一休宗純
(1394〜1481)
京都の生まれで後小松天皇の落胤とされており、幼名は千菊丸。6歳で京都の安国寺の像外鑑公に入門、周建と名付けられる。早くから詩才にすぐれ、15歳のとき作った漢詩「春衣宿花」は洛中の評判となり賞賛された。応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり、名を宗純と改める。応仁の乱後の文明6年(1474年)に後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられ、寺には住まなかったが、再興に尽力した。天皇をはじめ、民衆からも慕われるが、88歳で酬恩庵にて没した。
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