように視聴者を含めて視聴率を多様に解釈し、新しい視聴質を考えることが重要である。

放送内容の視聴質について、統一的評価基準はないが、以下の提言を行なう。

 日本テレビには、優れた放送番組を放送する場を作ってほしい。
日本テレビは優れた番組を制作した才能のある制作者に、制作・放送の場を提供してほしい。プライムタイムなどで、成功の場を与えるなどの英断があれば、個人的な名誉や報償を越えた制作者への評価になると言える。この評価を契機として、さらなる成功が生まれるという画期的な新機軸の番組評価の考え方になる可能性がある。それは報酬や査定を超えた最高の評価になると本会は考える。


 また日本民間放送連盟賞の受賞作品などが、世に広報され、その番組が、賞の意義を含めて再放送されることは、日本テレビにとって優れた番組評価を再認識することであり、視聴者へのサービスにもなると本会は考える。平均視聴率が競われる中で、至難の編成であるかもしれないが、そのような制作への配慮が、次世代の制作者を育てることになるであろう。それはソフト文化、ソフト産業の発展につながる。

 日本テレビは1999年から、視聴者が番組について意見を述べる「日テレフォーラム」を実施している。本会は、視聴質を視聴者と共に考えるためには、視聴者の意見を重視し、視聴者の潜在的な新感覚やアイデアを、制作者が感知する機会を作り、番組化するような企画開発を行うことを、新しい番組制作の実験として始めることを薦める。

 日本テレビが視聴質の評価基準を求めるなら、すぐれた「報道番組」、「娯楽番組」を創出し、視聴者の共感を呼ぶことこそが、日本テレビの視聴質の番組評価を示すことになると本会は答える。

 2 取引上の視聴質(広告効果)

   本会は、広告主と放送局間の取引において、広告・宣伝価値を有効に評価しあう特定の基準を作ることは可能であると考える。しかし、その評価基準は統一的なものではなく、各放送局、広告主において個別に有効な営業上の評価基準を独創し、有効に活用しあうべきものと考える。

 広告主が求める視聴質とはなにか。広告主は「提供番組」の「視聴質」について、情報を求めていることは事実である。しかし、「スポット」の広告取引においては、広告主は放送内容の視聴質に関わることは無い。「スポット」は視聴率を求める。それ故、この「スポット」広告が、視聴率中心の放送番組を生み出した大きな要因になったともいえる。放送界は取引という側面では、「視聴質」より「視聴率」優先の構造とならざるを得ない。「視聴率は通貨」と言われるGRP(グロス・レーティング・ポイント)優先の構造が生まれた所以である。

 こうした放送界の現実を背景として、広告主の要求には、二つの側面があると言える。「視聴率がほしい」というスポット広告の側面と、「企業にとって有効な広告価値がほしい」という番組提供の側面である。こうしたふたつの要求を同時に満たすことができるかという難しい岐路に、地上波の民間放送は立たされている。この課題は誰が解決できるのか。本会はそれを民間放送の本質的課題と指摘するにとどめる。

 もうひとつの課題、つまり、「放送における広告がどのように有効であったかの実態を知りたい」という広告主の要望について、見解を述べる。

 広告主は、提供した番組が、あるいは商品の情報が、有効に購買者に届いたか、好感を持って迎え入れられたかを知りたいと考えている。それを判定する取引上の番組評価は視聴率調査会社でも既に実践され、広告主、広告業、放送局でも一部行われていたという。しかし、現行の視聴率調査では、サンプル数が十分ではないため、広告主にとっては、自社商品に合致する特定の区分を設け、その個人視聴率を推定することが出来ないという問題がある。

 本会は放送局、広告主、そして広告業も、視聴率調査会社だけに依存することなく、本当に広告主が取引上有効な戦略を構築できる独自の個性的な調査を行うことが、これらの要求に応える有効な策であると考える。各社が多様な方法でそれぞれに必要な調査結果を持ち、その多様な結果を広告主・広告業・放送局の専門家が目的に沿って吟味し、活用すれば良いのである。もし、広告主と放送局が両者で、営業戦略上、共感できる調査ができれば、両者にとっての貴重な営業的評価基準となる。

   新しい時代は新しい営業を生む。視聴者は時代とともに変容する。大量消費時代、大量伝達時代は急速に変化している。それぞれの個の嗜好が拡大され、その新しい動向を広告主は知りたいのではないか。従来の利益追求の方法は必ずしもこれからの利益追求のモデルにはならないのではないか。むしろ利益追及を感じさせない広告から利益が生まれたりするという新しい感覚が生まれている。そうした新感覚を軽視し、大量消費時代、大量伝達時代の感覚だけでこれからの放送番組の評価を進めるとすれば、その評価基準は新しい時代の共感を失うであろう。大衆と個のバランスをどのように捉えるか、それを視聴者と共に、そして広告主と共に考え、近未来の評価基準にするべきと本会は分析する。

 デジタル放送が推進され、インターネットや、携帯電話、メールによる会話がコミュニケーション媒体になり、従来の一方的大量情報伝達にだけ依拠する時代が揺らぎはじめている。多様な視聴者に対する、多様な放送内容も期待される。地上デジタル放送、BS、CS、ケーブル、ブロードバンド、移動体、携帯電話での放送・通信とメディアが拡散する中で、新しい広告展開の可能性を放送局が提示することも望まれている。その効果についは、広告主が強く関心を抱くところであり、日本テレビもその期待にこたえなければならない時代であろう。

 デジタル放送時代の新しい視聴率・視聴質の計測の方法も、それぞれのメディアがどのように視聴されるか、研究をはじめる必要があるだろう。多チャンネル化に加えて、サーバーによる蓄積型の視聴、マルチ編成、携帯でのテレビ視聴、移動体での放送、パソコンでのテレビ視聴など、テレビの視聴形態がしだいに変化し、分散していくだろう。微細な変化であっても広告主にとっては重要な消費者の変化である。広告主はその変化についての情報も求めてくるだろう。そうした要望にも、将来、日本テレビは応えていくべきであろう。

取引上の視聴質について以下の提言を行なう。

 本会は、現在すぐに日本テレビが取引上の番組評価に対応できるものとして、日本テレビのQレート調査をさらに改良することを薦める。このQレート調査は、ランダムサンプリングではないが、サンプル数は十分であると言える。制作者が、視聴者の番組に対する反応を捉えるに足る価値を既に持っている。この調査を取引上のある評価基準にしても良いと考える。その結果を、広告主に正確に報告することを進言する。正確な情報こそが実は広告主の信頼を生む。その結果、両者にとってさらに価値ある番組制作・編成を行なう機縁にするべきと本会は考える。

 インターネット、モバイルを使った未来的視聴率・視聴質の計測の研究を日本テレビが始めることを薦める。統計学上の精緻さは十全とはいえないだろうが、その機能が持つ双方向機能、迅速性は将来、基準のひとつとして価値あるものと思われる。


III 視聴率・視聴質を超えて

   視聴率・視聴質について本会の見解と提言を述べてきたが、放送界の現在・未来を考察するとき、放送局は放送を超えたメディア媒体、ソフト産業であるという時代を迎えていると言える。

 本会は番組の評価基準を考える会ではあるが、未来的放送局のあり方を考え、新しい番組評価基準としたいという意識は押さえがたいので、以下の助言を付帯して答申を結ぶ。

 放送局は過去も現在も未来も、放送というメディアを活かし、文化と産業の両面で社会を有意義な環境にする公共的責任があると考える。日本テレビにおいては、それは「報道」を公正に正確に行なうということであり、「娯楽」で国民を楽しませることであると言える。加えて映画や、劇場や、インターネットやブロードバンドで、新しく他の事業と連動しても良い。日本テレビには、既に、映画への支援、国際的文化事業、音楽会、美術展、エンターテインメント事業での活動があった。そうした活動を含めての放送局の「顔」を視聴者や広告主へアピールすることは、進歩的発想と認識されるであろう。

 放送に加えて、多様なソフト展開を他メディアと連動して行うことから、新しい価値が生まれる。日本テレビには総合ソフト文化、総合ソフト産業、総合情報発信基地としての新しい放送局であってほしいと考える。

 日本テレビが日本の放送界を文化的にも産業的にも向上させる先導者になり、放送を人間社会に於けるさらに価値あるメディアにすることを願い、本会の答申としたい。この答申から生まれる日本テレビの対応案が、この答申と同時に進行し、公開されることを要望する。




委員からのご意見

[糸井重里]

  実感は、不思議なもので。

糸井重里

「新しい番組評価基準を考える会」に出席している間、
会議の内容を自分のあたまで整理しながら、
ああでもないこうでもないと、
他のメンバーの話を聞いているのですが、
ときどき、国会議員ではありませんが、
ひょいと、ぼーっとしているときがあります。

そういうときに、思うのです。
ごく一般的にテレビに親しんでいて、
それなりにテレビが好きで、
ま、けっこうテレビを信用してて、
なおかつ、それなりに信用してなくて、
テレビがもっとよくなればいいなぁ、と、
漠然と思っているような視聴者がいたとしてね、
つまりは、うち実家のかあちゃんのような人が、
ここに参加していたとしたら、何を思うんだろうなぁ、と。

激しく醒めたことを言えば、
視聴率をごまかす人がいて、それが発覚したときに、
日本全国の「うちのかあちゃん」は、
あんまりびっくりしなかったと思うのです。
「あ、そうなんだ。そういうこともあるんだろうな」と、
いわば、「へーえ」と感じて、
騒ぐ人がいなくなったら忘れてしまっているのだろう。
そんなことじゃいけない、と批判するのは容易いけれど、
テレビの「視聴」を支えているのは、
ほとんどがこういう人間なのだと、ぼくは思う。
何を隠そう、これは日常の生活者としての、
ぼく自身の像でもある。

そんなふうな気持ちと、
この会議での熱心で興味深い話し合いとの間に、
何があるのだろうか、と、ぼーっとしたぼくは考えていた。
「新しい番組評価基準を考える会」のミーティングは、
とても知的で、十分に興味深くて、
ぼく自身も、その場の参加者として消極的とは言えない
発言を何度かくりかえしていた覚えがある。
だが、より実感的には、
ぼーっとしているほうのぼく自身や、
「うちのかあちゃんたち」の考えていることが、
歴史の流れというものに見えて仕方がない。

最終的な答申案は、とてもよくできたものだと思う。
そうその通り、と読みながら思ったものだ。
それなのに、読みながらまたぼーっとしてしまう自分を、
ぼくは否定する気になれないでいる。

「もうしわけないとは、こういうことさ」
などと言ってみるけれど、
けっして不まじめなわけではないとは、
胸を張って言えるのが、またもうしわけない。


[大石 静]

  「新しい番組評価基準を考える会」での議論を通じて、私は以下のことを確認した。
○あらゆる表現の「質」は、数値化できるものではない。
 委員の議論は、このことを確認するためにあったと、私は思っている。
○「視聴率」は、ひとつの目安として、興味深い調査ではある。
 個人的には、視聴率の誤差の大きさを知って、愕然とした。
 ビデオリサーチ社には、誤差の範囲をより明確に、より積極的に表示してもらいたいと考える。
 とはいえ、広告主、広告業者、テレビ局が、営業上の取引の目安として、視聴率を用いることは自由だし、番組の創り手も、視聴率を参考にするのは自由である。
 ただ、「質」の評価は、創り手と受け手ひとりひとりの、独自の判断にゆだねるものなのだという、当たり前の認識を、創り手や受け手の多くが見失ったことに、今日の視聴率至上主義が生まれた要因があると感じている。
 新聞や雑誌など他メディアも、視聴率分析より、独自の批評眼で、番組批評を展開して欲しい。
○創り手を大事にしない組織に、未来はない。
 番組は組織が創るものではなく、独立した個人からなるクリエーター集団が創るもの。放送文化の多様性や独創性の確保は、そのことを抜きにしては考えられない。
 視聴率買収事件を起こした人を、養護する気は毛頭ないが、この事件を知った時、組織の論理の前で苦悩した製作者の姿が、私には垣間見えた。
 日本テレビさんには、クリエーターがのびやかに仕事のできる環境を、さらにととのえられるよう、切に望みたい。


[楠田枝里子]

   答申にも記されているように、時代は大きく変わりつつあるのでしょう。
 しかし一方、現実問題として、テレビ番組制作の現場では、今日も視聴率の1%に一喜一憂し、そんな日常の中から、起こってはならない種々の問題が相次いでいることも、また事実。
 こうした制作環境の改善のために、関係各社には考えられることはすべて試みて、信頼の回復に努めてもらいたいと、願っています。
 たとえば、視聴率調査のサンプリング数600は、これで良しとする見方もありますが、とても足りないという声も多い。批判的な意見に対してこそ、今、誠実な対応が望まれるのではないでしょうか。経費がかかることがネックになっているようですが、身を切る覚悟がなければ、信頼を取り戻すことは難しいと思うのです。
 制作サイドが、ひとりでも多くの人に見てもらえる番組作りのために、最大限の努力、工夫をしていることは勿論ですが、単なる"商品"と言われてしまうことには、私自身はいささか抵抗があります。厳しい視聴率競争の中で、志を持って伝えるべきことを伝えようと、多くのスタッフが戦っている・・・。しかし、そんな思いがどれほど正当に評価されているかというと、はなはだ疑問です。
 当考える会において、それぞれのメンバーの考えが、けしてひとつではなく、多種多様な評価軸があることを確認し、それこそが、新しい基準を提示することに?がるのではないか、と感じました。
 出版物に説得力のある書評が存在するように、確立したテレビ評がほしい。さまざまな人が、それぞれの切り口で、番組を評価し、責任を持って(記名で、あるいは顔を出して)、公表する。新たなテレビの捉え方、楽しみ方、味わい方の、更なる扉を開いてくれるのではないでしょうか。業界内だけでなく、一般的な話題ともなるような、魅力的な展開を望みたいものです。従来の、単なる番組紹介や感想のレベルではなく、深い分析力を持った、成熟した番組評論の世界が広がっていくことを、期待しています。それが、制作者への応援歌となり、番組を育てる力となり、21世紀の放送文化をより豊かなものにしてくれるように。


[重延 浩]

   日本テレビは「報道」と「娯楽」を放送目的としている。「報道」や「娯楽」を目的とすることは大切な放送の使命ではあるが、全ての地上波民間放送が、同じ目的に向かっているように見える。放送の多様性を考えるとき、どこかに個性的な放送局があって良いように思う。視聴率を至上の目的としない「個性的報道」や「個性的娯楽」、「国際情報」、「地域情報」、そして「教養」や「教育」をも目的とするような民間放送局は日本ではありえないのだろうか。個性的な放送局が他国にあって日本になぜないのだろうか。作家性のあるドラマ、作家性のあるドキュメンタリー、実験的バラエティ、すぐれた子供番組など、それはそれできわめて面白い番組を制作できる才能を持つ制作者はまだまだいるが、放送にその特異な才能を発揮する場が与えられていない。私は、どうやらもうひとつの民間放送局が必要ではないかと思いはじめている。しかし、こんな発言は放送行政上、どうやら非常識発言らしい。日本では、考えても無駄なことなのだろうか。


[鈴木敏夫]

   テレビ放送が始まって五十年。常に我々の生活と共に進化を続けてきたテレビは今、時代の節目に大きな変革を迫られ、その存在の意義を大きく問い直されている。
 テレビを視聴する世代は五十代以上の高齢者層へとシフトし、若年層のテレビ離れが指摘されている。また、インターネットの利用時間帯が、深夜から午後八時台へと移り、「ゴールデンタイム」と呼ばれる時間帯に若者がテレビを観ていないという、新たな現象も報告された。
 その一方で、この過酷な時代、視聴率獲得競争は加熱の一途を辿りつつある。今や民放では、早朝からゴールデンタイム迄、殆どワイドショー中心の生放送番組が占め、刹那的な視聴率獲得競争が行われている。
 そういった状況下では、テレビ放送の新たな価値基準をどのように設けるべきか。
 番組の質そのものを評価する「視聴質」や、首都圏で600世帯ある視聴率調査世帯の枠を日本国民全体に拡げる「個人視聴率」の設定なども考えられうる。しかし、番組の質とは相対的なものであり、視聴者の嗜好は数値によって推し量れない。ましてや、それを個々人の嗜好にまで拡げるということは、視聴率の拡大解釈に過ぎず、更に大きな均一化を生みかねない。本来情報とは、未だ見ぬ価値観と感動を、送り手側が判断し、発信するものである。テレビ放送が再び、作り手、受け手双方にとって幸福な媒体となる為に、ここでは「ニッポン・テレビ大賞」の設立を提案したい。
 同賞は、娯楽(エンターテインメント)と教養(カルチャー)の二部門から成る。受賞対象は、作品および、作品に対して創作的に寄与したスタッフ(プロデューサー・ディレクター・カメラマン・脚本・構成、等)。
 正賞は、娯楽部門・一億円、教養部門・五千万円。これらは受賞者個人に与えられる賞金ではなく、受賞スタッフが新たな作品を自由に制作する為の制作費とする。副賞は、日本テレビのゴールデンタイム一時間枠とし、受賞作品を全国に放送する。
 選考基準は、普遍性と時代性。娯楽部門・教養部門共に、現代と切り結び、世界と人間に対する深い洞察を織り込んだ作品を選出する。選考委員は、テレビ放送の歴史に深く関わり、制作現場において作品に創作的に寄与した方々に依頼したい。
 受け手にとっては、視聴率とは別の価値基準で評価された作品を目にする大きな機会となり、作り手にとっては、視聴率には左右されない新たな作品を世に出す機会となるはずである。


[鈴木嘉一]

  活字メディアの人間として
鈴木 嘉一
 ある民放キー局は春と秋の番組改編期になると、自局の制作陣と放送担当記者たちとの懇談会を開いている。第一線の作り手と語り合ういい機会と思って参加したものの、かなり失望させられたことがある。ドラマからバラエティ、スポーツ、情報系の番組まで、多くのプロデューサーたちが次々に登壇し、短いスピーチをした。しかし、その内容たるや、「15%でスタートし、2週目には1%上がった」「今回のリニューアルではぜひ2ケタに乗せたい」などと、大半が視聴率の話題に終始したからだ。
 視聴率の高低が広告収入に直結する民放の世界にあって、制作現場の人間がその数字に一喜一憂せざるをえない事情は理解できる。局内の会議なら、こういう発言が飛び交ってもおかしくはないが、視聴率は本質的にはあくまでも業界内の物差しであり、価値に過ぎない。あえて言えば、私たちのような第三者にとっては1%上がろうが下がろうが、どうでもいい話だ。
 私がその場で聞きたかったのは、番組の中身について作り手の確信や思いの深さだった。なぜ自分たちの言葉で、見るに値する番組だということをもっとアピールしないのだろう。「すべては視聴率をとるための手段で、数字こそが唯一絶対の尺度」という視聴率至上主義の重圧はここまできたか、との思いを深くしたものだ。
 断っておくが、この局は日本テレビではない。「視聴率よりほかに神はなし」という〝一神教〟の支配は民放全体で加速し、日本テレビの視聴率不正操作問題の背景には、こうした構造的な要因が横たわっていると思われてならない。
 日本テレビの不祥事をめぐって、「放送倫理・番組向上機構(BPO)」も同様の問題意識を抱き、昨年12月、「放送と人権等権利に関する委員会」「放送と青少年に関する委員会」「放送番組委員会」の3委員長による5項目の提言をまとめた。その中には「新聞や雑誌は視聴率至上主義の増幅に加担しないでほしい」という項目もあった。
 また、日本テレビの「新しい番組評価基準を考える会」の会合でも、複数のメンバーから「新聞や雑誌は事あるごとに、民放の視聴率一辺倒を批判する。その一方では、視聴率ランキングをそのまま載せるなど、視聴率競争をあおっているのではないか」「もっと番組批評を充実させるべきだ。視聴率とは別の評価軸を署名記事で打ち出してほしい」という厳しい意見や注文が相次いだ。
 視聴率の結果にかかわらず、自分自身はその番組をどのように見て、何を感じ、どう触発されたのか。高い視聴率の番組が視聴者の夢やあこがれ、潜在的な欲望、生活感覚といった「大衆の無意識」の反映として一種の社会現象を引き起こす場合には、それをどう分析し、読み解くか――。活字メディアはテレビに対しそうした批評性を手放すな、ということだろう。
 個人的には、視聴率の問題と向かい合ったこの半年あまり、放送を担当する新聞記者としてのあり方も問われたように思う。


[テリー伊藤]

   私は視聴率というものを肯定的にとらえている。その立場は、この会で議論を重ねた後も変わらない。
 テレビを制作する側の人間にとって、視聴率は、社会との大事な接点だ。大学の研究者が、どんなに一生懸命に研究をしても、研究室にこもりっきりで社会との接点を持たなければ、その研究は社会から離れたものになってしまう。それと同じで、テレビ制作者は視聴率という窓がなければ、外の社会が見えなくなってしまうのだ。
 ただ、テレビ制作者や広告主は、新しい時代の視聴率を模索しなければいけないこともたしかだ。視聴率を追求するあまりに起こってきた諸問題を解決するのが21世紀のテレビ関係者の大事な仕事だ。
 自動車でいえば、20世紀の自動車メーカーは速く走る車をつくることに全力を注いできた。しかし、21世紀はそれを見直して、省エネや地球環境に配慮した「プリウス」のようなハイブリッドカーを世に送り出した。そうすることによって、社会的責任を果たすと同時に「地球にやさしい自動車をつくるメーカー」としてブランドイメージを高めている。
 テレビ局や広告主にも同じことが言えるだろう。視聴率に向かって全力を注いできた姿勢を見直して、「番組の質」を考えた番組作りをしていくことが、社会的責任を果たすことであり、それがテレビ局や広告主の企業イメージを高めることにつながるのではないか。
 たとえば、日本テレビは広告主と協力して、月に一度でもいいから、「ノー視聴率デー」を実施してみたらどうか。「われわれ日本テレビは、本日の番組については一切、視聴率を問いません。調査もしません。今日一日は、番組の質だけを追求して制作した番組を放送します」
 そう宣言して、文字通りに質を追及した番組を考え、作り、放送し、世論の評価を待つ。本会の答申にある通り、「視聴質」を評価する絶対的な基準はないものの、少なくとも、こうした放送を試みたテレビ局と、それをサポートした広告主が「テレビの社会的責任」を真剣に考えた放送事業をしているという評価は、まちがいなく得られるはずだ。
 それでは、「質を追求した番組」というのが具体的にどういう番組なのか。それはかならずしも格調の高い番組であるとはかぎらない。もちろん中には、地球環境や教育や社会問題についての番組もあるかもしれないが、音楽やスポーツ、そして、テレビの原点のひとつである「お笑い」が、それぞれに「数よりも質」を追求した番組をしていくのだ。お笑い番組には、見ている人たちを「こんなにバカバカしいテレビを見たおかげで、きょう一日が救われたよ」という気分にさせる力もある。それはお笑いの質を追求すればするほど現出するものなのだ。
 テレビ制作者は、これからテレビの世界で活躍する新しい世代の人たちのためにも、「視聴率」と「質」について新しい価値観と誇りを提示していくべきだと考えている。


[藤平芳紀]

   ビデオリサーチ社への視聴率調査サンプル不正操作事件を機に、日本テレビはもとより、業界各団体は、それぞれの場で「視聴の質」についての検討会を立ち上げた。しかし現状、各検討会ともこの問題に対し、明確な結論を出すに至っていない。そうした中にあって、当「考える会」が一応の結論を出し、取締役会に答申書を提出し得たのは、第1に実務家をメンバーにした人選の妙であり、第2は参加者が視聴率悪玉論を俎上に、低俗化や青少年への悪影響など、いわゆる「テレビ文化論」の論議に終始しなかったからである。
 申すまでもなくテレビは大量伝達メディアであり、「視聴の質」として論ずべきは広告メディアとしてのテレビの「到達の質」であり、「視聴者の質」である。そのため当会では、主協、業協から関係者を招聘し、意見を聞いた。また2名の委員が調査会社に出向き、関連情報の収集を行ったが、さしたる成果は得られなかった。こうした時間的徒労により、肝心の「質」についての論議が十分尽くせずタイム・アップとなったことは痛恨の極みである。畢竟、日本テレビがこれまで行ってきた「Qレート調査」や「日テレ・フォーラム」についても、「改善」を提案するに止まるなど、審議未了となった事項も少なくない。
 また「新しい番組評価基準を考える」のであれば、わが国におけるこれまでの「質の調査」の見直し、デジタル時代におけるメディア環境の変化とそれに伴う視聴態様の変容によってもたらされる視聴率調査のあるべき姿の検討もすべきであったろう。さらにいえば、海外における「質の調査」の研究と日本的利用の可能性などの調査・研究も必要ではなかったか? なかんずく抜本的検討というのであれば、スイス・テレコントロール社製の「Sophie Version」やR.パーシー社のVOXBOXなど、測定機による「質の調査」も視野に入れた論議も必要であったろう。また第三者による監視機関の設立も重要課題であり、こうした情報を海外のリサーチャーから聞く機会も持つべきではなかったろうか?
 先の事件の背景に「視聴率偏重」の体質がなかったかといえば、ウソになるだろう。
 しかし、それは視聴率データの限界と効用に対する「知識の欠如」が底辺にあったことは無視できまい。視聴率についての正しい使い方を身につけることによって、「視聴率依存」体質は改善されるはずであり、社内にそうした勉強会の発足を強く求める次第である。