G7広島サミット…被爆者の祖父と語り継ぐ孫
○櫻井
「広島が市内一望できますね」
5月19日から、
はじめて被爆地で行われるG7広島サミット。

○櫻井
「原爆ドームを上から望む場所に
やってきました。
ここから600m上空で
原爆が爆発しました」
78年前、広島に落とされた1発の原子爆弾。

まさにこの一帯を、
G7各国首脳が訪れるとみられます。
「核なき世界」実現に向けて、
歩みを進められるのか。

被爆者の思いは…
市内に住む被爆者の山下拓治さん93歳と
孫の裕子さん14歳。

当時15歳だった拓治さんは、
学徒動員されていた工場で被爆。
幸いけがはありませんでしたが、
母と妹・弟は、全身に大やけどを負いました。

○被爆者の山下拓治さん(93)
「ここでずっと手当てしていたんです」
○櫻井
「看病していたのは、この部屋ですか?」
○被爆者の山下拓治さん(93)
「ええ、ここです」
○櫻井
「看病というのはどういった手当てを?」
○被爆者の山下拓治さん(93)
「あの頃は薬がなかったですからね。
食用油をガーゼに塗って貼って、
それを貼り替える。
肉と一緒にガーゼについて
はがれるんですよね。
癒えたと思ったら、
はぐときに肉と一緒にはがれる」
『痛い痛い』と言うのが耳に残ってますよ。
あのはぐときのむごさというか…」

妹の睦子さんは終戦の日に、
弟の宏司さんはその6日後に亡くなりました。
○櫻井
「お2人の供養は、どうされたんですか?」
○被爆者の山下拓治さん(93)
「供養ですか。火葬は自らの手で…」
○櫻井
「拓治さんが?」
○被爆者の山下拓治さん(93)
「ええ、やるしかないですね」
○櫻井
「しかない…」

妹・弟を棺に入れて、
担いで裏山にある火葬場へ運んだという拓治さん。

○妹・弟を自身の手で火葬した
被爆者の山下拓治さん(93)
「このくらいを掘って、深さが…。
野焼きみたいな、最後は」
自らの手で穴を掘り、2人を火葬しました。
焼け終わるまで見続ける必要があり、
その時の光景が、
今でも目に焼き付いているといいます。

○妹・弟を自身の手で火葬した
被爆者の山下拓治さん(93)
「縮むんですよね、身が。
そういうのを見たらやりたくなかったし、
焼け残りの死体を犬がくわえて逃げたりね。
…むごいことばかりですよ」
実は、拓治さんはこの壮絶な体験を
去年まで77年間、
子供や孫の誰にも話してきませんでした。
口を開くきっかけとなったのが、
孫の裕子さんでした。

○拓治さんの孫・山下裕子さん(14)
「ジュニアライターの活動で
おじいちゃんの話を聞きたい
活動として聞いて新聞で書き残していきたい
というのがあって」

地元新聞社のジュニアライターとして、
平和活動の取材をしている裕子さん。
その一環で、去年、拓治さんに
「被爆体験を取材したい」とお願いしたところ、
初めて明かされたといいます。
○拓治さんの孫・山下裕子さん(14)
「自分の手で火葬したというのを聞いて…
衝撃的でした」

裕子さんがまとめた取材ノートには。
「大やけど。誰かわからないくらいひどかった、
言葉にならなかった」
「肉親を自分の手で焼く」

○櫻井
「お話を伺ったおじいさんの体験と、
普段とのギャップは感じるところはありました?」
○拓治さんの孫・山下裕子さん(14)
「普段はニコニコしていて優しくて
実際に原爆の話を聞いたときはすごく真剣で、
時には悲しそうな顔もするし
そういう表情を見たことがなかったので、
つらかったんだなって」
この証言を、裕子さんは記事にまとめました。
(中国新聞2022年8月1日掲載)
○拓治さんの孫・山下裕子さん(14)
「記事になったことで証言が残せていけるから、
安心。ほっとした」
「自分がやらないと、
人任せにしていたら誰もやってくれない」
拓治さんが裕子さんに体験を明かした理由、
それは平和への思いでした。

○櫻井
「同じ経験はしてほしくない?」
○妹・弟を自身の手で火葬した
被爆者の山下拓治さん(93)
「それはありますね。あってほしくないですね。
生きとる人間全員がそうじゃないんですか…。
身近におる孫が幸せになってくれれば、
全世界の人がそういう風になるでしょう」
「断片的にしか話せませんけど、
それをつなぎ合わせて
聞いてくださる人が意思を理解してくれれば
100分の1でも少しでも、
やっぱり伝えたいですね」
被爆地・広島から「核なき世界」へ。
拓治さんのG7サミットへの思いは。
○妹・弟を自身の手で火葬した
被爆者の山下拓治さん(93)
「最近のG7サミットを見ると、
お祭りに利用されているだけという感じ」
イベントも大切でしょうけど、
心底から今後生きていく人間が
平和に暮らせるような世の中にしてほしいですね」