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真田丸 の科学
第1321回 2016年4月10日


 今年、熱い注目を浴びている戦国武将「真田幸村」。あの徳川家康に「死」を覚悟させ、『日本一の兵』と讃えられた最強の武将・幸村が、歴史に名を残したきっかけこそ、自身が築いた砦「真田丸」での戦い。およそ4万人の徳川軍が攻撃しても、全く歯が立たなかったという伝説の砦です。今回は、そんな「真田丸」を科学で徹底解明します!

①400年の時を経て明らかになった「真田丸」の跡

 城郭考古学の第一人者、千田嘉博先生に、今年明らかになった真田丸の跡地を案内して頂きます。真田丸があったという場所は、大阪城の天守から南へおよそ2kmの地点。400年の時が過ぎた今、そこは学校になっていて、真田丸の面影はありません。千田先生によると、この場所に真田丸があったことを示す貴重な絵図があるといいます。絵図に描かれた地形が、今も残っているというんです。
 真田丸の痕跡を探しに現場へ!まずは、真田丸の東側。絵図には、道沿いに寺が描かれています。400年以上前の寺が、平成の今も、当時のまま残っていました。さらに、真田丸の北側。「堀」があった場所に行ってみます。現在は、学校のグラウンドの裏にあたりますが、そこには一本の道と大きな段差が。そのまま、先を進んでいくと、当時、堀の下だった場所は、道路になっていましたが、北に曲がる形は今でも同じでした。真田丸は、確かに、この場所に存在していたんです。その大きさは、およそ400m四方という巨大な砦!
 しかし、一体なぜ巨大な真田丸を、この場所に作ったのでしょうか?当時、真田丸は、大坂城の最も南側にある堀の、さらに外側に作られました。そこに現れたのが、徳川軍の主力およそ4万の軍勢。千田先生によると「もし、徳川の大軍が攻めてくるとすれば、南から攻めてくる。それに対して、守りを固めるというつもりで作ったのが、真田丸だった」とのこと。現在の地形を見てみても、大阪城の南側だけ、なだらかな台地が続き、その両側は、地面が低く、当時は川や湿地帯だったといいます。つまり、大坂城の南側は、大軍を移動させやすいため、敵から攻められやすい。いわばウイークポイント!また、千田先生によると、実は、あの寺も南側の弱点を守るためのものだったそうです。寺は塀に囲まれて、境内も広いので、戦の時は城の代わりになるんだそうです。大坂城を建てた秀吉は、大坂城の南側に寺をたくさん建てることで、いざという時の備えにしていたそうです。

所さんのポイント
ポイント1
真田丸は、大坂城唯一の弱点を守るとっても重要な砦だったのだ!


②空堀の防御力

 真田丸を囲っていたという、水の無い「空堀」。私たちが普段目にしている堀といえば、水がある「水堀」です。水が無くて、敵の侵入を防ぐことなんてできるのでしょうか?検証のため訪れたのは、真田丸とほぼ同じ規模の「空堀」が残る小田原城跡。小田原市役所の土屋さんに、案内していただきます。戦国時代から現存する空堀としては、日本最大級という貴重なこちらの空堀は高さ、およそ10m。真田丸の空堀と、ほぼ同じ大きさです。傾斜を測ってみると、傾斜は50度以上!雪山を滑るスキーのアルペン競技より急な、超急斜面!当時は、この急な空掘の上に、柵などを築き、守る側の兵は下から登ってくる敵を撃退したといいます。でも、本当に堀を突破することはできないのでしょうか?
 そこで!空堀の上にいた守りの兵として、スタッフがボールを弓や鉄砲に見立てて攻撃します。裕太さんはボールを避けつつ、頂上まで登りきれるのか?結果は、急な斜面でスピードがダウン。スピードが落ちた分、上からボールを当て放題。ボールが頭にあたり、裕太さん討ち死にということで実験は終了。空堀は、水が無くても、敵の侵入を防ぐのにとっても有効なものだったんです。

所さんのポイント
ポイント2
水が入っていなけど、空堀はすごかったのだ!


③真田丸の戦術

 大坂冬の陣でのコ川軍の配置図によると、真田丸は、大坂城の城下町を含む、一番外側の部分、これを「惣構え」と言いますが、惣構えのさらに外側の南に作られました。
 普通、南を守るなら、惣構えの真ん中の内側に作るのが定石。しかし、信繁は地形的に守りやすい、惣構えの外側の東の端に作ったんです。東の端にあるんですから、徳川軍は真田丸を無視して、大坂城を攻撃すればよかったのに、真田丸をついつい攻めてしまったんです。
 なぜ、コ川軍はついつい攻めてしまったのか?心理学の専門家に伺うと「注意の焦点化が起こった」とのこと。徳川軍が、ついつい攻めてしまった理由は、目立つ真田丸に気を取られ、周囲の状況が見えなくなってしまったからだというのです。
 番組では、一般の方にある映像を見てもらい、どこか変わったことに気づくか?という実験を行いました。映像は、服の色が突然変わるという、普通に考えればすぐ気づく内容です。しかし、「会話に注意してください」とだけ伝えると、映像の中の会話だけ注意が向き、服の変化に気がつかない人が続出。結果、15人中7人が、服の変化に全く気が付かなかったんです。信繁は、真田丸をわざと目立たせることで、徳川軍はついつい攻めてしまったと考えられるんです!

所さんのポイント
ポイント3
真田信繁は、注意の焦点化を使った巧みな心理戦術で、徳川軍をひきつけ圧倒したのだ!


④真田丸の超兵器

 真田軍が使っていたという武器を持つ、古式銃の研究家の堺鉄砲研究会の澤田さんを訪ねました。澤田さんが見せてくれたのは、「士筒」という火縄銃。徳川軍が使っていた火縄銃と比べて短いですが、銃身が太く、重い銃で、威力が大きいのが特徴です。コ川とは違う銃を使えた理由は、真田軍は砦を守る側で、移動する必要がなかったから。逆に、徳川軍は、大坂城を攻めるため移動する必要があり、持ち運びやすい銃を使ったのだといいます。では、どれだけ威力が違ったのか?実験です。
 集まっていただいたのは、火縄銃の専門家・堺鉄砲研究会のみなさん。澤田さんが提供してくれた、戦国時代に使われていたという鉄製の甲冑を、およそ20m離れた距離から実際に撃って、威力の違いを検証します。それぞれ使う弾は、真田軍は、銃身が太い分、大きい弾を使っていたといいます。まずは、比較のために、徳川軍の火縄銃の威力を検証。弾は甲冑を大きく凹ませたものの、貫通はしていませんでした。
 続いて、真田軍の「士筒」で撃ってみます。すると甲冑を貫通、大きな穴が開いてしまいました!真田軍の鉄砲は、鉄の甲冑も貫通するほどの強力な殺傷力を持っていたのです。
 さらに!当時の戦いの様子を描いた「大坂冬の陣図屏風」には、恐るべき真田軍のスーパー兵器が描かれていました。徳川軍に鉄砲で攻撃する兵士の中に、3人がかりで撃つ兵士の姿がこの兵士たちが使っていたのは、「狭間筒」という城を守るときに使う鉄砲。澤田さんによると、20発の弾を同時に撃てる散弾(さんだん)銃(じゅう)のようなもので、一度に5、6人の兵を倒したといいます。全長165cm、重さ30kgもある巨大な銃で、バズーカのように前半分を支えて撃ちます。今回特別に、空砲で撃ってもらうと、とんでもない破壊力があったことが想像できます。

所さんのポイント
ポイント4
真田軍が圧勝した、もう1つの理由。それは、使用した武器にも差があったからだったのだ!




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