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よみもの

奥の深いミュシャの世界にようこそ!
2019/07/16
最初の展示室にはミュシャが集めていた日本の壺やモラヴィアの民芸品などが並びます。
長い準備期間を経て7月13日、「みんなのミュシャ」が開幕しました! さっそく、展覧会の様子をお届けしましょう。会場に入るとそこには華やかなアール・ヌーヴォーのポスターが、と思いきや、アンティークな品々が並んでいます。これらは後のミュシャ作品に影響を与えた彼の“原点”です。彼のルーツであるチェコや、当時流行していた日本を始めとする東洋の美術工芸品が展示されています。その次の展示室には《ジスモンダ》のポスターでブレイクする前のミュシャの作品が並びます。このころ彼は主に挿絵などで生計を立てていました。しかし真面目なミュシャはどんな仕事でも手を抜かず、納期もきちんと守るのでパリの出版社や編集者の間では頼りにされていました。
《モナコ・モンテカルロ》のポスター。女性の頭を取り囲む放射状に並んだ花が車輪を、左下から右上に向かって伸びる茎が線路を思わせます。
さて、いよいよミュシャのポスターが並ぶコーナーです。この展覧会を監修したミュシャ財団のキュレーター、佐藤智子さんは、ミュシャのスタイルができあがっていく過程の重要な作品として《黄道十二宮》をあげています。ミュシャのアイコンともいえる渦を巻く髪の毛だけでなく、アクセサリーには祖国チェコとの関連が深いビザンチンのモチーフをさりげなく取り入れています。もう一点、佐藤さんが注目している作品が《モナコ・モンテカルロ》のポスターです。これはパリとモンテカルロをつなぐ鉄道の広告なのですが、機関車も駅も描かれていません。そのかわりに並行に長く伸びた2本の茎が線路を、放射状に配された花が車輪を想像させます。華やかなモチーフで旅の高揚感を演出する、ミュシャの手腕はさすがです。
右からジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、両者のジョイントのコンサートのポスター。50年前のものとは思えないかっこよさです。
展覧会にはさらに、ミュシャの影響を受けたさまざまなグラフィックやマンガが並びます。1960〜70年代のレコードジャケットやツアーのポスターなどは音声ガイドでGLIM SPANKYが演奏する展覧会イメージソング「TV Show」を聞きながら見るとぐっと気分が出るはず。いかにもこの時代っぽい、サイケデリックなサウンドなのです。ここではジミ・ヘンドリックスもピンク・フロイドも、はてはローリング・ストーンズまでみんなミュシャだったんだ! と意外な発見があります。日本のマンガでは水野英子、山岸凉子、天野喜孝らの作品の髪の毛の表現や背景の花や星、背景の円から人物をはみ出させる「Q型方式」と呼ばれるデザインなどにミュシャからの影響が伺えます。
天野喜孝さんの作品には嵐神の羽が形作る円の中に勇者が立つなど、さまざまな形でミュシャの「Q型方式」が引用されています。
オフィシャルサポーターの山田五郎さんは「印刷だとわかりにくい、金や銀のインクの輝きを実物で確かめてください」と教えてくれました。佐藤さんは「ミュシャはあまりに有名なので作品も資料も出尽くしたと思われていますが、ミュシャ財団には彼が書いた芸術論なども含めて膨大な資料があり、その50%しか研究が進んでいません。今後、残りの50%の調査が進めばこれまでとは違う解釈が出てくるかもしれません」と言います。ミュシャの孫であり、ミュシャ財団理事長のジョン・ミュシャさんは「祖父は芸術を通じて国や人の間に橋をかけようとしていました」と語りました。会場にはミュシャのスケッチやポーズの参考にした写真なども展示され、彼の技量の高さを確かめられます。レアな資料も多く、かなり密度の濃い展示です。ミュシャ作品の奥の深さに、そして時代を超えて影響を及ぼす幅の広さに改めて驚かされます。
ミュシャがめざした「みんなの」芸術
2019/07/05
ミュシャがデザインしたチェコスロバキアの切手。左下に小さくミュシャの名が入っています。
「官展(サロン)を訪れる限られた人々のためでなく、民衆のための芸術に奉仕できることを嬉しく思う。……私が目指すのは、民衆の近くにある芸術である」。ミュシャはこう言ってポスターや広告、パッケージなど、一般の人々の目に多く触れるアートに邁進しました。彼がデザインしたインテリアに使われる装飾パネルは、ものによっては千枚単位で印刷され、価格も千円前後と手頃なもの。大金持ちでなくても買える値段です。チェコに戻ってからは紙幣や切手のデザインも手がけましたが、それらの仕事はほとんど無償で引き受けていました。まさに「みんなの」芸術をめざしていたのです。
パリのアール・ヌーヴォー建築の一つ「ジュール・ラヴィロット(ラップ街29番地の館)」。今もアパルトマンとして使われています。
ミュシャのこのような思想の背景には、時代のうねりがありました。産業革命による機械化や大量生産が進む中、「人々の生活に美を」と考えたイギリスの工芸家、ウイリアム・モリスが植物モチーフの家具や壁紙を制作、「アーツ・アンド・クラフツ運動」へとつながります。同様の動きがフランスではアール・ヌーヴォー、ドイツやオランダではユーゲント・シュティールと呼ばれて、ヨーロッパじゅうに広がりました。またミュシャらアール・ヌーヴォーの芸術家たちは、医師・弁護士・文筆家のアンリ・カザリスが芸術の普及をめざして設立した「民衆芸術協会」に参加していました。彼らは「芸術は万人のためのものである」というカザリスの思想に共鳴していたのです。
チェコ時代のポスター「南西モラヴィア挙国一致宝クジ」(部分、プラハ、ミュシャ美術館の展示)。勉強に必要なノートや鉛筆も手に入らない、そんな状況に抗議するかのような表情です。
このような動きの中、パリで成功を収めたミュシャでしたが、商業的な仕事に飽き足らず、平和な世界の建設に向けて自分ができることはないだろうか、と考えるようになったようです。そんな折に舞い込んできたのが、1900年のパリ万博の「ボスニア・ヘルツェゴビナ館」の壁画の仕事でした。このパリ万博で彼は人類の歴史と叡智を讃えるモニュメント「人類館」を構想します。この計画はエッフェル塔の一部を取り壊し、ドーム状の建造物を造るという壮大なもの。実現はしませんでしたが、ミュシャが世界平和という高い理想をめざしていたことがわかります。
チェコのバレエ・パントマイム「ヒヤシンス姫」のポスター(プラハ、ミュシャ美術館の展示)。背景の装飾はパリ時代より控えめになり、人物もより写実的です。
ミュシャは1910年にチェコに戻り、スラヴ民族の歴史を描いた「スラヴ叙事詩」や、第2回の「よみもの」で紹介した「市民会館」の壁画に取り組みます。それらと並行して、ポスターの仕事も続けていました。が、チェコ時代のポスターはパリ時代のものとは雰囲気が違います。男性も女性もスラヴ風の衣服を身につけ、背景の装飾も控えめです。パリ時代のうっとりとした夢みるようなまなざしは影を潜め、登場人物たちはしっかりとした視線で対象を見すえています。1918年にオーストリア・ハンガリー帝国から独立したばかりの祖国をアートによって後押ししたい。チェコ時代の彼はそんな熱い信念から活動していたのです。
オフィシャルサポーターが決まりました!
2019/06/21
山田五郎さん(左)と千葉雄大さん(右)。服装は「タキシードで」とだけ指定されていたのですが、偶然二人ともブリティッシュタイプになりました。「気が合うんです」と山田さん。
公式HPでもお知らせしましたが、6月4日(火)に「みんなのミュシャ」オフィシャルサポーターが決定、記者会見がありました。俳優の千葉雄大さんと、西洋美術の深くて広い知識でおなじみの山田五郎さんです!千葉さんはNHK連続テレビ小説「わろてんか」、映画「スマホを落としただけなのに」などに出演、今回の「みんなのミュシャ」では音声ガイドも務めることになりました。しかも千葉さんがミュシャになりきって語りかけてくれるのです。前世紀初頭のパリやプラハで活躍したミュシャが現代日本に蘇り、素敵な声で何を教えてくれるのか、今から楽しみです。
ミュシャの絵には背景に花や星が散っていることがありますが、それをまねてフラワーシャワーでの撮影になりました。
「これまでにミュシャの展覧会は何度か開かれてきましたが、今回は違う切り口の構成です。絶対に新しい発見があると思います」というのは山田さん。「今回の展覧会ではミュシャの作品だけでなく、1960〜70年代にアメリカやイギリスのフラワー・ムーヴメントやサイケデリック・ムーヴメント、日本の少女マンガに与えた影響に注目しています」
一見、ミュシャとは関係なさそうなこのマンガもあのレコード・ジャケットもミュシャへのオマージュ!?という意外な発見があるかもしれません。美術史の新しい楽しみ方ができそうです。
会見中に突然「ミュシャのポージングをしてください」と無茶ぶりされる二人。お題の《舞踏—連作〈四芸術〉より》は体を思い切り反らせる、かなり難易度の高いものです。
自身も絵を描くという千葉さんはポスターなどで、ミュシャが限られた色数で繊細な表現をしているのに驚いた、といいます。筆で描くのとは違って版画にはさまざまな制限があり、高度な技術力が必要とされるのです。「パステル画のような淡い色調に惹かれますね。指先にまでポーズが決まっているのもすごい、と思います」と千葉さんが言うと、「上手い画家は手が上手いんですよ」と山田さん。演技でも手で感情を表すことがあります。絵でも芝居でも似たようなことがいえるのかもしれません。
ティップネス福池部長の真剣な指導であなたも《舞踏》ポージングにトライ! 現在、展覧会公式youtubeに4本の動画がアップされています。
記者会見では「ミュシャ体操」についても発表されました。「ミュシャ体操」とは《舞踏—連作〈四芸術〉より》のような難しいポージングを可能にする、美しいボディとしなやかな筋肉を手に入れるエクササイズのこと。展覧会公式youtubeの動画ではティップネス部長、福池和仁さんが指導してくれるのですが、「筋肉のプロ」としてミュシャの絵の「僧帽筋」や「広背筋」などの説明もしてくれます。この観点から改めて彼の絵を見ると、筋肉や骨格が実に正確に捉えられていることがわかります。その観察眼、デッサン力は画家の中でも抜きんでたもの。「ミュシャ体操」は美ボディを手に入れながらミュシャの絵の秘密もわかる、一石二鳥の体操なのです。
二人の天才を見守ったアトリエ。
2019/06/07
広々としたアトリエ。木の内装が時を経ていい味になっています。
ミュシャはパリでいくつかのアトリエを転々としましたが、その一つが今もパリに残っています。閑静な住宅街、ヴァル=ド=グラース街の一角にあるアトリエはミュシャが最後に使っていたもの。吹き抜けになった高い天井のある、広々としたスペースです。ミュシャのあと、画家で舞台美術家のダニエル・ルラドゥールさんがアトリエにしていました。2007年に彼が亡くなったあとはインテリアデザイナーの奥様が住まわれています。ルラドゥールさんも国民的な芸術家でした。アトリエのある建物には彼の名前を記したプレートがかかっています。
アトリエのあるビルの入り口にはミュシャのプレートがかかっています。
ルラドゥールさん夫妻がこのアトリエに引っ越してきたのは40年ほど前のこと。今は建物にルラドゥールさんのほか、ミュシャのアトリエだったことを示すプレートが掲げられていますが、そのときはプレートがなかったので、ミュシャのアトリエだとは知らなかったそう。奥様はあるとき、買い物帰りに見知らぬ女性が門の前に立っているのに気づきました。彼女はミュシャの孫であり、ミュシャ財団理事長のジョン・ミュシャさん(第1回コラム参照)の奥様だったのです。そのときに初めて、そこが彼のアトリエだったことを知ったのでした。
ダニエルさんはこんな幻想的な絵を描いていました。ラフな筆致が人間の内面をあぶり出すような画面です。
ちょっとした演劇ができそうなぐらい大きなアトリエの内部は、主にダニエルさんが使いやすいように改修されています。絵のほかに、舞台美術家だったダニエルさんが演劇のために作ったものも置かれています。テーブルや棚の小物が幻想的な絵の雰囲気を強調しています。ダニエルさんが亡くなったあとも、インテリアはほとんど変えていないそう。 「夫は天井の高さが気に入って、ここをアトリエにすることに決めたんです。大きな窓から光がたっぷり入ってくるのも魅力でした。パリではこんなぜいたくなスペースはなかなか見つかりませんから」と奥様は教えてくれました。ミュシャもたぶん、同じような理由でここにアトリエを構えたのでしょう。
壁や家具を覆う大きな布が印象的です。ミュシャの絵のたっぷりとドレープがとられた服や、天井から下がる布などを思わせます。
プラハのミュシャ美術館にミュシャが使っていた頃の写真が展示されています。モノクロでアトリエの一部しか写っていませんが、アール・ヌーヴォースタイルの家具のほかに、動物の頭がついた毛皮やヤシの木、彫像などさまざまなものが置かれているのが見えます。この写真が撮られる数年前、1900年にはパリ万博でボスニア・ヘルツェゴビナ館を手がけ、成功を収めました。またこの頃すでに《スラヴ叙事詩》を構想しており、1904年からパトロンを求めて何度かアメリカに渡ります。この広々としたアトリエはミュシャにとって大きな転換期となった時期に、彼を見守っていた場所だったのです。
ミュシャの生涯を変えた“女傑”サラ・ベルナール
2019/05/24
「ジスモンダ」のポスター。豪華な衣裳やビザンチン風の背景にも注目です。(2018年、パリ・リュクサンブール美術館での展示)
1894年の暮れ、ミュシャが勤めていたルメルシェ印刷工房に急ぎの仕事が舞い込みました。世紀の大女優サラ・ベルナールの演劇「ジスモンダ」のポスターです。が、クリスマス休暇で誰もいなかった工房に残っていたのはミュシャ1人。彼が担当したポスターが街中に貼り出されるとその美しさ、斬新さはたちまち評判となり、剥がして持ち去る人も多かったといいます。サラもこのポスターを気に入り、ミュシャと6年間の専属契約を結びました。このシンデレラ・ストーリーは作り話である可能性もあるのですが、これが当時30代半ばだったミュシャの大きな転機になったことは間違いありません。それまで無名だった彼は一躍時代の寵児となり、注文が殺到することになったのです。
サラは1893年、パリのルネサンス座を買い上げます。「ジスモンダ」の公演もここで行われました。
ミュシャの人生を大きく変えたサラ・ベルナールは1844年(40年という説もあります)生まれ。美貌と美声で知られ、文豪ヴィクトール・ユゴーは「黄金の声」、ジャン・コクトーは「聖なる怪物」と呼んだと言われています。「ジスモンダ」のポスターが作られたころサラは50代でしたが、艶然とした美しさは衰えるどころか、自信と風格もあいまってますます輝きを増しています。彼女はセルフ・プロデュースに長けた女性でもありました。著名な写真家にポートレイトを撮らせ、オスカー・ワイルドに「サロメ」のフランス語版の戯曲を書かせています。トゥールーズ・ロートレックも彼女をモデルにポスターや版画を作りました。
「メデイア」のポスター。サラの左腕に描かれたヘビのブレスレットが後に実際のブレスレットになりました。(2018年、パリ・リュクサンブール美術館での展示)
サラはミュシャら若い芸術家の才能を見出し、育てたパトロンでもありました。「ジスモンダ」のポスターが好評なのを知った彼女は舞台終演後、このポスターを4000枚増刷、販売しています。またサラは「メデイア」のポスターでミュシャが描いたヘビのブレスレットを気に入り、宝飾店フーケに実物を作らせました。サラはミュシャに公演の演目やリハーサルといったことまで相談していたといいます。後に“モダン・ジュエリーの創始者”と呼ばれたルネ・ラリックが下請けデザイナーの立場を脱したのもサラ・ベルナールとの出会いが転機になっています。ミュシャがデザインし、ラリックが制作したユリの冠を舞台で着用したこともありました。
「ハムレット」のポスター。サラは男装してハムレットを演じました。こんなふうにジェンダーを超えるのも彼女の魅力です。(2018年、パリ・リュクサンブール美術館での展示)
こうして多くの芸術家を愛し、愛されたサラの私生活は実に豪快、女傑と言いたくなる大胆さです。恋多き女として知られ、生前から“スキャンダルの女王”でした。恋愛関係を取り沙汰された相手は両手に余ります。サラは醜聞すらも自らの名を広める手段だと考えていたのかもしれません。彼女は71歳のとき、舞台でのケガがもとで片足を切断しましたが、その後も座ったまま演技するなどして活動を続け、78歳のとき映画の撮影中に倒れて亡くなりました。文字通り舞台に生き、舞台で死んだ女優です。彼女のモットーは「Quand Même」、それでもなお、というものでした。どんな逆境や困難にも負けない不屈の精神を現しています。こんな“女傑”に見出されたミュシャの強運を感じずにはいられません。
制作の舞台裏がのぞける「ミュシャ美術館」。
2019/05/03
「ミュシャ美術館」、中央は「ジスモンダ」ポスターの校正刷り。中央でカットして縦につなげます。
ミュシャについて、ちょっとレアな資料を揃えているところがプラハにあります。1998年にミュシャ財団の協力で開館した「ミュシャ美術館」は世界で唯一のミュシャ専門の美術館。7つのセクションにわけて彼の作品を紹介しています。たとえばポスターでも完成品はもちろん、校正刷り(色などを確認するためにテストとして刷ったもの)を展示しているのがユニークです。彼のポスターのうち、女優などをほぼ等身大で印刷した縦長のものは一度に刷ることができないので2つに分割して印刷し、あとから継いでいました。館内に並ぶ貴重な校正刷りからはそんな発見もあります。
ミュシャが8歳の頃描いたという磔刑図。8歳でなかなかここまで描けるものではありません。
この磔刑図はあんまり上手じゃないなあ、なんでこんなものが展示されているんだろう、と思ってよく見たらミュシャが子供のころ描いたものでした。年代ははっきりしませんが、おそらく8歳頃と思われるそうです。8歳ならかなり上手なほうじゃないですか。これは大変失礼しました、という気持ちになりました。美術館のパンフレットによるとミュシャは歩くより先に絵を描き始めたのだそう。お母さんはそれを見て、はいはいしながらでも絵が描けるよう首に鉛筆をくくりつけたのだそうです。これはほんとかな……、と思ってしまうエピソードですが、おそらく本当なのでしょう。禅寺に預けられた雪舟が絵ばかり描いているのをとがめられ、柱に縛りつけられていたのに、床に涙でねずみの絵を描いたという話も思い出します。
〈スラヴ叙事詩〉のためにポーズをとる人々。腰を曲げるなど不自然なポーズのときは支えも使っています。
ミュシャはパリ時代から家族や友人をモデルに写真を撮り、それを元に制作していました。その「元ネタ」になった写真も展示されています。とくに〈スラヴ叙事詩〉など多くの人が登場する絵画ではご近所の人々まで動員し、民族衣装や帽子などを着せてポーズをとらせています。彼は写真をあくまでも絵のための資料と考えていたようですが、写真そのものも見応えがあるものです。この他に家族写真や、チェコスロヴァキアの初代大統領、トマーシュ・マサリクやチェコを代表する作曲家、レオシュ・ヤナーチェクとのツーショットもあり、ミュシャが国民的画家として認知されていたことがわかります。
ミュシャが使っていた家具。アール・ヌーヴォー的な曲線がアクセントになっています。
館内にはミュシャが使っていた家具なども並んでいます。彼は何でもため込むタイプで、パリで購入したものもプラハまで持ってきていました。さらにパリで成功したため、アトリエのキャビネットの引き出しにはいつも現金がいっぱい入っていました。ミュシャの友人たちはみんなそれを知っていて、勝手に持っていっていたそう。引き出しが空になるとミュシャはまたそれを補充していたのだそうです。太っ腹というか、お金には頓着しないタイプだったようです。絵を描いていれば幸せで、それ以外のことに気を使うのはちょっと面倒だったのかもしれません。そんな人となりも伝わってきて、興味のつきない美術館でした。
ミュシャを育んだチェコの美意識
2019/4/12
かわいらしい赤い屋根が続くプラハの街並み。
プラハの街が楽しいのは、いろいろなスタイルの建築があるからでしょう。どこにでもある近代的なビルがあまりないのも魅力です。ヨーロッパ大陸の中央に位置するプラハは、14世紀からイタリア、フランス、スペイン、ドイツなど各国から学者や芸術家が訪れる「文明の十字路」でした。また、ふたつの世界大戦でも大きな被害がなく、その後社会主義政権が続いたため大規模な開発がされていません。その結果、現在のプラハはルネサンスやバロックなど時代ごとの建築様式の建物がひしめきあう「建築博物館」になっています。さまざまなデザインの塔が立ち並ぶ「百塔の街」、きらびやかな装飾で彩られた「黄金のプラハ」といった言葉はこんな歴史を背景に生まれました。
「ストラホフ修道院」の「神学の間」。修道院の牧師だったシアルド・ノセツキーが天井画を描いています。
ただ街を歩いていても面白いプラハですが、ぜひ中に入ってほしい建物がいくつかあります。12世紀に創建され、17〜18世紀にバロック様式で再建された「ストラホフ修道院」はその一つ。教会やブリュワリー(ビール醸造所)などいくつかの建物がありますが、中でも図書館の天井画はため息が出るほど美しいもの。ここには「哲学の間」「神学の間」の二つの部屋があり、あわせて10万冊以上もの本を所蔵しています。印刷術が発達する前の時代の本はとても高価なものでした。壮麗な装飾には貴重な本にふさわしい空間を、と願った人々の思いが感じられます。
「聖ミクラーシュ教会」内部。プラハには2つの「聖ミクラーシュ教会」がありますが、こちらはヴルタヴァ川西岸のマラー・ストラナ地区のものです。
「百塔」の中でもひときわ目立つのがプラハで最も有名なバロック建築「聖ミクラーシュ教会」です。こちらも「ストラホフ修道院」と同時期の18世紀に再建されたもの。鐘楼の高さは79メートル、その脇に立つドームの直径は20メートル、ドーム内部の高さはおよそ57メートルもあります。こちらは「ストラホフ修道院」よりさらに密度の濃い装飾がみものです。祭壇にはバロック特有のねじれた柱が、天井にはびっしりと絵が描かれています。ミュシャをはじめとするチェコの人々の遺伝子にはこんな美意識が流れているのです。
初期キュビスム建築の傑作「黒い聖母の家」。角に黒い聖母像があるのでこの名前があります。中にはキュビズム・ミュージアムやショップ、カフェが入っています。
ここで、これまでの建物とはまったく違うテイストのものをご紹介しましょう。チェコにしかない「キュビスム建築」です。20世紀初頭、ピカソやブラックらのキュビスム絵画に影響を受けた、鉱物の結晶のようなデザインがされています。この頃、チェコではオーストリア=ハンガリー帝国から独立しようという機運が盛り上がっていました。キュビスム建築の中でも「ロンド・キュビスム様式」と呼ばれる建築では、スラヴ神話から着想したという円柱や円弧が多用されます。ミュシャは当時、スラヴ民族の歴史を描く「スラヴ叙事詩」の制作に没頭していました。キュビスム建築とミュシャ、スタイルはまったく違いますが、民族独自の芸術を築き上げたいという思いは共通していたのです。

 

プラハでミュシャが残した空間へ。
2019/3/22
モザイク画やアール・ヌーヴォー調の手すりで飾られた「市民会館」は、プラハの街の中でもひときわ目立つ建物です。
 「市民会館」は、プラハ中心部の一大観光名所、旧市街広場からも近い一角にある、プラハ交響楽団の拠点「スメタナ・ホール」などがある複合文化施設です。建物正面にはモザイクでアール・ヌーヴォー・スタイルの絵が描かれていて、テラスの手すりにも繊細な装飾が。一階にあるカフェもアール・ヌーヴォーの香り高いおしゃれなスペース。が、実は私、これまで入ったことがありませんでした……。今回初めて、ミュシャが手がけた「市長の間」に足を踏み入れてみました。
「市民会館」ではミュシャはこの「市長の間」のみを手がけました。この部屋ではカーテンなどもデザインしています。
 大きなドアから一歩入るとアーチ状の大きな窓から光がたっぷり入ってきます。その天井には円形の画面に大きな鷹が。鷹はスラヴ民族の守護神であり、統一のシンボルなのだそう。丸くなった天井から柱に続く三角形の画面には人物画が描かれています。剣を手にこちらを見据える人、腕組みをしてにらみつける男性……。その目力にちょっとたじろいでしまいます。振り返ると、ドアや窓の上部のアーチ状になった壁面にも人々の絵が。暗い青を背景に立つ半裸の男性など、どの人にも力がみなぎっています。部屋の中にいるとこれらの人々に取り囲まれて、何かを訴えかけられるような気持ちにもなります。
壁画の深い青は夜明け前の空のようにも見える「市長の間」。金の装飾との対比はさすがのデザイン・センス。
 この「市民会館」が完成した1912年当時、チェコはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあり、民族自立の気運が高まっていました。音楽では民族音楽のエッセンスを取り入れたスメタナやドヴォルザークらが活躍しています。ミュシャも例外ではなく、1910年にアメリカからチェコに戻って「市長の間」の装飾に着手しました。目力の強い人物像には、祖国愛に燃える彼の熱い思いが反映されているのでしょう。こういった政治的なプロパガンダともいえる絵でも優美さを失わないのはさすがミュシャ、と思います。彼はこの「市長の間」とあわせてスラヴ民族の苦難の歴史を描いた大作《スラヴ叙事詩》の制作を始めます。「市長の間」は《スラヴ叙事詩》のスピンアウトともいえる作品なのです。
ミュシャのほか、全部で18名の画家による大ステンドグラスが並ぶ聖ヴィート大聖堂。内部では、薄暗い堂内にまばゆい光が差し込む様子が実にドラマチックです。
 プラハにはもう1カ所、ミュシャの大作を見ることができる空間があります。プラハ城内にある「聖ヴィート大聖堂」のステンドグラスです。これがまたとにかく大きい!聖堂自体が「大聖堂」の名にふさわしく奥行き124メートル、幅が60メートルあり、ステンドグラスも近くに立つと上の方は見えなくなりそうな勢いです。ミュシャはここに、スラヴ民族にキリスト教を広めたキュリロスとメトディオス、2人の聖人の生涯を描きました。ポスターなどでは繊細な中間色を駆使するミュシャですが、通常のステンドグラスと違い、ガラスに油彩で描いているのでビビッドな色使いに驚かされます。「市民会館」と「聖ヴィート大聖堂」、二つのミュシャ空間が訪れる人を圧倒するプラハは、やはり奥が深いのです。
写真:©Ikuo Yamashita

 

謎めいた存在がうごめくプラハで、ミュシャの魂が漂う「ミュシャ・ハウス」へ。

 

2019/3/1
プラハで一番有名な観光名所「天文時計」。一定の時間になると人形などが出てくるからくり時計です。
 だいぶ前に行ったプラハは、とにかくかわいい! というイメージでした。街並がきれいで、「看板のないパリみたいだ」と思ったのを覚えています。建物にいちいち浮き彫りや絵が描いてあって、売ってるお土産も素朴。チェコ語でジェクイ(ありがとう)というと、恥ずかしそうに微笑んでくれるのもかわいい。今回、「みんなのミュシャ」公式ブロガーとして久しぶりにミュシャゆかりの街プラハに行くことになり、さてどうなってるかな、と楽しみにしていました。久しぶりのプラハは人が多くてびっくり!ベネチアなみの大観光都市に変身していました。でも愛らしい街並みは健在です。あまりうるさい看板もなくて一安心です。
「ミュシャ・ハウス」の室内。実際はもっと暗くて、いかにも何か出てきそうです。瞑想に誘われるような気もします。
 相変わらずかわいいプラハですが、路地を一歩入るとゴーレム(泥で造った、自分で動く人形)が出てくるんじゃないか、そんな夢と現実とが入り混じる独特な空気も流れています。何というか、明るい表面の裏に昔からうごめく謎の存在がいるような感じなのです。今回はその「怪しいプラハ」の代表のような場所を訪ねました。アルフォンス・ミュシャの孫であり、ミュシャ財団の理事長を務めるジョン・ミュシャさんの家、通称「ミュシャ・ハウス」です。玄関から一歩脚を踏み入れると、たくさんのものがひしめきあっています。急に外とは違う香りが漂ってくるような、濃厚な気配が立ちこめます。この世の者ではない何かが現れても不思議ではない感じです。実際に「出た」「見た」という話もあるそうで、それももっともだ、と思えてきました。
日本製なのですが、ヨーロッパの人にとってはもちろん、日本人から見てもエキゾチックな感じがする金属の壺。
 この家は1950年にジョンさんの父、つまりミュシャの息子であるイェジさんが購入したもの。ミュシャは1939年に亡くなっているので、彼がこの家に住んでいたわけではありません。空間を埋め尽くす謎めいたオブジェはアルフォンス・ミュシャ、イェジ、ジョンさんの三代にわたって集めたものだそう。部屋にぎっしりと並んだものの中でも、我々日本人としては日本的なものに目が行きます。日本での展覧会に出品される大きな金属の花瓶はやや西洋的ですが、輸出またはお土産用に作られたものかもしれません。この頃はゴッホやモネなど多くの画家が日本美術に影響を受けた作品を作っていますが、ミュシャも例外ではありませんでした。
ミュシャのトレードマークとも言える縦長のポスターは日本美術の影響を受けたもの。ボナールなど、他の画家も掛け軸のように長い絵を描いていました。
 ミュシャ・ハウスのコレクションには、今となっては誰がどこで買ったのか、いつの時代のものなのかわからないものもたくさんあるそう。胸像、十字架、アール・ヌーヴォーの花瓶、ビロード張りのソファ、寄木細工の箱、剥製をいかにも生きているように配置したオブジェ、どうやって演奏するのかわからない楽器、革張りの表紙の本……。もしここが博物館だったら、学芸員は説明文をつけるのに苦労するでしょう。ミュシャの絵にも日本だけでなく、チェコやその他のヨーロッパの歴史や文化が複雑に融け合っていて、彼にしか描けないものがあります。ミュシャ・ハウスで彼の創作の秘密を垣間見たような気がしました。
写真:©Ikuo Yamashita
(プロフィール) 青野尚子:アート・建築を主に扱うライター。共著に「美術空間散歩」(日東書院本社)、「建築がすごい世界の美術館」(パイ インターナショナル)、「写実絵画のミューズたち」(別冊太陽)。PEN、カーサ・ブルータスなどの雑誌・ウェブに寄稿、これまでにル・コルビュジエ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの記事を担当。「アートも建築も実際に見ないと」というのを言い訳にあちこち楽しく旅をしています。

※参考文献 「ミュシャ パリの華、スラヴの魂」(小野尚子、本橋彌生、阿部賢一、鹿島茂著 新潮社)、「もっと知りたいミュシャ」(千足伸行著、東京美術)