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長崎の原爆…“救護被爆”息子の死を機に語り継ぐ父

2023.08.14

長崎県・諫早市に住む
氏原和雄さん93歳。
自宅近くを案内してもらうと…

○櫻井
「ここのあたり、
 すごくきれいな景色ですね」

しかし78年前、この空に…。

○櫻井
「8月9日に光ったのは、
 あちらの方向?」
○氏原和雄さん(93)
「あそこ。諫早駅にいて
 あっちの方向がピカーっと。
 こんな暑い日だった」

長崎市に投下された原爆。

諫早駅は爆心地から
およそ19キロの距離で
直接の被害はありませんでしたが、
氏原さんは、この場所で
被爆することになったのです。

その理由が「被爆者健康手帳」に
書かれていました。

○櫻井
「救護、看護」
○氏原和雄さん(93)
「諫早駅でした、ということ」

被爆者の救護による
「救護被爆」でした。

○櫻井
「救護活動は、
 具体的にどのようなことを?」
○救護被爆した氏原和雄さん(93)
「負傷者や、やけどをした方が
 長崎市内では収容できないので
 諫早とかに列車で運んできて、
 外のホームまで運ぶ作業をやっていた」

これは投下翌日に撮影された
救護活動の様子。
やけどをした被爆者が、
手当てを受けているのがわかります。

○救護被爆した氏原和雄さん(93)
「やけどの水ぶくれが垂れ下がって、
 体に触って運ぶことができない。
 触ったらぱりっと皮がはげて。
『痛い痛い…』『水を水を…』と
 うめき声と交差して悲惨な状況。
 私はこれが生き地獄だと」

こうした被爆者の衣類などに
残った放射線から
間接的に被爆することを
「救護被爆」といい、
被爆者のおよそ1割を占めています。

氏原さんは当時、救護被爆したことを
誰にも話さなかったといいます。

○救護被爆した氏原和雄さん(93)
「放射線を浴びた方は、
 嫁に来る人もいない、
 もらい手もないというような
 風評があった。
 だから私は、原爆の手伝いを
 したことは伏せていた」

結婚後も、家族にすら
打ち明けなかったといいますが…。

○櫻井
「お話になるきっかけは
 あったんですか?」
○救護被爆した氏原和雄さん(93)
「私の子供が(被爆)2世が
 白血病にかかった」

息子の浩順さん7歳。
ある日体調を崩し、検査をしたところ
「白血病」と判明。
この時…。

○救護被爆した氏原和雄さん(93)
「病院の先生が
『ご夫婦お2人どちらかが
 原爆に関係ありませんか』と。
 はじめて私は、先生に
『実は私が原爆の放射線を
 浴びたような作業をしました』
 と言うと、先生が
『おそらくあなたが
 救護被爆をされたことで
 子供さんが白血病に
 かかったんじゃないか』と言われた」

「元気になったらお医者さんになる」
そう話していた浩順さん。
診断からわずか4か月で、
息を引き取りました。

○救護被爆した氏原和雄さん(93)
「言葉には出し切れないような
 気持ちでしたね」

国は、被爆の遺伝的な影響は
認められない、としています。
しかし氏原さんは、
“息子の死は自分のせいではないか”
と自らを責めました。
そして被爆を明かし、
核兵器廃絶を訴える活動を始めました。

○救護被爆した氏原和雄さん(93)
「(浩順が)私の背中を押して
『お父さん、こういうことが
 二度とないように頑張りなさい』と
 いうような気持ちで、
(核兵器廃絶の)活動に踏み切った」

そして今年、
その思いを受け継ぐ動きも。
8月3日、
氏原さんの自宅を訪ねたのは、
市内の高校生。
諫早市が今年から新たに始めた
「証言ビデオ」の撮影です。

○諫早市の高校生 大澤心春さん(16)
「氏原さんの戦争の時のお話を
 聞きたいと思っています」

戦争の証言を映像として収録し、
今後インターネットなどで
公開していくといいます。

証言を聞いた高校生は…。

○諫早市の高校生 大澤心春さん(16)
「過去にあった歴史を
 風化させないためにも
 伝承されたことを
 自分なりに発信していきたい」

○櫻井
「証言される方が少なくなるなか
 映像で残るのは意味があると思う」
○救護被爆した氏原和雄さん(93)
「私も同感です。
 後世に引き継いで、
 核なき世界になるように
 つながっていけば幸い。
 本当ありがたい」

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