真珠湾83年“出撃の地”択捉島…戦争で奪われた故郷
○櫻井
「こんにちは。よろしくお願いします」
向田典子さん88歳。

かつて、北海道の北東部にある
択捉島に住んでいました。

○択捉島に住んでいた
向田 典子さん(88)
「これは鯨」
○櫻井
「捕鯨。こんな大きいんですね」
捕鯨など水産業が盛んだった港町。

そこで目撃した、ある光景が
今も目に焼き付いていました。
○択捉島に住んでいた
向田 典子さん(88)
「すごくたくさん船入っているなって。
湾の中にびっしり入って」
○櫻井
「それまで、そういうことはあったんですか?」
○択捉島に住んでいた
向田 典子さん(88)
「ないです」
○櫻井
「はじめて?」
○択捉島に住んでいた
向田 典子さん(88)
「はじめて」

択捉島の単冠湾に軍艦およそ30隻が集結。
数日後には、一斉に出撃したといいます。

○択捉島に住んでいた
向田 典子さん(88)
「出て行く時も、
いかりを揚げる音がすごかったです。
ゴーっていう音が」

向かった先はアメリカ・ハワイ。
アメリカ軍の拠点を奇襲した「真珠湾攻撃」です。
実はこのときの攻撃に参加した人物を、
私は取材していました。

元航空兵の吉岡政光さんです。

○真珠湾攻撃に参加した元航空兵
吉岡 政光さん(当時103)
「択捉島の単冠湾に停泊しているときに
艦隊司令官の訓示があって
はじめて、そこで『ハワイを攻撃する』と。
『12月8日を期して開戦せんとする。
相手はアメリカだ』と」
兵士たちも、
直前まで知らなかったという極秘作戦。

天候が荒れやすい半面、敵機に見つかりにくい
北側から進軍することが計画され、
その出発地点が択捉島だったのです。

向田さんの父・尚三さんは、
軍艦が集結した街の郵便局長でした。
その自宅に旧日本軍が突然やってきて、
情報が漏れないよう
「本土との通信を遮断」することを命じたといいます。

○櫻井
「ある日突然軍の方が来て というのは、
(家の中に)緊張が走りましたか?」
○択捉島に住んでいた
向田 典子さん(88)
「ものすごく緊張しました。
家の中が一変しました。
父も(軍に)おさえられて、
私たちも小さい子供だけど、
『騒いじゃいけない』と言われて
(部屋に)1つにまとめられて」
○櫻井
「外に出るなと?」
○択捉島に住んでいた
向田 典子さん(88)
「島民みんな『外に出てはだめ』と言われました。
『見てはだめ』と。でも隠れながら見て。
船の名前もみんな隠してありました」

真珠湾攻撃では大きな戦果を上げたものの、
戦局は次第に悪化し、
真珠湾攻撃から3年8か月後、
日本は降伏を発表しました。

しかしその直後、択捉島にソ連軍が侵攻。
家族は故郷を奪われたのです。

向田さんが、
自宅があった場所を訪れることができたのは
終戦から68年後のことでした。

○択捉島に住んでいた
向田 典子さん(88)
「『私たちの家はこの辺だと思う』って
兄が言っていました」
○櫻井
「何もないですね」
○択捉島に住んでいた
向田 典子さん(88)
「あまりにも変貌していたので、がっくりきて」
○櫻井
「少しは面影を感じられると思いました?」
○択捉島に住んでいた
向田 典子さん(88)
「何かもっと残っていると思ったけど、
何もなかったです」

その故郷・択捉島も、
現在は、ロシアのウクライナ侵攻をうけて
島に入ることすらできず、
慰霊式は、海の上から行われています。

返還をめぐるロシアとの交渉も、膠着しています。

○櫻井
「古里を追われるという意味では
世界各地、たとえばウクライナでも
同じようなことが起きていますが、
そういう現状をどう見ていますか?」

○択捉島に住んでいた
向田 典子さん(88)
「あんなこと、
なんでしなきゃいけないのかなと思います。
私たちだって、ウクライナのことが解決すれば
なんとかなるんじゃないかなって
思いももっていますし、
北方領土が少しでも往来できるようにならないか、
と思いながら
みんな(返還の)運動しています」

故郷を奪われてから、まもなく80年。
○櫻井
「80年たって、
戦争への思いはいかがですか?」
○択捉島に住んでいた
向田 典子さん(88)
「日本では
二度と起こってほしくないなと思います。
いやです」