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長崎…原爆投下76年 櫻井翔×「AI語り部」

2021.08.09



都内にある映像スタジオ。

○櫻井
「イスが置いてある・・・」

○『AI語り部』山脇さん
「皆さんこんにちは」
○櫻井
「こんにちは」

○櫻井
「うわ本当に(ご本人が)いるみたい・・・」

山脇佳朗さん、87歳。

76年前、長崎で被爆した経験を「語り部」として伝えています。

その証言映像で作られた「AI語り部」は、実際に会話ができるのが特徴です。

○櫻井
「Q戦時中はどのような暮らしをされていましたか?」
○『AI語り部』山脇さん
「お米をはじめ、塩・砂糖など食料品はほとんど配給制でした」

○櫻井
「Qその中での楽しみはありましたか?」
○『AI語り部』山脇さん
「ほとんど楽しみというのはありませんでしたね。
  早く空襲警報とか警戒警報とかが解除されればいいな
  という思いだけで暮らしていました」
○櫻井
「すごいな・・・」

事前に撮影した証言から
AIが質問に合ったものを選んでいます。
さらに。

○『AI語り部』山脇さん
「何かないですか?」

○櫻井
「質問が途切れると問いかけてくれるんだ・・・」

被爆した時のことについて、尋ねました。

○櫻井
「Q原爆が落ちた瞬間について教えてください」
○『AI語り部』山脇さん
「青白い閃光が走った瞬間、
 私たちは目と耳をふさいで畳の上に伏せました」
   てっきり私は自分のうちの庭に直撃弾が落ちたと思いました」

1945年8月9日、午前11時2分。
原爆が投下された長崎。

7万人以上が犠牲となりました。

当時11歳だった山脇さんは自宅で被爆。
しかし爆心地に近い工場で働いていた、父・八寿雄さん(当時47)は亡くなりました。

○『AI語り部』山脇さん
「8月10日、原爆投下の翌日ですね。
 父の工場に行く途中、
 道ばたに転がっているたくさんのふくれあがった死体。
   それがとっても怖かったです。
 しかし、父の遺体を見た後はあまりにもショックが大きくて。
   色んな道ばたに転がっている遺体を見ても,もう怖いとか気持ち悪いとかいう感情はなくなりました」

○櫻井
「Q今でも思い出すことはありますか?」
○『AI語り部』山脇さん
「父の遺体を火葬した翌日、
 骨を拾いに行ったら父の遺体が半焼けで。
 頭の頭蓋骨の部分を火箸でつついたら、
 頭の頭蓋骨の部分が石膏細工を崩すよりももろくぼろぼろと崩れて、
   半焼けの脳が流れ出したんですね。
 その光景は、今でも浮かんでくるんですよ」
○櫻井
「凄惨だな・・・」

まだ試作段階のAI語り部。
なぜこの取り組みに参加したのか。
山脇さんご本人にうかがうことができました。

○櫻井
「継承の仕方・伝えていく方法のあり方としてどう思われました?
 このAI語り部というのは?」

○AI語り部に協力・山脇佳朗さん(87)
「私の被爆体験がAIを介してより多くの人に伝わるのはありがたいと。
 必要だなと思いました。
   毎年2、3人ずつ亡くなっていく、あるいは病気で倒れるということで、
   話す人がどんどん減っているんですね。
 ですから、直接話す機会がだんだん少なくなってきますから、
 私たちの話をよりリアルな映像とか音声で遺していくっていうのは非常に貴重だなと思いますね」

○櫻井
「山脇さんの想いはすべて伝えられましたか?」
○山脇さん
「はい、私はそう思います」

○櫻井
「なぜそこまで伝えていこうという想いが大きいんですか?」
○山脇さん
「原爆を体験した悲惨な光景とか残酷さを体験した私たちが、
 直にその体験を伝えるというのが
 核兵器・原爆をなくすより有効な道ではないか、
 より有効な方法ではないかということに気づいたんですね」
○櫻井
「では、すべては
 ”原爆をなくすために”というところなんですね」
○山脇さん
「そうです。
   私も87歳ですから、あまり話せる年数がないと思うんですけどね。
   同じ被爆者の人たちもですね、同じ気持ちで音声とか映像とか記録を遺していく。
 こういう努力を続けていかないといけないと思いますね」

 

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