沖縄復帰50年「基地の町」24歳複雑な思い
訪れたのは沖縄県嘉手納町にあるアメリカ軍・嘉手納基地が見える展望台。
すると、聞こえてきたのは空気を破るような轟音。
○櫻井
「うわ・・・すごい音」
「自分のしゃべってる声が聞こえない!」
この音の正体は、F15戦闘機。
他にもオスプレイなど続々と軍用機が飛び立っていきました。
実はここ基地の目の前にある「道の駅かでな」。
基地の見える新たな展望台をつくり2022年4月にリニューアルオープンしました。
狙いは基地をみたい観光客。
年間およそ80万人の来場者を見込んでいるといいます。
○櫻井
「見に来られる方もたくさんいるんですね」
○道の駅で働く 宮良愛果さん(24)
「観光客の方も基地に興味を持ってくれている方が多いので」
こう話してくれたのは
道の駅のハンバーガー店で働く、宮良愛果(みやら・あいか)さん、24歳(取材時)。
店の看板メニューは
戦後、基地で働いていた祖父が
「アメリカの味や文化を広めたい」と作ったジャンボチーズバーガーです。
○櫻井
「うん!おいしい!」
道の駅内を他の場所も案内してもらうと…
○道の駅で働く 宮良愛果さん(24)
「騒音が数字で見られるメーターも付きました」
軍用機の音の大きさが分かる騒音計が。
アメリカ軍のグッズを売っている土産物店や
「“吉”の見える」と、「基地」と「吉」をかけた宝くじ売り場まで。
町の面積の8割以上をアメリカ軍基地が占める嘉手納町。
基地の存在が町の経済にも関わっているのです。
第二次世界大戦で、
日本で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が行われ、
民間人、9万人以上が犠牲となった沖縄。
敗戦後には日本本土と切り離されアメリカに統治されました。
撮影:大城隆盛 提供:沖縄アーカイブ研究所
外国に行く時と同様に
本土行きの船に乗る人たちの手には日本渡航証明書や身分証明書と書かれたパスポートが。
さらに通貨はドルに切り替わり、
車もアメリカに合わせて右側通行になりました。
そして50年前の1972年5月15日沖縄はようやく日本に復帰。
しかし基地がなくなることはありませんでした。
渡口彦信(とぐち・ひこしん)さん、95歳(取材時)。
嘉手納で育ち、沖縄戦にも参加。
海辺で見た数え切れない程の仲間の遺体が今も忘れられないといいます。
○櫻井
「復帰から50年たって今なお基地はあるけど」
○沖縄戦を経験 渡口彦信さん(95歳)
「そうですね。
戦略上沖縄が便利かもしれんがね
戦争のために基地をつくるわけですからね
我々の場合はやはり戦争は嫌だから。
みじめですからね。
一木一草みんな、命も、全部失いますから」
基地について、若い世代に向けては。
○沖縄戦を経験 渡口彦信さん(95歳)
「基地の無い平和な沖縄。
基地をなくすことは
簡単にできるのものではないって知っていますよ。
しかし黙っておったらねいつまでもそのままですよ。
だから意見は意見、主張は主張としてやるべきですよ」
生まれた時から基地があった宮良さんは。
○櫻井
「基地の賛成だとか反対だとか
そう言う話っていうのは身近にあるものですか」
○道の駅で働く 宮良愛果さん(24)
「小学校で、基地は反対だよって教えられていたので
小さい時は反対派だったんですが、
同級生のお母さんが基地で働いていて。
基地がなくなっちゃったら
家族とかも養っていけなくなっちゃうじゃないですか」
もちろん反対なりのこの騒音とか
マイナスな部分もあるんですが…」
○櫻井
「一言でなかなか?」
○道の駅で働く 宮良愛果さん(24)
「そうですね、一言では言いづらくて…すごく難しくて…」
賛成とも、反対とも言えない複雑な思い。
○櫻井
「基地について将来的にこうなったらいいなっていうことは?」
○道の駅で働く 宮良愛果さん(24)
「やっぱり沖縄の問題とすごく関わっているので
そこを解決しない限りは基地に依存する形というか」
○櫻井
「やっぱり日常になっている部分が多いんですか」
○道の駅で働く 宮良愛果さん(24)
「そうなんです。
だからもっと考える人が増えたら、
色々な人が考えて知ってもらえたら、
自分が浮かばなかったようなアイデアが出てくるので
多分みんなに知ってもらいたい気持ちがあります」