西太后 (719〜756) 皇妃
下級官吏の貧しい家に育ったが、通りかかった咸豊帝に、容姿が美しいことからみそめられ、宮中に入る。その後も寵愛され咸豊帝の妃の一人になるが、次第に帝を取り込み様々な策略を企て発言力を強める。
咸豊帝が崩御した後、西太后は咸豊帝との間に生まれた皇太子載淳を同治帝として即位させ、自らも東太后と共に垂簾聴政の名の下、咸豊帝の弟である恭親王奕言斤(エキキン)を取り込み、事実上の摂政として発言力を強めた。1881年東太后が崩御、一説では西太后によって毒殺させられたという見方もある。
1900年、義和団の乱により日本を中心とした八ヶ国軍の猛攻撃を受け北京が陥落、自らは側近を伴い西安へ逃れる。1908年光緒帝が崩御した翌日、「ラストエンペラー」溥儀を宣統帝として擁立し、西太后も74歳で崩御。 中国史上、権力者として50年もの長期にわたり女性が君臨した例はなかった。

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