タマラ・ド・レンピッカ 年表
| 1898 | ワルシャワの裕福な家庭で誕生(1897年あるいは1895年にモスクワでという説もある)。5歳の頃、父親が行方不明になる。 |
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| 1911 | 祖母に連れられてイタリア旅行(一説では1907年)。ルネサンス絵画とバロック絵画に出会う。 |
| 1912 | スイスのローザンヌで学校に通いはじめる(一説では1908年)。この頃キュビスム絵画に出会う。 |
| 1916 | サンクトペテルスブルクで弁護士タデウシュ・ド・レンピッキ伯爵と結婚。 |
| 1917 | ロシアで10月革命勃発。夫は革命政府により投獄される。タマラはフィンランドに亡命、数ヵ月後に夫も出獄に成功。夫妻は1918年半ばにパリに亡命。 |
| 1919 - 1923 |
サンクトペテルスブルクで始めていた絵画修行を再開。モーリス・ドニ、アンドレ・ロートに師事し、展覧会に出品する際は「レンピッキ」と男名で作品に署名する。 |
| 1925 | ミラノのボッテーガ・ディ・ポエシア画廊で最初の個展。 |
| 1926 | 肖像画の注文に応じるためにミラノを再訪。有名な詩人で政治家のガブリエーレ・ダヌンツィオが彼女に肖像画を注文するが、未完に終わる。 |
| 1927 | ボルドー国際美術展で《ピンクの服を着たキゼット》が金メダルをとり、ナント美術館が購入。美術館入りした最初の作品となる。 |
| 1928 | タデウシュと離婚。 |
| 1929 | パリのメシャン通り7番地にアトリエを購入。設計者は有名な近代建築家のマレ=ステヴァンス。ルーファス・ブッシュの招待で、9月から翌年の1月までニューヨークに滞在する。 |
| 1934 | ラウル・クフナー男爵と再婚。 |
| 1935 | この年以来、重度の鬱病の治療のために、しばしばスイスの病院に滞在。《修道院長》のような宗教的な作品を制作する。 |
| 1939 | ナチの脅威を逃れるために、夫とともにアメリカに亡命。3年間ハリウッドで暮らす。 |
| 1943 | この頃ニューヨークに転居。 |
| 1949 | 大戦終了後、初めての外国旅行。以後、アメリカ国内、フランス、イタリア、メキシコ、キューバを旅する。 |
| 1953 | この頃抽象画にチャレンジする。その後も断続的に抽象画を試みる。 |
| 1959 | ふたたび絵のスタイルを変える。パレットナイフを駆使して、厚塗りの画風となる。 |
| 1961 | 夫のクフナー男爵が死去。 |
| 1963 | 一人娘キゼットの住むテキサス州ヒューストンに転居。この頃からメキシコのクエルナバカに定期的に長期滞在するようになる。 |
| 1972 | 画商アラン・ブロンデルがパリのリュクサンブール画廊でレンピッカの回顧展を開催。展覧会は大成功を収め、レンピッカ再評価のきっかけとなる。 |
| 1980 | 3月18日メキシコのクエルナバカで死去。彼女の遺志に従い遺灰は活火山ポポカテペトル山の火口付近に撒かれた。 |


